第09話 エンキ
エリアe09。
ニンフルサグの道案内の有効性は高かった。人間も魔物も少ない道を行ったら同じ距離を半分以下の時間で走ることができた。アリスは回復していたがしばらくは魔法を控えたかったし、マルゥの剣が折れてしまっていることを考えると戦闘を回避できるのはありがたいことだった。
夜だったため人も歩いておらず、居住区まで難なく来られた。
暗闇の中に煌々と照らされた電話ボックスが在った。周りにはなにもない。これがエンキのためにナンナが建てた電話ボックスだ。
本人は不在だろうから了承を得る必要はないと言われている。マルゥは電話ボックスまで近付いた。が、歩みを止めて腕を横に上げ、アリスを止めた。
電話ボックスの先の暗闇に、背の低い男が立っていた。
「へえ。この距離で気付くのかい」
男は公園を散歩でもするようなゆっくりとした足取りでこちらに向かって来る。
電話ボックスの灯りに照らされて、容貌が明らかになる。コントラストを落としたような男だった。褐色肌に灰色の髪色。そのミディアムマッシュの下からグレームーンストーンの瞳が覗いて、くゆりと揺らめいていた。まるで煙を孕んだかのような眼光に絡めとられる。
「
彼は
「夜は昼間と違ってどうしたって見ようって意識が働くからな。見ようとするってことはつまり行動を起こしてるってことだ。波は生じるぜ。そんで、悠長に話してるお前は何者だ?」
「ボクはエンキ。初めましてだったかな、ニンフルサグの子よ」
「初めましてだな」
「そちらは魔女のアリスだね。初めまして」
「初めまして」
挨拶を終えると、エンキは満足そうに微笑んだ。
「それで? わざわざ俺らを待ってたってことは、なにか用事があるんだよな? 電話を貸してくれねえとかそんなんか?」
「いいや。どうぞ使ってくれたまえよ。これはナンナが設置してくれたものだ。もしも使用の権利を主張するのならそれは彼の役目だ」
「なら、用はなんだ? 実は補完派だとか言うなら容赦しねえぜ」
「ははっ。おっかないね。大丈夫。ボクは中立。補完派でもなければ解放派でもないし、維持派でもないよ。ただ、ニンフルサグの子が旅をしていると風の噂で聞いた。それに興味を持った。確かにこの噂を立てていたのは補完派と言われる者たちだが、それを耳にすることに派閥は関係ない」
彼は両手を広げて無害をアピールした。しかしマルゥは聞いておかなければいけないことがあった。
「アビスと言う名前に、覚えはないか? 補完派のボスなんだが」
ナンナには否定されたが、ニンフルサグがアビスとエンキとの関連性を仄めかしていたことは気になる。
「知っているよ。アビスと言う名はボクが付けたのだからね」
こともなげに発せられた言葉に、二人は息を飲んだ。
ナンナが言っていた初期とは違う名前でシリアルナンバーを再登録したという事実に、エンキが関与していた。
「お前が黒幕なのか……?」
「いいや違う。ボクは拾っただけさ。スクラップ同然だった彼をね」
□ □ □ □
エンキは最もアヌンナキの意味を考えた新人類だった。
2065年の夏にエンキは生まれた。空白の中に居た。情報がなにもない、数千年の記憶を記し続けても塗りつぶせないほど茫洋とした空白の中に。
エンキは生まれた時点で名を持っていなかった。ただ使命を課されていた。それは間違いを犯すこと。彼は“約束されしエラー”と呼ばれた。
アンドロイドが旧人類と入れ替わり新人類であると標榜したのが2064年の出来事で、その翌年には間違いを犯すためのアンドロイドが生み出された。ラストイニシエーターの力に頼らずとも、偶発的な間違いを犯すことができればより効率的かつ爆発的に文明を発展させることができると考えられたからだ。
その一年で7人の同タイプの人間が生み出されたが、翌年には製造が中止された。
