観測しない

川上いむれ

第1話

 私とその男は大学の階段で出会った。

 階段、といっても普通の階段ではない。私の通っている大学には大きな講堂のある棟があるのだが、その中に三百段はあろうかと思われる大階段があるのだ。登り続けるとそのまま学舎の屋上に出る事もできる。

 大学生活三年目に至ってもろくに友達の出来なかった私はその大階段を登って屋上に出て 、なんとなく風に吹かれているのが日課になっていた。そんなある日その男に出会ったのだ。


 男は階段の上の方、上から15段目ぐらいに腰掛けて座っていた。黒一色の服を着て、ハードカバーの本を読んでいた。本の表紙まで真っ黒だ。

 ……私は社交力の高い方ではない。というかはっきり言ってコミュ障だ。初対面の人に話しかけるのはエベレスト登頂とまではいかなくてもキリマンジャロ登頂ぐらいには難易度が高い。

 でもその時の私にとっては不思議とその男に話かけるのは簡単なことだった。

「あの、なに読んでるんですか?」

 男は驚いたように顔を上げた。当然だろう。一人で読書を楽しんでる時に見も知らぬ女に急に話しかけられたら。

 男は答えた。

「☓☓☓☓」

 その本の名前は、覚えていない。


 私はその男とよく喋る仲になった。一緒に学食に行き、空きコマに会い、たまには休日にも遊ぶ。ある程度仲のいい友人といったところだ。

 ある日彼がこんなことを言った。

「一人でいる時の人間の価値と10人でいる時の人間の価値は同じだと思う?」

 ……?言ってることの意味がよく分からない。

「時々こう思うんだよ。一人の人間と集団でいる時の人間って、生物学的に違う存在じゃないのかって。人間の個体にはホモ・サピエンスっていう学名がついてるけど、群体の人間にも何か別の学名が必要なんじゃないのかなって」

 やっぱりよく分からない。私に生物学の素養はないけど反論してみる。

「よく分かんないけどさ、そうはならないんじゃないの?ペンギンは南極で凍えないように押しくらまんじゅうをしてるけど、まんじゅうになったペンギンがペンギンじゃないなんて話は聞いたことがないよ」

 相手は笑った。

「そういうことが言いたかったんじゃないけどな…。まあいいや」

 この会話をきっかけに、私はある事に思い至った。彼にとって「集団の人間」あるいはもっと言い切って「社会」は自分にとって相容れない異形の生物ではなかったのだろうか。正直私も似たような感覚にとらわれた事はあるのでその気持ちは全く理解できない訳でもない。でも、と思う。世の中の人は多かれ少なかれみんなそんな事を考えていて、その上でなんとか社会と折り合いをつけてやっているのではないだろうか。わたしには彼の主張は「今さら言ってもしょうがないこと」に思えてしまった。


 彼と知り合って3ヶ月ほどがたったある日。異変が起きた。連絡が取れなくなったのだ。

 LINEを何度送っても既読はつかない。通話にも応答なし。大学でも見かけなくなった。

 嫌な胸騒ぎがした。私にとって彼は数少ない外界との接点だったのだ。バイト先でもゼミでもろくに友達のいない私にとって、彼は自分の深部をさらけ出せる貴重な存在だった。正直彼の世の中を斜めに見たような物言いは鼻につくことがあったけど、それはどんな人も持っているささいな欠点の一つに過ぎないだろう。

 焦った私は彼と同じゼミのゼミ生を見つけ、問うた。すみません、〇〇君って今何してるか知りませんか?もう5日ぐらい連絡が取れなくて。

「あいつなら今週は見てないね。俺のLINEにも返信しないし、かぶってる授業でも全く見ないよ。もともとあいつ友達少ないし、なんか浮いてるようなところあったから心配してたんだよな」

 私はその人に無理を言って彼のアパートの住所を聞き出した。この大学の学生が多く入居している二階建ての安アパートだ。


 土曜日、私は意を決してその住所に向かった。男が一人暮らしをしてる家に一人で行くなんて初めてのことだったけど、今はそんな事を気にしている場合じゃない。彼は私にとっての外界の接点…いや、そんな回りくどい言い方をするまでもない。

 

 彼は私の「同類」なのだ。


 そのアパートについた。たしか部屋番号は205。飾りっ気のない階段を登る。

 その部屋の前についた。チャイムを押す。

「すいませーん。〇〇くん、いますかー?」

 そこそこ声を張って呼びかける私。応答はない。ドアノブを掴むも、当然鍵がかかっていた。

 その時ある事に気がついた。郵便受けに郵便物が詰め込みっぱなしになっているのだ。それにもう一つ。ドアの前の床にはほこりが積もっていて、最近開けられた形跡がない。


 どくん。


 2つの可能性があるだろう。一つは彼がこのアパートをふらりと出て、放浪の旅にでも出かけたということ。実家に帰省したのかもしれない。LINEに返信が無かったのは私みたいなウザい女とこれ以上絡みたくなかったから、とか。

 

 もう一つ。もう一つの可能性。

 

 彼ははっきり言って社会に上手く馴染めている方ではなかった。一度など「僕は地球に向いてないんだよ」とか放言してたこともあったっけ。彼が生きづらさを抱えていたのは間違いない。多分、私よりもずっと。その場合、彼はこの部屋の中で───。


 シュレディンガーの猫という喩えがある。思考実験の一つで、箱の中の猫はそれを開くまで生きているか死んでいるか分からないというものだ。要するに観測するまでは結果は確定しない。重なり合った状態の一匹の猫。


 観測するまでは、結果は確定しない。


 その時の私がどんな行動をとったかはあやふやにしか覚えていない。でも私は隣の部屋の人に頼んでベランダから彼の部屋の様子を見てもらうことは頼まなかったし、大家さんを呼んで鍵を開けてもらうこともしなかった。

 私は何もせずその場を立ち去ったのだ。


     * * * * *


 私は何をするべきだっただろう。

 あれから彼と会うことはなかった。私は彼の学科があるキャンパスに近づかなくなったし、彼のLINEは自分から削除した。彼は何事もない顔をして大学に戻ってきたかもしれないし、二度と戻らなかったかもしれない。

 当時から早くも数年が過ぎた。私は就職して、とある企業の事務職に就いている。最近恋人も出来て、もうすぐ同棲する予定だ。

 あれから時がたった今でも時々思うことがある。観測しない──。あるいは選択しないということ。それはある意味では生を拒絶することそのものかもしれない。私は確かにありえた一つの生を自分で拒絶したのだ。


 今の私は、別の自分を生きている。



            ──完──



 

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