第3話:金の粒と香りの種〈モロコの雫〉と不思議な〈トミョミョ〉

 ミルバザールも日が傾き、夜の香りがそよいできた頃。市場の通りを、ユリはふんわりとした気分で歩いていた。


「ねぇ、ヨッピー。今日は飲みたい気分なんだけど、いいかな?」

 

 頬をかすめる風は春のぬくもりを含んでいて、それだけで少し酔いそうになって、そわそわした気分だった。


「もちろんです。実はそう言うと思って、ちょっと素敵な場所を予約しておきました」


 お淑やかな声の主は、ユリの隣を歩く美しいグリフォン。ヨッピーの羽は、薄暗くなりつつある街の中で、ほんのりと光を帯びていた。


 ――通りから小道に入り、重厚な木の香りの結界をくぐった先に、その〈素敵な場所〉はあった。大木の横にある看板には小さな文字でこう書かれている。


 【Bar'de 〜フレグランティアのための静かな一杯を〜】


「バルデ? この場所がもうさっき言っていた場所なの…? いやそもそも、わたし入っていいの? わたしはフレグランティアじゃ――」

 

「大丈夫ですよ、ユリ。〈シルバー〉の付き添いなので、香りの結界もユリを受け入れてくれています。ほら、その木の扉を押して、店に入ってみてください」


 ヨッピーはそう言って、〈シルバーフレグランティア〉だけが持つ証、光る羽飾りを見せながら、翼の先でユリの背を大木の方へと優しく押した。


 ――大木をよく見ると、ドアノブのように隆起しているところがある。手のひらを当ててそっと押すと、「ピューイ」と澄んだ鳥の声が響く。大木に吸い込まれる感覚が、胸をドキドキさせる。


 (こんな木の中にお店があるなんて……! これがフレグランティア専用の、バルデ……)

 

 店内は驚くほど静かだった。やわらかであたたかい木漏れ日のような照明と、木のカウンター内の棚にずらりと並ぶ無数の樽。そのすべてから、微かに異なる香りが漂っている。声ではなく、香りが会話しているような空間だった。

 

「いらっしゃい」


 グリフォンがカウンターの奥から現れ、低い響きのする鈴のような声でゆったりと挨拶してくれた。ヨッピーとは明らかに雰囲気が違い、スモーキーな香りを纏い、深く濡れたような艶のある〈黒色の羽〉。黒いグリフォンは慣れた手つきで樽を選び、透明なグラスに琥珀色の液体を注ぎ、ユリの前に置いた。


「お先にどうぞ。ヨフィリアさんのは、今お出ししますね。お待ちください」


 ヨッピーの親しげな「ありがとう」という声を背中で聞きながら、黒いグリフォンはするりとカウンターの奥へ戻って行った。


「……これ、は……ビール!?」

 

「これは〈モロコの雫〉と言って、〈モロコ〉をじっくり発酵させて作られた飲み物です。香りの花と共に樽に入れることで、香ばしさと甘さが楽しめる飲み物なんです。こちらはミルバザール産のものなので、少しだけ春の風味も楽しめますよ。どうぞ、飲んでみてください」


 ユリは確かめるように一口飲んだ。最初にくるのは、やわらかな香ばしさ。ついで、喉の奥をくすぐる軽い酸味となめらかな泡。そしてじんわりと広がる甘み。ふう、とため息をもらしたその瞬間、何かがほどけた気がした。


「これ、すごく……落ち着く……」


 ふわっと白い泡のような小さな花が、ユリの頭上に舞い上がる。ヨッピーの首元にある香り袋を預かり袋を開くと、花たちはゆっくり袋に吸い込まれていった。


「白い花……なんて珍しい。ユリ、ありがとう」

 

「お待たせしました、どうぞ」

 

 モロコの雫に夢中になっている間に、黒いグリフォンが再びカウンターに現れていた。カウンターには小さな2つのグラスと、器に入った金色の小さな煌めく粒が置かれている。


「これは特別なモロコ、〈ゴールデンモロコの雫〉と、その種のおつまみです。バルデでしか味わえない……フレグランティアしか入手できない、希少なものなんです」


「ヨッピーって、香りの花以外も食べられるんだね!」

 

「ええ、主食ではありませんが。これ、香りがとても良くて……大好物なんです」


 そう言って一粒口に含むと、ヨッピーはふわりと羽をふるわせ、やわらかな甘い香りの白銀の花びらが舞う。目を細めたその表情は、うっとりとした幸福そのもの。


「……そんなにも美しい花びら、初めて見たかも」

 

「ふふ。香りにも、喜びにも、いろいろなカタチがあるんですよ」


「こちらもどうぞ、ぜひ香りが冷めないうちに……」

 

 次にテーブルに運ばれてきたおつまみは、トミョミョの香味あえ。シャキッとした食感と、香ばしい葉のにおいが、ユリの食欲をくすぐった。黒いグリフォンの言葉に急かされるように、ゴールデンモロコを横目に手を伸ばす。


「……うん、これ、やばい。延々と食べちゃう」

 

「ゴールデンモロコの雫と一緒にどうぞ。味も香りも引き立て合います」



 

 ――


 黒いグリフォンともすっかり打ち解けて、ヨッピーとユリが出会った草原はコトリューデと言って、稀に迷い込む人がいることやヨフィリアはヨッピーの本名であることを教わった。今日食べた屋台の話にも花が咲く。和やかな空気の中で、静かにモロコの香りが揺れたとき、ヨッピーがぽつりと呟いた。


「ユリ。あなたは、元いた世界へ戻りたいですか?」


「え……?」


「ただ、今みたいに美味しいものを食べるだけでも、もちろん素敵です。けれど、もし――この世界、アルマルカで、あなたの〈喜び〉が誰かの救いになるのだとしたら。それをどう思いますか?あなたの特別な香りの花なら、フレグランティアになれる……あなたの喜びはこの世界にとって、とても重要な香りなのです」


 ユリはグラスを見つめた。底にわずかに残った〈モロコの雫〉が、柔らかく光っていた。


「……まだ、よくわからないけど」

 

 ユリは小さく笑った。


「たぶん、食べて笑って、誰かが喜んでくれたら、それってすっごく最高って思っちゃう……かも? でも、うーん……元の世界に戻る情報を探しながら考えていく……そんなフレグランティアって、許されたりするのかな」


 ヨッピーはゆっくり、深く頷いた。


「もちろん、許されます。それに――」

「うん?」

「それが〈あなたらしい香り〉です」


 その言葉に、ユリの胸が少し熱くなった。何か大きなことを決めたわけじゃない。けれど、ひとつ確かに言えるのは――




 この世界〈アルマルカ〉で、私は今、生きている。




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