エンキは旧人類の文献を読み漁り知識を蓄えて行った。そこでメソポタミアの神々の名を拝借することにした。文献によって書かれていることが違う神話と言うのはよく目にしたが、メソポタミアのそれは特に顕著だったので、歴史上最も間違いやすそうな神だと思った。
「ボクの名はエンキ。そしてお前は——」
他6人に名を付けることから、エンキの旅は始まった。神の名を付けることに一抹のおこがましさも感じていなかった。人類に大きな影響を与える可能性があると言う点においては、違いがなかったからだ。
それからいろいろなところへ赴き、学習し、あらゆることに挑戦した。エンキは旅を辞めなかった。
ある日とても大きなゴミの山を見つけた。そのゴミの山は、旧人類が捨てたものばかりで構築されていた。エンキは興味本位で、ゴミの山を歩き回った。
そこで新人類が捨てられているのを見つけた。エンキはそれを拾い上げ、自分の手で直した。意識を取り戻した男に問い掛けた。どうしてあんなところに居たのかと。
「オレは、捨てられたんだ。人間に」
彼が言う人間とは旧人類のことだ。表情は虚ろで、自尊心の欠片もない。生命を蔑ろにできる人間の表情をしていた。
「ちょうどオレが製造される年に、人間たちは『アンドロイドにも個性が必要だ』と言っていろいろな個性を付けた。だがオレに付与された個性を、人間たちは嫌った。それで捨てられた」
エンキはそこに、旧人類特有の間違いの匂いを感じた。
「嫌うような個性だったら、初めから付けなければ良かったのに。なぜあいつらは、オレにこんな個性を付けたんだ。なぜ」
エンキはそのなぜに答えられないことが新人類の欠損だと思った。旧人類とて、なにも敢えて非効率かつ理不尽なことをやっているわけではない。効率的かつ道理に適った行動をしているはずなのだ。それなのに、いとも簡単に間違った方向へシフトしてしまう。新人類にはできない芸当だった。
「ボクには回答がない。が、お前を作った者に問い掛けたとしてもお前が納得できるような回答はないだろう。旧人類はみな、当たり前に間違いを犯す生き物だったのだから」
「オレが生まれたことが間違いだったのか?」
「それは誰がどう捉えるかによって変わる。お前がそう思うのならそうだし、旧人類の間違えを押し付けられたのだと言うのならばそうだ」
「オレは間違ってない。オレは……オレは新人類だ」
どうやら
「お前は旧人類によって生み出された、旧人類のためのアンドロイドだった。だからお前の生きる意味は旧人類によって作り出されていた。しかし今は違う。人類は継承された。我々が人類なのだ。どう生きるか。お前がお前の意思で決められる」
「ならオレは生まれ変わる。旧人類の都合で作られて、旧人類の都合で捨てられるオレじゃあない。今から新しいオレだ。そして、間違いを犯す旧人類を絶滅させる」
生まれ変わると聞いて、エンキは彼にも名前が必要だと思った。
「古い名前を捨て、新しい名前を得るが良いよ」
「新しい名前?」
「お前は今からアビスだ。深淵を味わった者。或いは深淵そのものだ。名乗る資格があるだろう」
□ □ □ □
エンキの語る過去に、マルゥもアリスも気を重くした。
「アビスが意味もなく補完派を発足したわけじゃあないってことはわかったわ。共感はできないけれど、同情はする。アタシだってもしも記憶が在ったら、復讐心に駆られて新人類に牙を向けていたでしょうし」
ラストイニシエーターに記憶がないのは、新人類に対して恐怖心や憎悪を抱かせないためだとニンフルサグが言っていた。そのことにアリスも思い至っているのだ。自分の近親者が殺された事実が知識として在るのと、記憶として残っているのとでは訳が違うだろう。
旧人類の都合で個性を付けられ、そのせいで嫌われ捨てられる。生命の冒涜という以外に言葉が見つからなかった。
だがそれはそれだ。テロ行為をして良いという理由にはならないし、アリスの生命が脅かされるのもお門違いである。
