ゴースト看護師の真夜中チェイス

黒澤 主計

『前編:奴は一体どこへ消えた? この密室状況のトイレから』

 さあ、逃げなさい。逃げなさい。

 恐怖しているんでしょう? 怯えているんでしょう?


「まちなさーい!」

 喉の奥から声を張り上げ、わたしは『そいつ』の姿を追い続ける。


 現在いるのは、真夜中の学校。

 もちろん、明かりはついていない。暗闇の中、一人の男が必死に廊下を走っていく。


「イヒヒヒヒ」と、ストレッチャーを押しながらわたしは声を上げてやる。


 彼はきっと、わたしが怖くて仕方ないはず。

 通常は、絶対にいるはずのないものだから。


 真っ白なナース服に身を包む、長い髪の看護師。

 有名な、『ゴースト看護師』というものだ。





 これは、とっても恐ろしい怪談。


 学校に忘れ物をし、ある男が放課後の校舎の中へとこっそりと忍び込む。夜の時間になってしまって廊下は暗く、行く先も良く見ることができない。


 その先で、『信じられないもの』と遭遇してしまう。

 カラカラカラ、と音がし、何かを押しているような物音がする。


 現れたのは、『看護師』だった。


 本来、学校の中にはいるはずのないもの。真っ白なナース服を着て、両手でストレッチャーを押している。


「みーたーなー」


 遭遇した『看護師』は、目が合うなり、恐ろしい形相を見せてくる。


 どうにか振り切ろう。どうにか隠れよう。男はそんな想いで必死に走る。


 そうして、廊下の先にある『トイレ』の中へと入り込む。

 一番奥の個室へ。ドアを閉め、必死に息を殺す。


 バタン、と直後に音がする。


「どこにいるぅ?」と看護師はしつこく追跡を続けてきた。


 近づいてくる足音。


「ここにはいなーい」

 一番手前の個室が開けられる。


「ここにもいなーい」

 二番目の個室も開けられる。


 トイレの中に個室は三つ。

 もうダメだ、と男は観念する。


 だが、看護師の声は聞こえてこない。なぜ、ドアを開けようとしないのだろう。

 とりあえず助かったのか、と男は安堵する。


 そうして、ふと真上を向いてみた。


 ドアの上の部分から、看護師がじいっと男を覗き込んでいた。


「みぃつけた」





 これはまさしく、最恐の怪談。


 ゴースト看護師。それが今のわたし。ストレッチャーという、患者を運ぶための台を押しながら、執拗に人間を追いかける。


 今日もまた、愚かな獲物が現れてくれた。


「ククク」と喉の奥から笑いを漏らし、男の後ろ姿を追い続ける。

 距離にして五メートルくらい。真っ白なジャケットを着た男が廊下を走っていく。


 すぐ右手には下へ降りる階段がある。そこを素通りし、奥へと逃げる。


 その先で、ドアの中に入って行った。

『男子トイレ』の中へと。


 可哀想に。そこを選んでしまうのね。

 だったら、期待に応えてあげなくちゃ。


 ストレッチャーを押したまま、わたしは男の入って行った男子トイレのドアを目指す。

 ちょっと、入るのが面倒臭い。ストレッチャーをいったん脇に置いて、なるべく音が鳴るように勢いよくドアを外側へ引き開ける。


 ストレッチャーの上には、真っ白な布がかけてある。人間の死体でも運んでいると見えるよう、布の下にはちょっと綿とかが入れてある。


 さあ、ここからが本番。


 男子トイレの中には、個室が三つ用意されている。

 中からは水音がしていた。『ジャー』と三つの個室からトイレを流す音が響く。


 ドアをいったん全開にし、ストレッチャーも男子トイレの中に押し込んだ。


 さてさて、どこに隠れたのかしら?


「ここにはいなーい!」


 手前のドアを開け、中に何もないのを見る。

 どうも、トイレの水がうるさい。今もジャージャー音がしている。


「ここにもいなーい!」


 二番目のドアも開け、そこにも隠れていないのを見る。

 フフフ、と笑いが漏れそうになる。


 残っている個室はあと一つ。きっと今頃、ドアが開けられてしまうのではないかとプルプル震えているに違いないわ。


 いいでしょう。じっくり怖がらせてあげる。


 なるべく物音を立てないよう、わたしは静かに隣の個室に入る。

 腰が痛い。ストレッチャーで体を支えていないと、腰に負担がかかる。


 洋式便器の蓋を閉め、端の方に足を乗せる。

 そうしてゆっくりと、個室の縁に手をかけた。


 さあ、じっと覗きこんであげましょう。


 そう想い、わたしは個室の中へと顔を向ける。


「へ?」と直後に声が出た。


 目の前の光景が信じられず、呆然と両目を見開かされる。


「どこにも、いない?」





 おかしい。これってどういうこと?


