廿六夜は闇深し

そうざ

The Night of the 26th is Dark

 涼やかな川風が頭を撫でて行く。生れて初めての月代さかやきは新鮮な感覚だった。

 川沿いの道には武家屋敷らしい漆喰の壁が長く続いている。辺りは闇に等しい。対岸の灯が川面に揺れているが、提灯があっても心許ない深さだ。星影はあっても月影はない。


『今日は廿六夜待にじゅうろくやまちです。陰暦七月二十六日の夜、全国各地で観月の行事がありました。真夜中に昇る月の光に彌陀みだ観音かんのん勢至せいしの三尊が現われるとされ、民衆は料理屋や船上で大いに盛り上がりながら月の出を待ったと言います』


 案内機能を備えたイヤホン型時空間転移デバイスが、俺の耳に囁く。こいつは脳波から思考の矛先を忖度し、勝手に豆知識を披露するのだが、その多くはどうでも良い事柄だ。

 俺が小さく舌打ちをすると、端末は俺の脳裏に古地図を展開させ、現在位置にピンを立てた。時空間転移座標にほぼ間違いはないようだ。

 俺は今、墨田川沿いに存在している。正確には、まだ大川と呼ばれていた封建制度の治世、西暦一千八百年の江戸府内である。

「さぁて、お目当ては何処かな」

 舌舐めずりをしていると、周囲に羽音が集まって来た。出掛けに虫除けスプレーをたっぷり浴びて来たというのに、三百年前の蚊は中々野性的らしい。

 取り敢えず出没情報のある永久橋えいきゅうばし付近まで行くとしよう。


『永久橋は箱崎川に架かっていた橋で、元禄期に創架されたと言われています。橋の名の由来には、箱崎町の事を永久島と呼んでいたからという説と、創架に携わった永井飛騨守と久世大和守の頭文字を取ったという説が――』


 よくよく見れば、思いの外、川面に大小の船が行き交っている。時折、船上の馬鹿笑いが聞こえて来る程だった。


『江戸の町は川の他に人工の掘割が整備され、水上交通が栄えていました。大きさや用途に合わせ、様々な船舶が行き交いました。庶民が主に利用していたのは、猪牙舟ちょきぶね、屋根船、屋形船等です』


 行く手にある永代橋にも、後方にある新大橋にも、提灯が集まっている。どうやら例の二十六夜待ちの影響らしい。

 毎回、旅の恥は掻き捨てと意気込んで来るものの、こうも人目が多いと流石に気後れする。俺は、なるべく人気ひとけのない場所を求めて彷徨さまよった。

「ふぅ、やっぱり暑いな」

 まだ温暖化には縁のない時代とは言え、陽暦なら八月の下旬に当たる。

 何かを積んだ船が傍らを滑って行く。朱い行燈に掛かれた文字が、辛うじて水菓子と読める。この頃の西瓜は大して甘くないらしいが、生水を飲むよりは増しか、と思わず喉が鳴る。

「駄目だ駄目だ、最低限の節度だ」

 転移時世から何かを持ち去ってはならない、転移時世に何かを置いて行ってはいけない。この不文律を破ればブラックリストに記され、もう二度と時空間転移サービスが利用出来なくなる。そもそも非合法業者の癖にルールが厳格だ。


 永久橋の辺りも相変わらず人通りがあった。

「そこの粋なおにぃさん……」

 橋脚の陰から舳先へさきが覗き、そこに人影が佇んでいた。容貌までは見えないが、躰の細い輪郭は悪くなさそうだ。

「さっきからうろうろしてるけど、渡し船でもお探しかぇ?」

 小船がゆっくりと堀端に近付いて来る。提灯を掲げると、竹竿を手にした島田崩しが仄かに浮かび上がった。手拭いを被らず、小脇に茣蓙ござを抱えていないのは、夜鷹と違う点だ。