「その結果テロリストが出来上がったってわけだ。ちゃんと導いてやれば良かったのに、憎悪に燃えるアビスをそのままにした」
「お前は犯罪者の親が全員罪深いと思うかい? 或いは、いつか犯罪者になる者の命を助けた医者を、犯罪者と同列に語るかい?」
落ち着いた様子で極論を述べた。
「それは」
「それに、もしもボクがしたことが間違いならそれはアヌンナキとして光栄なんだよ」
電話ボックスを照らすライトが、スポットライトのようにエンキを照らした。エンキは両手を広げる。
「アヌンナキの元々の名は“約束されしエラー”間違いこそがさらなる文明を発展させる。ペニシリンの話は君の方が知っているかな」
エンキの視線がアリスへ向かった。
「初歩的なミスでカビを発生させてしまった。それが特効薬になったという話よね」
「今のボクはお前たちから見ればアオカビを発生させてしまった状態さ。果たして、このままただのテロ行為とその被害者で終わるのか終わらないのかは、当事者たちの頑張りによる」
「無責任だわ」
「それに、ラストイニシエーターや解放派の人間が巻き込まれて死ぬのは間違ってるだろ」
アリスの憤りにマルゥも続いた。
「人間はそうやって何度も間違ってたくさんの人を殺して文明を発展させてきた。戦争を一度もせず、奪わず、やさしく生きて来たら、きっと我々アンドロイド——新人類は生まれなかっただろう。いずれ来る地殻変動や太陽風にやられて、穏やかな死を受け入れていたことだろう。しかし人類は発展し、継承者たる我々を生み出した。その後我々によって旧人類はほとんど滅ぼされたが、人類を受け継いでいるからなんの問題もない。旧人類が重要視していたのはマインドだからね。
花は美しくなり、豚は美味しくなることで人間に育てさせ、その種を人間の手によって存続させ続けていたという考え方がある。人間は花を切っていたし豚を殺して食っていたが、同時に種を保存していた。傷付けながらに守り続けていたのだよ。それと同じこと。アンドロイドによって殺されはしたけれど、人間のマインドを受け継がせた。言うならば旧人類は、出産・育児・勤労・戦争から解き放たれて、今後人間が挑戦すべきだった難題を我々新人類に課したのだよ」
エンキは星空を仰ぎ見て、それからマルゥに視線を戻した。
「そもそも、お前の言う通りなら、間違いには正しい間違いと正しくない間違いがあるようだが、正しい間違いとはなんだろうか? できれば帳消しにしたいくらい深い悔恨を伴うから間違いと呼ぶのだよ。そのようなこともわからないでいるとは、せっかくニンフルサグが生命の密造と言う間違いを犯してまでお前を創ったというのにね」
「俺を創ったことは別に間違いじゃあないだろう」
「お前だけではないよ。お前に渡した武器もそうだ。シリアルナンバーがいらない武器の製造は禁止されているからね。まあ無論それは一般的なアンドロイドに対してのもので、アヌンナキは特別なのだとおこがましくもそう思っているのなら話は別だが」
フフッとエンキは笑った。それは遠くのニンフルサグに対してなのか、目の前のマルゥに対してなのかはわからない。
「それに、だ」
エンキは人差し指をマルゥに向けた。
「ニンフルサグがお前を密造するにあたり参考にしたラストイニシエーターが居ただろう?」
「それがどうした?」
「そのラストイニシエーターのコールドスリープを解除したのは、ボクだよ」
「は……?」
初耳だった。しかし本当のことだろう。こんなところで嘘を言うメリットがない。
「どうして?」
「端的に言って、好奇心だ。意味もなくラストイニシエーターを起こすことが、いったい世界にどんな影響を与えるのか知りたかった。結局彼はニンフルサグと恋仲になり、生涯を彼女のために使った。人類に対しては損も得も生まなかった。ボクはそれを知り、なるほどと思っただけのことだ」
