死神上司は、死に戻る私に毎回プロポーズしてくる

ソコニ

第1話 プロローグ ― ブラック企業と事故の夜



アスミ広告の会議室に、営業部長の怒号が響き渡った。


「これで何回目だ!風間!こんなデザインでクライアントに出せるわけないだろ!」


風間沙月は小さく体を縮こませ、目の前で激怒する上司に頭を下げた。彼女が作り直したバナーデザインは、とっくに修正期限を過ぎていた。理不尽な要求と短すぎる納期の狭間で、沙月は必死に粘っていたのだ。


「大変申し訳ありません。今すぐ修正いたします」


沙月の謝罪を無視するように、部長は鼻を鳴らした。


「今日中にやり直せ。残業代?そんなもの出ない。それが嫌なら他所に行け」


会議室を出ていく部長の背中を見送りながら、沙月は深いため息をついた。入社して1年と数ヶ月。この会社が「ブラック企業」と呼ばれる所以を、彼女は身をもって知っていた。毎日の深夜残業、休日出勤、そして見返りはほとんどない。精神的にも追い詰められる日々。


「風間さん、大丈夫?」


同期の三島が心配そうに声をかけてくる。沙月は無理に笑顔を作った。


「うん、平気。ありがとう」


会議室から自分のデスクに戻る途中、沙月は黒瀬の姿を見かけた。クリエイティブディレクターの黒瀬嵐。彼は会社で最も優秀でありながら、最も冷徹な人物として知られていた。部長とは違う形の厳しさがあり、沙月は彼の前では常に緊張していた。


黒瀬は沙月と目が合うと、わずかに顔をしかめ、無言で通り過ぎた。


「やっぱり私のこと、嫌ってるのかな…」


沙月は小さく呟き、自分のデスクに戻った。PCを開き、修正作業に取り掛かる。画面の時計は午後4時を指していた。今日も終電になりそうだ。


---


夜の10時を過ぎても、沙月はオフィスにいた。同僚たちはほとんど帰り、フロアには彼女の他には数人しか残っていない。デスクの明かりだけが島のように点在する暗いオフィス。沙月は目を擦りながら、最後の修正を加えていた。


PCの画面から目を離し、一瞬窓の外を見やると、東京の夜景が広がっていた。無数の光の点々が、星のように輝いている。沙月は自分の人生がこのままでいいのか、ふと考えた。毎日が同じ繰り返し。何のために頑張っているのか、もう分からなくなっていた。


「まだ終わらないのか」


突然の声に、沙月は驚いて振り返った。そこには黒瀬が立っていた。いつもの冷たい表情で、彼女のデスクを見下ろしている。


「黒瀬さん…あ、はい、もう少しで終わります」


沙月は慌てて答えた。黒瀬はデスクに置かれたデザイン案を一瞥し、鋭く指摘した。


「このフォントサイズは小さすぎる。色も薄い。こんなものでは読者の目を引けない」


彼の冷徹な評価に、沙月は肩を落とした。しかし、反論する勇気はなかった。


「修正します…」


黒瀬は無言で沙月を見つめ、そして短く言った。


「今日は早く帰れ。その修正は明日でいい」


意外な言葉に、沙月は目を丸くした。黒瀬が誰かの残業を気にかけるなど、前代未聞だった。


「でも部長が今日中にと…」


「俺から言っておく」


黒瀬の言葉は柔らかくはなかったが、どこか普段と違う何かがあった。沙月が戸惑っていると、黒瀬は続けた。


「体調が悪そうだ。無理をするな」


そう言い残し、黒瀬は立ち去った。確かに沙月は疲れていた。頭痛もひどくなっていたし、目の奥がズキズキと痛む。でも、黒瀬がそれを気にかけるとは思わなかった。


「ありがとうございます…」


沙月は小さく呟き、PCをシャットダウンし始めた。


---


雨が降り始めていた。


会社を出た沙月は、駅に向かって歩いていた。小雨が彼女の肩に当たり、やがて本降りになってきた。傘を忘れた沙月は、コンビニの軒先で雨宿りすることにした。


「ちょっと待てば止むかな…」


しかし、雨は強くなるばかり。時計は23時30分を指していた。このまま待っていては終電に間に合わない。沙月は意を決し、雨の中を駅に向かって走り出した。


頭痛が激しくなっていた。視界もぼやけ始めている。過労と睡眠不足が体を蝕んでいることを、沙月は痛いほど自覚していた。


「あと少し…」


駅まであと数百メートル。信号が赤に変わりかけている。沙月は急いで横断歩道を渡り始めた。


その時だった。


「危ない!」


誰かの叫び声が聞こえた気がした。沙月が顔を上げると、目の前に大きなヘッドライトが迫っていた。信号無視のトラック。避ける間もなく、沙月の体は宙に舞い上がった。


激しい衝撃。そして全身を走る痛み。


沙月は冷たいアスファルトの上に倒れていた。雨が彼女の顔に落ちてくる。視界が赤く染まる。周りで人々の悲鳴や叫び声がするが、それらはどんどん遠くなっていく。


「あぁ…死ぬのかな…」


沙月は不思議なほど冷静に考えていた。残した仕事のこと、両親に心配をかけることになること、そして、まだやり残したことがたくさんあることを。


目の前が暗くなっていく。意識が遠のいていく。


その時だった。


「沙月!」


誰かが彼女の名を呼んだ。見知った声だった。沙月は最後の力を振り絞って目を開けた。


彼女の前にひざまずいていたのは、黒瀬だった。


「黒…瀬さん…?」


なぜ彼がここにいるのか?沙月の混乱した思考は、その疑問に答えを見つけられなかった。


黒瀬の表情は、沙月がこれまで見たことのないものだった。冷徹さは消え、代わりに深い悲しみと懸命さが浮かんでいた。彼は沙月の体を優しく抱き起こした。


「大丈夫だ、君を助けに来た」


その言葉に、沙月は混乱した。助ける?どうやって?彼女は明らかに重傷を負っていた。そして何より、なぜ黒瀬がここにいるのか?


「どうして…ここに…」


血の味が口に広がる。話すのも辛かった。


黒瀬は沙月の髪を優しく撫で、言った。


「君の死を何度も見てきた。もう二度と、そんな目に遭わせない」


意味の分からない言葉だった。沙月の意識は次第に薄れていく。黒瀬の姿もぼやけ始めた。


そして彼は、信じられない言葉を口にした。


「結婚してくれ、沙月」


プロポーズ?今?ここで?死にかけている時に?


沙月は笑おうとしたが、痛みでそれもできなかった。これは夢なのか?死の間際の幻覚なのか?彼女は理解できなかった。


「冗談…ですか…?」


黒瀬は首を横に振った。彼の目は真剣そのものだった。


「俺は君を守る。何度でも」


沙月はもう答えることができなかった。意識が完全に闇に落ちていく。最後に彼女が見たのは、雨の中で自分を抱きしめる黒瀬の姿だった。そして彼の口から漏れる言葉。


「君が死ぬ世界なんて、俺が壊してやる」


沙月の意識は、その言葉を最後に闇に飲み込まれた。


黒瀬の不思議なプロポーズ。死の淵での奇妙な出会い。


この出来事が、彼女の運命を永遠に変えることになるとは、この時の沙月には知る由もなかった。それは、死と再生の不思議な物語の、ただの始まりに過ぎなかったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る