第8話 シスターのゲーム 04


01


 ショータは混乱していた。


「2人とも……どこいっちゃったのかな……?」


 混乱しつつ箒とチリ取りを動かして掃除を続けていた。


 サキュバスと化したマザーウィル様が自分に接吻しようとしたら屋根を突き破って戦闘モードのレミュータさんが出現して次の瞬間2人とも消滅してしまった――少年に理解できたのはこれだけである。この状況で混乱しない方が無理だろう。

 しばらく唖然あぜんとしていたショータだったが、いつまでたっても2人が戻ってこないので、困惑は心配に変わっていった。

 とはいえ平凡な少年司祭に何ができるのだろう? 普段頼りになる大人は消滅した当人たちだ。

 近所の住民に助力を求めても、


「実はサキュバスだった司祭様と身長3mの戦闘機械に変身した修道士が行方不明になりました。ついでに教会の屋根も微塵に吹き飛びました」


 ――と説明した所で、まともに信じてもらえるとは思えない。


 途方に暮れたショータは、とりあえず壊れた屋根の後片付けを始めた。

 そんな事をしている場合じゃないのは少年も理解しているが、まだ頭が混乱しているのと、マザーウィルにレミュータというショータが尊敬し頼りにしている2人なら、それほど悪い事にはならないだろうという信頼もあったからだ。


 それが大きな間違いである事を思い知らされたのは、両者が消えてから約2時間後、再び2人が唐突にシュータの目の前に出現してからだった。


「レミュータさ…ん!?」


 恩人たちの帰還にショータは喜び、すぐに再び困惑した。

 褐色のサキュバスと白銀の戦乙女はどちらも傷だらけだったのである。消えている間に何が起こったのか。

 特に爆乳が色々と大変な事になっている。いや、ホントに何があったのか。


「待たせてしまいましたね、ショータ司祭」


 ショータに微笑むマザーウィルの声色は、小悪魔的な黒ギャルではなく慈愛に満ちた聖母のそれだった。

 いや、口調だけではなく、その姿も10代後半の美少女から三十路の美女へと急速に姿を変えていく。

 一呼吸の間に、恐るべきサキュバス・エンプレスは慈悲深いラミュルト教の女司祭へと戻っていた。

 普段と変わらない姿の(全裸だが)マザーウィルは、改めてレミュータに向き直り、両手を胸の前に組みながら深々と頭を垂れた。


「申し訳ありません、レミュータ修道士。あなたを試すような真似を――」


 ドスッ


 マザーウィルは台詞を最後まで言えなかった。

 レミュータの手刀が爆乳の谷間に深々と突き刺さったからだ。


「かはっ!?」


 驚愕の声と鮮血を吐き散らしながら、マザーウィルは瓦礫の散らばる床に倒れ伏した。

 人間なら間違いなく即死したであろう、容赦のない一撃だった。


 『…………』


 間髪入れずに叩き込まれる神速のストンピングを、ギリギリ転がり避けるマザーウィル。今度はサキュバス・エンプレスでも即死しかねない追撃だ。


 まだ戦いは終わっていない。少なくともレミュータにとっては。


 重傷の女司祭は震える腕で上体を起し、迫り来る殺戮者を下から見上げた。

 無言無表情――普段と何も変わらない態度のレミュータ。

 そう、何も変わらなかった。

 教会の面子と談笑している時と、アニスと奉仕活動をしている時と、ショータにどこか危険なスキンシップをしている時と、何も変わらない。


 何も変わらないまま、マザーウィルを確実に抹殺しようとしている。


 マザーウィルは恐怖した。

 殺される事への恐怖ではない。喧嘩を売ったのは自分だ。それくらいの覚悟はできている。

 ファンタズマ最強の魔族が恐れたのは、眼前の戦闘機械の“心”だった。


 魅了の術を得意とするサキュバスは、副産物として相手の精神構造をある程度は読み取る事ができる。一種のカウンセリングと考えればいいだろう。

 生物非生物を問わず、自立行動する存在には必ず『心』がある。

 レミュータが感情が無いアンドロイドであるとかAI規制条約とか些末さまつな事は関係ない。

 アンドロイドと類似した存在であるゴーレムやアンデットのように、人間のそれとは全く異質の思考であっても、自己判断能力に基く自立行動を取る限り、心や心に類似する擬似的な精神サーキット構造は確実に存在するのだ。それが無ければ自立行動自体が成り立たない。


