サニーサイド

野村絽麻子

第1話

 トップスのチョコレートケーキみたい、と美里みさとさんが言っていたそのマンションを外からぼんやりと見上げている。四階の角部屋のベランダには洗濯物が風に揺れていて、あのワンピースは昨日、あっちのシャツブラウスは一昨日、美里さんが来ていた物だなと確かめるみたいに思い出す。初夏の空気によく映える淡いブルーのノンスリーブのワンピースは美里さんにとても似合う。対して、衣類の隙間にかかっている暗色のTシャツは僕のもので、まだ着られるし服とかよくわかんないし、などと言いながらもう何年か着続けている。やっぱり新しい服を買った方が良いのだろうか。

 もう一度風が吹いて洗濯物を揺らす。今度は少し強めで、やって来た風は僕の髪の間を縫い、手元のコンビニ袋をカサカサと揺らし、僕は顔を顰めた。


 例えばこのまま何処かへ行くことも出来なくはないんだな。


 そんな考えが頭を掠める。僕は何処かへ行きたいのだろうか。それは何処のことだろう。美里さんを連れて? もしかして、独りで?

 視界の中でやけに大げさに洗濯物が揺れたと思ったら、ひょいと白い手が現れて干してあったシャツをむんずと掴む。そのままリズムよく洗濯ピンチを外していき、あっという間に美里さんの顔が現れた。少したじろいだ次の瞬間には目線が合ってしまい、ひらひらと振られた手の動きにみっともなく動揺する。

 いたずらを咎められた子供じみた足取りで、渋々と歩き出す。

 表札には何も書かれていない。防犯上の理由で今日び、表札を出す方が珍しいのだ。通い慣れた、というよりも住み慣れた四階の居室は、そろそろ三年目を迎えようとしている。

 ねぇ、知ってる?

 合い鍵を使って開錠するのと同時に職場のパートさんの耳打ちが意識に蘇る。

 内縁の妻の権利って、三年一緒に暮らすと発生するんだってさ。東城とうじょうくんってカノジョさんと同棲して三年は経つよねぇ?

 先日ちょうど郵便受けに来ていた書類は管理会社からのもので、あれは恐らく、このマンションの更新通知だったはずだ。美里さんに何も言われないのをいい事にダラダラと同棲生活を決め込んでいる自分も何だが、マンションの更新だの、その他にも例えば結婚だのと、そう言った事柄について何かを言う気配すらないのだ。三十台半ばになるはずの美里さんがそれらについて何も思わないということも無いだろうに。関係を変えたくない、というのならそれは僕も同意見だ。しかし、世間的にはそうもいくまい。美里さんのご両親がご健在だというのも聞いているし、季節ごとに届く荷物は、入れてある食品やお中元のタオルギフトのおすそ分けですら、いつも分量は二人分だ。

 それとも、内心そう思ってびくびくしているのは僕だけなんだろうか。

 単に自信とか甲斐性とか覚悟なんかの持ち合わせがなくて、だからさっきみたいに「このまま何も言わず消えてしまったとしたら」なんて考えるだけで実行に移す気なんて微塵もない。その癖この居心地の良い関係を解消する気にもならない。

 ドアを開けるとキッチンから「おかえりー」と声が迎える。ごめんねありがとう助かったー。ひょこりと顔を覗かせる美里さんは長く伸ばした髪を背中でゆるくひとつに結んでいて、薄化粧を施した表情は、でも、あどけなさを感じさせる。

 美里さんは名前を美里みさと香織かおりといって、初めてそれを聞いた時にはどちらも名前みたいなフルネームでしょうと笑って言っていた。何度か名前で呼んでみようと試みたものの切り替えが難しく、何だかんだそのままの状態が続いている。

 部屋着のホットパンツから伸びた脚は出逢った頃よりも少しふっくらしたように思う。それを言えば「東城くんが良く食べるからでしょ。つられるんだよね、なんか」と軽く頬を膨らませて見せるのだ。

 買ってきたマヨネーズの銘柄を確認した美里さんが鼻歌を歌いながらそれを冷蔵庫へとしまう。あれはこのあと、わさびマヨとして食卓に上るのだ。


 小エビのフライにタルタルソース代わりのわさびマヨをつけるのは、近所の小料理屋で見かけて以来、ふたりの気に入りになっている。その小料理屋には一時期よりもめっきりと足が遠のいたけれど、あの場所は正真正銘の思い出の店。二人して店の常連で徐々に意気投合して懇ろになるという、まぁ、そこらでよく聞く話だ。

 点けっぱなしのテレビでは連休最終日だとかで高速道路の渋滞の映像が流れている。日も暮れかかった夕方のパーキングエリアでは、まんまと渋滞に遭遇してしまった家族連れを取材していた。眠たそうに目を擦る子供を抱えた父親が、トイレ休憩を促している。

「わざわざ混むタイミングで旅行するかね」

「子供がいると必要性が出るんじゃないの? 大変だね、結婚てやつは」

 思いのほかを連想させることを口走ってしまいながら自分の言動にびくりしたけれど、美里さんはのんびりビールを傾けながら何の気もないような相槌を返してくる。ふと、魔が差した。としか言いようがない。けれど僕は口走ってしまったのだ。

「結婚とか、興味ないほうだったりする、のかな」

「してるよ」

「何を?」

 袖にご飯粒付いてるよ、くらいの気軽さだったのでつい不用意に聞き返してしまった。

「結婚」

「……は?」

 驚きすぎて言葉が出ない。言ったままの形で固まっていると、大皿に残っていた最後の小エビのフライを美里さんの箸が攫って行く。さくり。軽くて子気味の良い音が食卓に落ちる。冗談、と言って笑いかけてくれる事を期待していた僕には小エビ一匹分の沈黙すらもどかしい。

「……言ってなかったっけ。知ってたと思ったんだけどなぁ」

 生唾を飲み込む。それを意に介さない風情で味噌汁を啜った美里さんが、少し笑ってもう一度言った。

「結婚してるんだってば、私」

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