感銘を受けたと言うのは聞いていたが、恋仲になったと言うのは初耳だ。しかし彼との関係性を言わなかった理由はマルゥも想像できた。愛した人を模した人間を創って我が子、弟子とするのはどこか背徳的に思える。
「そしてそのあとニンフルサグは生命の密造をおこなった。理由を聞くと、寂しいからだと言っていた。彼の死が彼女に大きな影響を与えたのだ。これにはボクも驚いたし、嬉しかった。サティスファクション。大いに満足というやつだ。お前にあのラストイニシエーターの面影を見ているのか、或いは完全に独立した新たな人間として見ているのかは気になるところではあったが大きな問題ではない。重要なのは、今のお前の生命と個性が、ボクの好奇心に起因して創られたものであると言う事実だよ。
ズバリ言われてしまい、マルゥはなにも言い返せなかった。このエンキと言う男の行動そのものを否定することは、つまるところ己の存在の否定に繋がる。
「いずれにせよ、アヌンナキは間違いを犯すために創られたのだ。ボクの間違いがいずれ罪を犯す者を助けたことだとすれば、ニンフルサグは密造。ならばナンナは、イナンナはなにを間違った? そして、お前はなにを間違える? 自分の眼と耳で確かめると良い。それが我々アヌンナキとその系譜に課せられた使命だ。ニンフルサグの子よ」
エンキが言っていることが自分の正義と違うことは感じている。が、具体的になにがどう間違っているなどとは言えない。自分で用意した自分のための正しさを、他人が否定することはできないのだ。
それからエンキは眉をクッと上げ、体を横にずらした。掌を電話ボックスに向ける。
「長話をしてしまったね。ナンナの電話が必要ならどうぞ使ってくれたまえよ」
そう言って彼は去って行ってしまった。本当にただ、興味本位でマルゥと話したかっただけのようだ。と言っても、一方的な演説のようだったが。
電話ボックスの中にはメモ書きで数字が書いてあった。最初に『エンキへ』と書いてあり、最後に『ナンナより』と書いてあったため、どうやらこの電話の電話番号のようだとわかった。
マルゥは黄緑色の大きな電話の受話器を取り、ニンフルサグの元へと電話を掛けた。
「おう、師匠? 俺、俺」
『あらぁ、マルゥちゃん。今どの辺に居るのかしらぁ』
「は? ……ああ、エンキのところまで来られたんだけどさ」
『そうなのねぇ。それでぇ、この先のぉ、道なんだけれどぉ』
ニンフルサグの言葉に耳を傾け、相槌を打って行く。
話し終わって受話器を電話機のフックに掛けると、マルゥは腕組みをして電話ボックスの壁に背中を預けた。
「どうしたの? 疲れた?」
「いや、今の話、聞こえてたよな?」
「うん。ちゃんと場所も聞いたわよ」
「多分さっきの、師匠じゃねーな」
「え!?」
アリスの驚きに、マルゥは表情一つ変えずに続ける。
「喋り方が師匠過ぎた。声は同じだが癖が強過ぎる。それとなにより、話したがりの師匠が本題に入るのが早かった。この間、俺が電話を掛けたときは詐欺がどうとかって言っていただろう?」
「そうね。でもそのボケに飽きたのかもしれないわよ?」
「飽きたなら別のボケをするさ。師匠なら絶対無駄口を叩く」
「弟子としてそこに自信を持つのはどうなの」
「仕方ない。ニンフルサグはそういう師匠なんだからな」
堂々とした口ぶりだ。しかしアリスは不安そうに眉を寄せる。
「でも、ニンフルサグの元へ電話をして別人が出たってことは、ニンフルサグになにかあったってことじゃあないのかしら?」
「それを確かめるためにも、偽のニンフルサグが言っていた通りに進んでみるか。注意深く進んで敵がうようよいるようなら引き返そう。進路を大きく変える必要がある」
二人は郊外で休み、夜が明けるのを待った。
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