第9話
九
私が小さい頃、お父さんとお母さんが死んだ。
秋の終わりに私はお父さんとお母さんと三人で手を繋いで歩いていた。おばあちゃんの店に行く途中だったと思う。
曲がり角に差し掛かった時、すごい速さの馬車が現れ、勢いよく曲がろうとした。馬車は横転し、お父さんとお母さんは私を守ろうとして馬車に轢かれてしまった。
環は目を閉じた。
店の近くだったから、見かけた近所の人がおばあちゃんのことを呼んでくれたんだろう。
倒れたお父さんとお母さんの身体にすがりついていたら、おばあちゃんと瑞光様が迎えに来た。
「お父さんとお母さんが……。ぜんぜん動かないの。お話してくれないの。血がいっぱいなの」
泣きじゃくる私の背中をおばあちゃんが撫でる。
おばあちゃんだって悲しかったのにね。おばあちゃんは優しいから、自分の悲しみよりも私を気遣ってくれたんだと今はわかる。
おばあちゃんは私を抱っこしようとしたけれど、重かったらしい。瑞光様が私を抱きかかえてくれた。
「八重を手伝ってあげてくれ。この店に居れば、いつかお前のお父さんお母さんに会える日が来るかもしれないよ」
瑞光が環を慰めた。
「なんで? お父様とお母様はどこにいるの? 今会いたい。すぐに会いたい。抱きしめてほしい。笑ってほしいのに。ねえ、お父様とお母様にはいつ会えるの?」
環は瑞光を責める。
「そうだな。あの世できっと準備しているから、そのうち来るかもしれない」
「今は環の側にいてくれないの?」
環の目に涙が溜まる。
「いつでもお前の父さんと母さんはお前の隣にいる。見えないだけで心配しているよ。この世とあの世はとても近いんだ。ただ、お前には見えないだけだ」
「私は今お父さんとお母さんに会いたい。手を繋ぎたい」
そういって、また私は大泣きしたんだっけ。
環は思い出した。
「ほら、甘酒だよ。熱いからゆっくりお飲み」
環の涙の顔を手拭いで拭い、八重は環に茶碗を渡した。
「お父さん……、お母さん……」
涙で甘酒がしょっぱかった。
それから環は祖母の八重と暮らすことになった。
ある日、八重の辻の家を手伝っていると、瑞光が遊びに来た。瑞光は環の元を数日おきに訪れるようになっていた。
「瑞光様、いつも来てくれてありがとう」
環が言う。
「当たり前のことだ」
瑞光は微笑んだ。
「ねえねえ、瑞光様、私の家族になって?」
環は瑞光の足に抱きついた。
「ほほう。環はなかなか良い提案をするな」
瑞光はまんざらでもない顔をする。
「おや、この子ったら、瑞光様にそんなこと言って。すいませんね、瑞光様」
八重は眉を八の字にした。
「だって、お父さんもお母さんもいなくて寂しいんだもん。瑞光様なら家族になってくれるかなって」
「そうかそうか。家族か。それはいいことだ」
瑞光は微笑んだ。
「瑞光様はお父さん……かな。ううん、お父さんはあの世にいるし。じゃあ、お兄ちゃんかな」
環は瑞光を見る。
長い髪に着流しの着物。整った顔立ちをしていて、痩せているのに意外に筋肉のある体つきだ。それにいい匂いがした。
「なんか、お兄ちゃんって感じじゃないわ」
環は顎に手を当てて考える。
「そうなのか」
瑞光は傷ついた顔をした。
「そうだ。婚約者っていうのがいいわ。結婚相手のことを婚約者って言うんでしょ。私も婚約者が欲しかったの。瑞光様は、私の婚約者がいいな」
「環は婚約者の意味を知っているのかい? 物知りだね」
瑞光は興味深そうに尋ねた。
「環、お前は瑞光様に何て罰当たりなお願いをしているんだい。分かっているのかい? 瑞光様は……」
「いいんだ、八重。私を恐れず、言いたいことを言える娘だ。実に面白い」
瑞光は目を細めた。
「結婚する約束をした人でしょ。許嫁ともいうんだって、お店に来た人が言っていたよ」
「そうだよ。環は私と結婚するのかい?」
「うん、瑞光様は優しくてかっこいいから好き。お嫁さんになりたいな」
「そうかそうか。それもいいな。じゃあ、もう少し大人になったら、嫁においで」
瑞光は環の頭を撫でた。
「婚約者は手を繋ぐんだって」
環がムッとして言う。
「そうかそうか。手が繋ぎたいのか」
瑞光は環を抱き上げた。
「それは抱っこって言うんだよ」
環は頬を膨らます。
「嬉しくなったら、大人でもこうやって抱っこするんだよ。この方が手を繋ぎやすいだろう?」
「ほんとに?」
環は満面の笑みになる。
八重は目を白黒させている。
「八重、私はこの子を嫁にするよ」
「瑞光様…‥」
八重は複雑な顔をした。
そうだ。私が結婚してって瑞光様に言ったんだ!
環は思い出して顔を赤らめた。
瑞光様のことが大好きで、「お嫁さんにして」と頼んだんだ。
うわ、瑞光様に婚約のおねだりするなんて!