 だが、サキュバス・エンプレスの無限の魔力で読み取ったレミュータの心――それは『虚無』だった。


 マザーウィルを殺傷しようとするレミュータの心には、怒りも、悲しみも、憎しみも、快楽も、義務感も、愛も、狂気も、何も無かった。

 レミュータは、ただ無垢な心のまま、虚無の精神のまま、隣人を殺そうとしている。

 虚無のまま、何かを成そうとする存在――ありえない存在。

 未知なる恐怖がマザーウィルの精神を鷲掴みにした。

 理解してしまったのだ。


 眼前のアンドロイドが、決してこの世界に存在してはいけない『何か』であると。


『…………』


 レミュータは目標に止めを刺そうと片手を上げた。

 マザーウィルは何もできなかった。

 もう、誰も、最強のアンドロイドを、最凶の戦闘マシンを、止める事はできない――


「ダメーっ!!」


 レミュータの動きが停止した。


 彼女の大きなお尻に必死の面持ちで抱き付くショータ。

 戦闘行為を遂行するレミュータを止める事ができる、宇宙でただ独りの存在。


 ショータは荒い息を吐きながらレミュータの正面に立ち、その無機な美貌を両手に挟んで、ぐいっと自分の眼前に引き寄せた。白いおでこと白銀の額がコツンと触れ合う。


「レミュータさんに命令するよ」


 その眼差しは宇宙の何よりも純真で――


「あなたはもう誰も殺してはいけない!!」


 世界のどこかで何かが砕け散る音がした。


 あまりにも無茶苦茶な命令だった。

 残酷極まる命令だった。

 戦闘用アンドロイドに不殺の誓いをさせるとは、鳥に空を飛ぶな、魚に泳ぐなと命じるに等しい。それはレミュータという存在のアイデンティティを完全否定するも同然である。

 命を救われたマザーウィルさえも、唖然として2人を見上げていた。


 しかしショータは真剣だった。この命令には青少年や宗教家にありがちな『生命の無差別的絶対尊重』の思想も少しはあったかもしれない。

 だがそれ以上にショータを突き動かしたもの――それは恐怖と責任感だ。

 今、ここで、レミュータにあらゆる殺戮行為を禁止させなければ、何かとてつもなく恐ろしい事が起こる――根拠はなくても、なぜか少年はそれを確信していた。もはや理屈ではなかった。


 そして、当のレミュータは――


『命令を受諾します』


 即答。

 それが如何いかに理不尽な命令だろうと――

 己の存在意義を否定するものだろうと――


 アンドロイドにとって、マスターの命令は絶対である。


「……ごめんね、レミュータさん」


 ショータは謝った。泣きそうな声で謝った。理由も分からず謝った。おでこをくっ付けたまま謝った。


「問題ありません、マスター」


 白銀の戦乙女の返事は、相変わらずの無表情で、無感情な声で――どこか優しい響きだった。


 そんな2人の姿を見て、マザーウィルはどこかホッとした様子で吐息を漏らした。


 殺戮行為を禁止された戦闘用アンドロイド――別にいいじゃないか。

 地球で何億機と製造された自立型戦闘機動兵器の中に、そんな変り種が1つくらいあってもいいかもしれない。

 空を飛ばない鳥もいる。肺呼吸をする魚だっているのだ。


 ……そして、この命令が異世界ファンタズマの運命を決定する事になる。



 バァン!!