 真夜中の校舎の中で、わたしは侵入者を見つけた。怪談の内容に従って、男が逃げるのを追いかけた。


 男はトイレの中に逃げ込んで、わたしはそれを追い詰める。


「そこまではいい、よね?」


 男子トイレの中をぐるりと見やる。

 入口のドアは一つのみ。ストレッチャーが置いてあって、現在は自由に出入りできなくなっている。


「個室は三つ、よね。でも、やっぱり中にはいない?」


 一つ一つドアを開ける。


 けれど、男の姿はない。ドアの陰に隠れているということもない。


「あとは窓、だけど」


 奥にあるガラス窓に近づく。クレセント錠がかかっていて、開けた痕跡もない。

 現在いるのは三階。そもそも、ここから脱出できるとも思えない。


「え、どういうこと?」


 理解できず、男子トイレの中を再び見回す。

 腰が痛い。近くの小便器の方にも目をやるけれど、人が隠れられるだけのスペースはやっぱりなかった。


「え? 本当に、どういうこと?」


 周囲から一切の音が消える。ジャージャーうるさかったトイレの水音もやみ、わたしの足音だけがトイレの中に響き渡る。


「あの男、一体どこに消えちゃったの?」


 入口は一つ。隠れられる場所はない。窓も開けた痕跡がない。


「つまり、このトイレは『密室』だった」


 その中から忽然と、一人の男が消失した。





「とりあえず、電気を点けましょう」


 暗いのが良くない。ドアの脇にあるスイッチを押し、天井の蛍光灯を点灯させる。


「やっぱり、いないよね」

 壁に手をつき、空間を見回す。


 自然と、眉間に皺が寄ってきた。

 理解できない。


 ジワリと、背筋に汗が浮いてきた。


「まさか、幽霊でもない限り」


 壁でもすり抜けない限り、脱出するのは不可能なはず。


 もう一度、念入りに個室の中を三つとも調べる。その脇にある掃除用具入れも開けてみるけれど、モップやバケツが入っているのみだった。


「いや、まさかね」


 ストレッチャーを引っ張り、トイレのドアを閉じる。


「ん?」と目を落とし、入口付近の床の上を見た。


 ジャケットが落ちている。あの男が着ていたらしい、白い色のものだった。


「やっぱり、見間違いなんかじゃないのよね」


 わたしは確かに男を追いかけ、このトイレに入っていくのを見た。


 でも、なぜか男の姿は消え、ジャケットだけが残されている。


「どういうこと?」


 理解できない。理解できない。理解できない。

 頭を振り、私はじっと両目を閉じる。


 まだよ。まだ、諦めちゃダメ。

 きっと、何かのトリックがあるはず。


「わかった。そっちがその気なら」


 わたしにもプライドがある。人間なんかに舐められてたまるものか。


『かくれんぼ』。そう、これはそういう類のもの。


 だったら、わたしの得意分野だ。


「さあて、どこに隠れたのかしら」


 わざと音を立て、また個室のドアの開け閉めをする。

 これで恐怖を煽り立てる。ビクリと音を立てれば、すぐに私の耳に入る。


「静かなものね」


 あの男、よっぽど肝が据わっているのかしら。ネズミなんかが隠れてた時なら、音を立てると怖がって出てくるものなんだけど。


「じゃあ、しょうがない」


 あんまり時間もかけていられない。


 いきなりだけど、『奥の手』を使ってあげる。


「もーう、いーかい?」


 ニヤリと、口元に笑いを浮かべる。


 これぞ、究極の『かくれんぼ必勝法』。

 この技を使うことで、『里』では常に負けなしだった。


「もーう、いーかーい?」


 こうやって何度も呼びかける。

 当然、『まあだだよ』や『もういいよ』と声が返ってくる。


 あとはひたすら、耳を澄ます。そうして隠れている位置を特定すれば、簡単に隠れ場所を発見できるという寸法だ。


 右耳に手を当て、物音がしないか集中する。


 だが、声は返ってこなかった。


「もーう、いーかーい?」


 もう一度、優しい声で。


 無音。


「クソが!」


 苛立ちを込め、個室のドアを蹴り飛ばした。


「く」と反動で声が出る。無理をしたから腰に負担がかかった。


 なんなの、一体。


『もういいかい』と言っているのに無視。その上でどこかに隠れ続ける。

 一体、どういう神経をしているのかしら。





 本当に、どうしたものか。


 目を閉じる。深呼吸。


 でも、すぐに後悔。体の中がトイレの臭いでいっぱいに。


 じわじわと、頭の中に熱が籠ってくる。


 どうしよう。ここで帰るべき? あいつを探すのはやめにして、このトイレから出ていくべきだろうか。


 でも、それもなんだか落ち着かない。当然いるはずの人間が姿を消した。何が起きたのか理解できないと、この先もずっと不安なままになる。


「よし」とわたしは声に出す。


 更なる技を繰り出すしかない。

 反則も反則。下手にやると、完全に嫌われるレベルの技。


「出ておいで―、もう見つかったよー」


 これも、かつて編み出した技。


 本当は見つけていないのに、『誰々―、もう見つかったよー』と声をかける。すると、諦めて相手の方から出てきてくれるという寸法。


 さあ、どうかしら?


 待つこと十数秒。


 無音。


「チッ」と大きく舌打ちをした。


 この手まで通用しないとは。


 でも、『切り札』だったらもう一枚持っている。


「あー、もう飽きたし帰ろうかなー。誰もいないのかなあ?」


 与えるべきは、取り残される恐怖。隠れ続ける孤独感に負け、相手から出てくる。


 だが、やはり反応はない。


「なんなのよ、もう」


 苛立ちを覚えつつ、トイレの個室の中に入る。

 レバーに指をかけ、『ジャー』と水を流してみた。


 思えば、このトイレに入った直後、やたらと水の流れる音がしていた。


「意外とそこに、カラクリがある?」


 二つ目、三つ目と個室に入り、『ジャー』とどんどん水を流す。


「もしかして、隠し扉がある、なんてことは?」


 同時に三箇所で水を流すと隠された扉が出現するとか、そんなオチは。


「うん、なかった」


 ただ、お水を無駄にしただけだった。

 ごめんね、水道局の人。


「というか、本当にどうなってるの?」


 念のため、天井を見上げてみた。

 何もない。頭上に張りついているなんてことは、さすがになかった。


 なんか、だんだん怖くなってきた。

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