第6話:まだ知らない場所〈とまり木〉でのひとやすみ

 朝の森は、すこしひんやりしていて気持ちがいい。セントゥの縁側に腰をおろし、のぼせ気味の体を風呂上がりの牛乳――のような、風呂上がりのつめた〜い〈ミルル〉を流し込み、体温を調整する。ほのかな甘さとスッキリした口当たりは、牧場で飲んだ搾りたての牛乳を思い出す。深呼吸をすると、森の湿度を含んだ緑の香りと土の香りがミルルの風味と合わさって、より一層味わい深い香りとして、体に染み渡ってくる。


 (ミルルーダって、どんな生き物なんだろう……牛みたいな感じかな?会ってみたいな……)


 ユリはぼんやりと、空を見上げた。


「……あ、そういえば帰ったら、ノーマンからもらったモロコの種、ヨッピーに食べさせようって……言っちゃったけど」


 ぽつりとこぼして、首をかしげる。


「……帰るって、どこに?」


 部屋にある冷蔵庫の扉を開けたら、いつの間にか転移してしまっていたこの世界――〈アルマルカ〉。香りと風に包まれた日々が、すっかり〈今の暮らし〉になりかけていた。


 けれどふと、脳裏に現実世界の台所がよみがえる。


「……ていうか、冷蔵庫開けっぱなしになってるのかな!? やば、食材傷んでるかも……いや、もう腐ってる……冷蔵庫壊れちゃってるかも……あれ? あの世界の時間って止まってるんだっけ……?」


 頭を抱えながら、混乱とともに思い出されるのは、あの見慣れた部屋。いつも〈帰る場所〉だったはずの、マンションの一室。


 


「ユリ、〈帰る場所〉は、ここにもあるかもしれませんよ。」


 隣に座っていたヨッピーが、慌てる私を宥めるかのように、静かに口を開いた。


「……どういう、こと? ヨッピーのお家、部屋余ってる……?」

 

「実は各地を旅するフレグランティアのための休息所があるんです。名前は〈とまり木〉。安心して羽を休めるための、守られた場所です」


「とまり木……」


「帰る家というよりも、〈変わらない空間〉といった方が正しいかもしれません。どの街にあっても同じ形、同じ香りで――これから、行ってみませんか?」





 ―― 


 街の外れに、静かに〈とまり木〉は建っていた。森と石畳のあいだ、目立たない場所にぽつんと。扉は古い木製で、表札もない。ただ、風に揺れる銀色の香り風車が、カラカラと音を鳴らしている。


「誰もいないの?」


「はい。フレグランティア専用なので、出迎えはありません」


 ヨッピーが一歩前に出ると、カチリと小さな音を立てて扉が開いた。


「香りの鍵です。登録された者の〈記憶の香り〉に反応して開くんですよ」


 (この世界の〈香り〉ってなんでもありだな……魔法みたい)


 中は、思ったよりも狭かった。四畳半ほどのワンルーム。白い壁と、低い木の棚。寝台と小さな水場。荷物を置くスペースすら限られている。無駄は何もなく、過不足もない。庭があるようで、小さな花と見覚えのある草が揺れていた。


「外の植物……見覚えがあるんだけど、あれって何ていう植物なの?」


「あれはバルデで食べた〈トミョミョ〉ですよ。〈とまり木〉でだけ花が咲くんです。ここでしか嗅ぐことができない特別な香りで、私たちフレグランティアはトミョミョの花の香りを嗅ぐことで、〈日常〉を味わうんです」


 


 ヨッピーは庭へ出た。トミョミョの花へ嘴をそっと近づけると、呼応したように震えた花弁がいくつか落ちる。白銀の羽でそっと掬い上げ、部屋へ戻り、小さな水場の上に浮かべた。――すると、水面に薄く色が広がり、かすかに甘く、落ち着いた香りが部屋全体にじんわり満ちていく。


 


 その香りは、朝ごはんを待ちながら広げた新聞の匂い。

 洗い立てのタオル。寝る前に、お気に入りのマグカップに入れた少し熱めのレモンティー。

 ――そんな、何気ない毎日の記憶をくすぐるような、〈日常〉の匂いだった。


 


 ヨッピーは目を閉じ、水に顔を近づけて、そっと呼吸する。


「……うん。今日も、いい香りですね」


 まるで、ごはんを味わうような、幸福そうな声だった。その様子を眺めながら、ユリは視線で室内を一周してから、寝台の上に腰を下ろした。その合間にヨッピーはどこからか、使い慣れたようなマグカップを出してきて、トミョミョの花弁を浮かべた水を飲ませてくれた。ミントティーを飲んだようなスッキリ感のあとに、温かいココアを飲んだような微睡が落ちてくる。それをトミョミョの花の香りと共に味わった。 



「初めてきたはずなのに、落ち着く部屋だなぁ……」


 変わらない空間。どこにいても、ひと息つける、自分だけの小さな場所。それはなんだか、仕事で疲れてマンションへ帰ってきたとき、無言で照明のスイッチを入れる、あの瞬間みたいだった。


「ねぇ、ヨッピー。……ちょっとだけ、寝ていい?」


「ええ。ちょっとと言わず、しっかり休んでください。ここでは、何も心配いりませんから」


 


 ユリは目を閉じた。いつかまた現実に戻るのかもしれない。けれどその時は、アルマルカのことを夢だったなんて、思いたくない。


 ここにちゃんと、あった。日々があって、ヨッピーがいて。こうして羽を休める場所が、ちゃんとあったんだって。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る