「いやぁ、ここいらに饅頭でも落ちてねぇかなと思ってね」

 精一杯、粋を気取って答えると、女が唇から歯を覗かせた。

「饅頭屋をお探しかぇ? だったら案内してあげるよ」

 夜に夏の温気うんきが潜んでいる。女はしどけない。襟を大きく開け、裾をからげ、黒い単衣ひとえに緋の帯と長襦袢ながじゅばん、そして生っちろい肌。その全てが溶け合い、夜陰に映える。


『江戸には様々な形態の娼婦が存在しました。幕府公認の吉原から非公認の岡場所まで、その数は計り知れません。中でも舟饅頭ふなまんじゅうは、饅頭を販売するとの名目の下、船上で性的サービスを行いました。饅頭は女性器の隠語であり、そこから生じた呼び名とも言われています』


 ――漕ぎよせて くがへのこを 待ちかける――

 ※仈=男陰の俗称


 やがて舳先が堀端を小突いた。俺は携帯端末を煙草入れに仕舞い、提灯で女に照らした。

「おぉ……中々の器量好しだ」

「ふふん、お上手だね」

 舟饅頭は足腰も覚束おぼつかないような年嵩としかさが多いと聞いていた。それはそれで一興と心得ていたが、これはこれで願ったり叶ったりだ。

「世辞じゃねぇよ、花魁にも引けを取らねぇさ」

「お兄さん、吉原なかで遊んだ事があるんだねぇ」

「切見世女郎だったらな」

 花魁の味を確かめたいのは山々だが、高級遊女の客となると密かに遊ぶという訳には行かない。歴史への干渉度が高まる。ブラックリストが怖い。それ以前に、初会だ、裏だ、馴染みだと、手順がまどろこしいのは俺の性に合わない。だからこそ手軽な私娼巡りなのだ。

「で、乗るのかぇ?」

「あぁ、乗るよ。たっぷり乗るよ」

 女は微笑で応える。現代の風俗店でも十二分に通用するだろう。

 船上にはとまが切妻屋根のように仕立ててあり、その中に粗末な煎餅布団が敷かれていた。実に簡易な個室だ。

 いざ乗り込むと、女は両手を俺の眼前に差し出した。

「渡し賃は三十二文だよ」

 俺は、事前に巾着から寛永通宝をじゃらじゃらと掌に落としてやった。天婦羅蕎麦なら一杯分でこれだけの女を頂けるとは、江戸は全く以て激安の売春天国だ。

「しかしまぁ、今夜は賑やかだな。情緒も何もない」

 粗野な江戸っ子ならば兎も角、現代人としては、行き交う船の乱痴気が耳障りで立つものも立たない・・・・・・・・

「まぁ、中洲の辺りなら気にならなくなりますよぉ」

 女は舳先の側に出ると、再び竹竿を手にし、船を操り始めた。


『かつての墨田川には州が点在していました。特に永久橋の手前で本流、箱崎川、小名木川と三つに分かれる辺りの中州はまたと呼ばれていました。また、おかで商う下級な娼婦は、一本の線香が燃え尽きるまでの時間、所謂ちょんの間・・・・・を客あしらいの区切りとしていましたが、水上で春をひさぐ舟饅頭はこの三つ又を一回りする時間を一区切りとしていました』


 ――お千代舟 沖まで漕ぐは 馴染みだけ――


「ところで、姐さんの名前は?」

千代ちよだよ」

「お千代さんか」

 やがて水上に草叢が現れた。夏の頃は葦の群生が中州を覆う。これならば一寸ちょっとした目隠しとして作用しそうだ。

 俺はいよいよ逸る心を隠せなくなり、煙草入れから或る物を取り出した。

「そりゃ、何だい?」

 お千代が目を丸くする。

「これはコンドー……近藤なにがしさんのお手製茎袋くきぶくろさ」

「これが茎袋かい、あたしゃ初めて見たよぉ。だけど、そんなもんは野暮じゃないかぇ?」

 事前に汎用性抗病原体ワクチンを接種して来たから性病の心配はない。とは言え、俺の子種をこの時代に残す訳には行かない――が、女が要らないと言うのに意地を張ったら男が廃る。