恥ずかしくて環の身体中が熱くなる。
「どうやら環は花嫁の約束を思い出したらしい」
瑞光は嬉しそうな顔をした。
「瑞光様、本当に私でいいのですか?」
「ああ、環がいいのだ。お前と暮らすのは、楽しいし、飽きない」
「結婚ってそういうモノじゃないと思うんですけど」
「そうなのか?」
「私は私を好いている人と結婚したいです」
環が瑞光を睨む。
「そうかそうか。やはり環がいい。私はお前のことを気に入っているし、好いているよ」
「なんか、そういうんじゃなくて。もっと熱い感情で。右京さんと千景さんとか、義家さんと香澄さんのように、両思いになってですね、好き合って結婚したいんです」
環は自分で説明していて汗が出てきた。
「大丈夫。環、これは熱い感情だ。ずっと結婚しようと口説いていたじゃないか。環は本気にしていなかったが。ああ、長かった。ようやく環が思い出してくれてよかったよ」
瑞光が笑顔になる。
「本当に結婚していいのですか?」
「ああ、環がいい」
瑞光が環を抱っこする。
「ちょ、ちょっと」
「あの時もこうやって抱っこして、手を繋いだろう?」
「あああああ。恥ずかしい」
環は瑞光に抱きかかえられながら顔を手で覆う。
瑞光は大きく笑った。
「あの、瑞光様。すいません。私の記憶がなくなったのは、もしかして死んだから?」
環の問いに瑞光は小さく頷いた。
「お前は流行りの腸チフスにかかったんだよ。何日も高熱が出て、食欲はなくなって、どんどん痩せていってしまった。一生懸命看病したんだけれど、環はこの世からいなくなってしまったの」
八重は目頭を押さえた。
「え」
環は全く覚えていなかった。そう言われてみれば、布団で寝ていたような気もしないではない。頭が痛かったような……。
「瑞光様がね、環は婚約者だからといって、この店の管理人の一人として魂魄をとどめてくれたんだよ。それは覚えているかい?」
「……」
八重に言われて、記憶の糸を辿るが、全く覚えていなかった。
ある日、私の前に突然瑞光様が現れたのだ。記憶はそこから再開されていた。
「ここはお前の場所だから安心しなさい」
瑞光様が優し気に微笑んでいた。
「ここっておばあちゃんのお店の辻の家ですよね? おばあちゃんは? おばあちゃんはどこにいるんですか?」
「いつか八重にも会えるだろう。それまで私と一緒にいるかい?」
「はい。瑞光様と一緒にいたいです。瑞光様とここで待ちます。おばあちゃんにもいつか会えるんですよね」
そう返事をしたことは覚えていた。
あれって、死んで自分のことがよくわかっていなくって、ぼんやりしていたときだったのか。
環は納得した。
「おばあちゃんは? いつ会えますか? どうしてお店にいないのですか?」
しばらくの間、毎日、環は瑞光に質問した。
「そのうちわかるよ。大丈夫。気長に待ちなさい」
瑞光様は小さく微笑むばかり。そのうち、環は聞いてはいけないことなのかもしれないと思い、胸に留めるようになった。
「今までいつの間にか店が綺麗に掃除されていたり、片付けられていたのは、おばあちゃんのおかげなの?」
環は大きな声を上げた。
「ああ、そうだよ。私も環に会いたかったよ」
八重は環の手の甲をさする。
「私も。おばあちゃんの料理のこと、すぐに思い出せなくてごめんなさい」
「八重は私に願い事をした。環が死して、尚、幸せになりますように。私は八重の願いを叶え、結婚の約束をした環を見守ることにした。辻の家は、違う世界の者を料理でもてなす場所。環がここにいて、八重に出会うことがあるならば、何か思い出の料理が必要だった。思い出さなくては、姿形は見えない。だから同じ店にいても二人は出会うことがなかったのだ」
瑞光が説明した。
「そうだったのね」
環は小さく頷いた。
「店にいれば、いつか必ずお前に会えるからそれまで待つと八重は言っていたよ」
瑞光は愛おしそうに環を見る。
八重は嬉しそうに笑みを浮かべていた。環は胸がじんと熱くなった。
おばあちゃん、待っていてくれてありがとう。
瑞光様、本当にありがとう。
環の目は涙で溢れていた。
「やっと環が花嫁の約束を思い出した。では、近々に結婚の儀を執り行おう。いそがしくなるな。環の花嫁姿はきっと綺麗だろう」
瑞光は上機嫌になる。
「本当に環さん、自分が死んでいることに気が付いてなかったの?」
千景が恐る恐る尋ねる。
「ええ。まったく。だって、いつもの通り動けるんだもの」
「そうよね、死んでいるなんてわからないわよねえ。よくできているもの」
香澄が環の手を取ってしみじみ観察した。魂だけになっても人の形はしていた。
「俺らは知っていたよ。だって、新聞の、流行り病の記事に環さんの名前が載っていたんだよ」
義家が説明した。
「そうなんですね」
「去年から今年にかけて腸チフスで亡くなった方が多かったの」
香澄が情報を追加した。
「環さんが学校にも来なくなって、いつの間にか環さんの荷物もなくなっていました。とても寂しく思っていましたのよ。この店で会えてどんなにうれしかったことか」
千景はしんみりと言う。
「とにかく、環さんが記憶を取り戻しましたし、おばあ様ともお会いできましたし。本当によかったですね」
香澄も微笑んでいる。
「お前ら、俺のことを忘れているだろう。おばあちゃんは俺が連れてきたんだぞ」
信一が憤慨する。
「おばあちゃんを連れてきてくれてありがとう。それから、心配してくれてありがとう」
環は信一に頭を下げた。
「店に様子を見に行くと、いつもおばあちゃんは寂しそうにしていたんだ。俺もおばあちゃんには世話になっているから」
信一は頬を掻いた。
「瑞光様と環さんが結婚か。何かご祝儀を考えないとな」
「ほんとうね、右京さん」
千景は右京に微笑んだ。
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