第9話:〈風まかせスープ〉と、笑顔をまねくナゾの香り

 陽も傾き出したミルバザール。ランチからディナータイムへの準備を急ぐ活気で溢れている中、ユリはちょっと苦しげな表情で歩いていた。


「うぅ……食べ過ぎたかも……」


 ゴロ肉ガブリ、カリカリ羽根つきライスボール、パリンシュガー餅……。どれも美味しすぎて止まらなかった。やれやれといった表情で見守るヨッピーと歩きながら、お腹はいっぱい、というより、ぱんぱん。胃が重くて、足取りもどこかふわふわしている。そんなときだった。


「あっ……ミルルーダ……!」


 春の光をまとったような、透き通る白。ふわふわとした毛並みに、宝石のような角。さっき一緒に街を歩いたミルルーダよりずっと大きく、見上げるほどの背丈。どこか気品のある静けさをまとって、ユリの目の前にすっと現れた。ユリの足元でくるんと尾を巻きながら座り、やさしく見上げてくる。次の瞬間、その角の先から、かすかに光る小さな香りの花がふわっと舞い上がった。


「……わ、いい匂い……」


 ユリは、自然と深く息を吸い込んだ。甘くて、少し涼やかで、さっきもらった小さなミルク玉のようにやわらかい香り。胸の奥に溜まっていたもやもやが、少しずつ溶けていくようだった。お腹の重さも、不思議とやわらいでいく。まるで香りが胃の奥にふんわりと届いて、優しくほぐしてくれるみたい。


「……ありがとう、ミルルーダ」


 ユリがそう呟くと、ミルルーダはひとつ、やさしく鼻を鳴らしてから立ち上がり、ふわりと風に乗るようにその場を離れていった。その後ろ姿から、香りの花がひとつ、またひとつ、空へと舞い上がっていく。ヨッピーが静かに言った。


「ミルルーダの香りには、〈整える力〉があるんです。空気も、心も、体も。とくに、〈食べすぎ〉には効果抜群ですよ」


「まさに今、それ……」


 ユリは苦笑しながらも、どこかすっきりとした気分になっていた。体が軽くなっただけでなく、心のなかも、少し晴れたような気がする。ミルルーダは群れで生活をするようで、もしかしたらさっきの幼いミルルーダの街散歩を楽しめたお礼として、やってきてくれたのかなとふたりで話しながら歩みを進める。……けれど、歩き出したユリの鼻先にふと違和感がよぎった。


「……変だな。いつもと同じ屋台街のはずなのに、香りが……薄い?」


 ふわっと漂ってくるのは、いつもの香ばしい揚げ油でも、甘く焼けた蜜でもない。どこか、空っぽのような、乾いた風のにおい。


「これは……〈迷いの香り〉かもしれません」


 ヨッピーがつぶやくように言った。


「香りが……迷う?」


「はい。誰かが〈自分の喜び〉を見失ったとき、こんな風に香りを濁らせることがあります。とくに、料理を作る人にとっては深刻ですね」


 ふと、通りの外れにぽつんと立つ屋台が目に入った。木でできた屋台には、【風まかせスープ】とだけ、香り文字ではなく墨のような文字で書かれた布がかかっている。看板メニューも、値段もない。店主は、小柄なタカ系の頭をした人だった。


「いらっしゃい、風が呼んだお客様。うちはスープしかないけど、それでよければ」


 出てきたのは、不思議な香りのスープ。何かやわらかく煮込まれた様な色のない野菜が浮かんでいる。「ひとつください」とユリが腕を受け取り、華奢なレンゲでスープを口に運んだその瞬間、ふわっと温かな香りが広がる。この香りは――どこか懐かしく、でも名づけがたい。そんな気持ちが胸を満たした。少しだけ涙腺がゆるみそうになるのを感じる。


「……この味、なんだろう。しょっぱいわけでもないし、でも、ちゃんとあったかい」


 ユリがそうつぶやきながら困ったように笑うと、店主が静かに微笑み、答えた。


「ふっと〈笑ってくれたら、それが正解〉。ここはそういう店なんです」


「笑ったら、正解?」


「僕が旅の途中で出会ったスープが、そんな味だったんです。味も香りもバラバラだったけど、一口飲んだ瞬間、なんだこの香りって、自然に笑っちゃった。それからずっと、その記憶を再現してみたくて。」


 店主の言葉には、どこか穏やかで懐かしい温かさが込められていた。ヨッピーが静かに言った。


「……あなたも、フレグランティアだったのですね」


 店主は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべた。


「昔ね。今はもう、資格も羽もないけどさ」


「羽がなくても、香りはまだ、あなたと共にありますよ」


 店主は照れくさそうに笑い、スープをかき混ぜながら、ふっと呟いた。


「――風が教えてくれるんですよ。〈そろそろ誰かが笑いたがってる〉ってね。そんな日にだけ、店を出すのさ」


 ユリはスープを飲み干すと、胸の中に温かな風が吹き込んだ気がした。それはどこか懐かしく、心に深く響く香りだった。誰かが〈笑ってほしい〉と願ってくれた香り。

 

 ふと、ユリの胸元から、淡い光を放つ〈香りの花〉がふわりと浮かび上がった。ミルルーダが残していったあの香りの余韻が、ユリの〈喜び〉に共鳴したのだろうか。小さくて透明な花は、風にのって店主のもとへと舞う。


「……これは?」


 店主が目を見開いた。香りの花を、手のひらにやさしく受け止める。


「あなたのスープが、私の心をほどいてくれたから……たぶん、お礼、みたいなものかな」


 ユリの言葉に、店主はしばらく花を見つめ、大切そうにそっと胸元にしまい込んだ。


「……ありがとう。」


 ヨッピーが少し目を細めて、その様子を見守っていた。


 ――

 

 帰り道、ユリはふと、呟いた。

 

「ねぇ、ヨッピー。……私の〈喜びの香り〉って、どんな匂い?」


 ヨッピーが少し考えるように目を細めて答える。


「……そうですね。朝焼けのパンの香り。仕事帰りに寄り道するお菓子屋さんの甘い匂い。そして、……〈あなたの隣で、何も言わずに一緒にいる〉時の香りですね」


 ユリはくすっと笑って、すぐに反応した。


「ふふ、それ、私の喜びじゃなくて……ヨッピーの好みじゃない?」


「おや、では、私の香りの記憶も、あなたの一部ということですね」


「うわ、うまいこと言った〜」





 ふたりの笑い声が、夕暮れのミルバザールの風にのせて、ゆっくりと溶け込んでいった。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界だけど、まずはごはんにしませんか?〜ユリとヨッピーのお散歩旅〜 文鳥になりたいpiyo @piyo_ator

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