 俺はコンドームの封も切らず煙草入れへ戻すや否や、千代の腕を苫の下へと引いた。

「あれぇ、お兄さん、悪戯いたずらが過ぎるよぉ」

「良いではないか、らすでない」

 どうも有り勝ちな台詞に頼ってしまう俺が居る。が、これもこの時代ならではの一興というものだ。

「それはそうと、この辺りに女の幽霊が出没るって知ってるかぇ?」

「何だい、藪から棒に。夏だからって怪談は要らねぇよ」

「女は夜な夜な船に乗って来るんだとか」

「どんな船だい?」

「丁度こんな船らしいよ」

 女は竹竿を操るのも忘れ、船縁ふなべりそぞろに撫でる。なのに、船は自動操舵のように水面を滑り続ける。

「道行く男に声を掛けては船に引き込んで、沖の彼方まで連れ出すそうだよ」

「幽霊はこの世に怨みでもあるのか?」

「勿論さ。男に散々玩具にされて、瘡毒かさを患って、鳥屋とやいて……」


『鳥屋に就く、とは、梅毒に罹患した娼婦が引き籠る事、梅毒の影響で毛が抜けて薄くなる事を指します』


 船が急に動きを止めた。

 傍らに葦が茂っている。川風が吹き、葦原がさわさわと鳴き始めた。突然、夏が去ったかのように湿気た肌が乾いて行く。

 女の顔はここまで白く透き通っていただろうか。

「そそっそんな話はもうめだ。それより、さぁさぁ可愛がって進ぜるぞぇ~」

「おぉ、その前に俺がうぬを可愛がってやろうっ」

 不意の野太い声に、俺は鳥肌が立つ暇もなく飛び上がった。そして、勢い余って川へと落ちた。瞬時に自分が金槌かなづちである事を思い出し、四肢をばたつかせた。

「ふははっ、ざまぁないっ、飛んだ潮干狩りだよっ」

「全くだ。饅頭を食らうつもりが貝を食らいやがるっ」

 一組の男女のせせら笑いを浴びながら、自分が浅瀬で慌てふためいている事に気付いた。いつの間にか、船は中洲の砂地に乗り上げている。

「おぅおぅっ、他人ひとの女に手を出しやがってっ、この落とし前を何とするっ!」

 船頭風の屈強な男だった。男は俺の胸倉を掴み上げた。葦の茂みで俺を待ち構えていたようだった。

「待て待てっ、俺は客だっ、このひとは舟饅頭だっ」

「やいやいっ、他人の女を売春婦ばいた呼ばわりするかっ!」

「言い掛かりも甚だしいよ、あたしは親切心で川を渡してやっただけなのに」

 三百年前くんだりまで来て、美人局つつもたせに引っ掛かるとはっ――俺は咄嗟に耳の端末に触れた。三十六計逃げるにかず、さっさと尻尾を巻いて退散だ。

「……あれっ?」

 端末がガーガーと不快な異音を発する。

「あれれっ、転移しないっ⁉」

 何度、操作しても、辺りの景色が変わらない。防水仕様ではないらしい。

 自分の顔が蒼褪めて行くのが判る。業者とも連絡が取れない。もう現代に還れない。

 すると、男の不敵な笑みが俺を覗き込んだ。

「ご自慢のイヤホンはお釈迦か?」

「……へ?」

「ふははっ、実はな、俺達も時間転移者だ」

「え……えぇっ!?」

「但し、転移買春犯を懲らしめる時空間フェミニストよ」

 女にはもうしどけなさの欠片も感じられない。先進的な現代女性そのものだ。

「あんたみたい外道は幽霊に呪い殺されちまいなっ……と言いたいところだけど、現代に戻って法の裁きを受けて貰うわよ」

 そう言って女はけらけらと嗤った。

 男は高笑いで追随した。

 腑抜けた俺は天を仰いだ。

 いつの間にか下弦の月が細い光を放っている。が、そこに三尊の姿を見る事は出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

廿六夜は闇深し そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説