 突然、部屋のドアが派手な音を立てて開けられた。

 3人の体がビクっと震え、恐る恐るドアの方に目を向ける。

 そこに鬼がいた。

 ぜーぜーはーはー肩で息を吐き、真っ赤な顔は汗だくだ。全身雪まみれの泥まみれ。ミルク瓶が山積みの籠を重そうに背負っている。


「この惨状は何なのよぉおおおおお!!!」


 怒れるアニスの咆哮が、教会をビリビリと震わせた



02


 十分後――

 とっぷりと夜のとばりが下りたショータの部屋での真中で、2mを軽く超える背丈と爆乳を肩身狭そうに縮こませながら、マザーウィルとレミュータ(待機モード)が仲良く並んで正座していた。

 いや、正座させられていた。

 2人の正面に仁王立ちするは、怒マークを額に浮かべたアニス。その背後でオロオロしているのはショータだ。


「あの……私、一応、この教会の司祭なのですが……」

「サキュバス・エンプレスが今さら何をほざいて――言ってるのですか」

『なぜ私まで正座を強要されるのでしょうか』

「あたしを置いて勝手に帰ったからに決まってるでしょ」

「……ねぇアニス……もうちょっと優しくしてあげても……」

「ショータは黙ってて」

『「「あううぅ……」」』


 夜中の10kmを超える雪道をクソ重いミルク瓶を背負いながら死に物狂いに走破して帰宅した怒れるアニスは、ファンタズマ最強の魔族と地球最強の戦闘用アンドロイドに、教会の屋根を盛大に破壊させるに至った過程と原因をじっくりたっぷり念入りに説明させた。ついでに敬愛する女司祭の正体と経歴も自白させた。


 魔界で誕生したマザーウィルは色々あって地上に来て色々あってラミュルト教の司祭となって色々あってミルゴ村に住む事になったという。

 その後は空腹になる度に適当な村人を魅了して精気を吸い取り、その間の記憶を消して開放する……という日々を過ごしていたが、つい先日にショータが『成人の証』――いわゆる精通を迎えたので、同じように精気を吸わせてもらおうとしたら、それを様々な意味でマスターの危機だと判断したレミュータによってボコボコにされた……というのが、事の顛末てんまつである。


「あたしとしては、その『色々』について知りたいんですけど」

「詳しく話してもかまいませんが、1日や2日では終わりませんよ?」

「……やっぱり結構です」

『マスター、足が痛いです』

「あんたは黙ってなさい」

『…………』


 いずれにせよ、ぼそぼそと呟いたマザーウィルの現状に至るまでの過去は、ある意味、人間社会に潜むサキュバスの典型例と言えるかもしれない。

 彼女が本物のラミュルト教の司祭であり、サキュバス・エンプレスという魔王級の存在である事を除けば、であるが。


「あのぅ……ちょっといいですか?」


 少年がおずおずと片手を挙げた。


「さっき読んでいた本には、その、魔族の人たちはラミュルト様を憎んでいるって書いてあって、だから、ええと、マザーウィル様はどうして、その、司祭に……」


 ショータの声は最後の方はほとんど聞こえなくなっていたが、その意図は全員に伝わっていた。

 魔族であるマザーウィルが、ラミュルト神を信仰するに至った理由だ。


 ほぼ全ての魔族はラミュルト神とラミュルト教の信者に憎しみを抱いている。

 これは慈悲と慈愛を司るラミュルト神の教えが、破壊と殺戮を本能とする魔族とは正反対である点も大きいが、何より最初の『魔界大戦』の際に、ラミュルト神が地上勢力側に味方した事が決定的だった。

 魔族にとってラミュルト神は不倶戴天ふぐたいてんの敵であり、普通ならラミュルト教を信仰する魔族など考えられないのである。ましてや司祭の座に就くサキュバスなど前代未聞だろう。


 マザーウィルは天を仰いだ。どこか寂しげな表情だった。


「……色々あったのですよ」


 天井の大穴からは満天の星々が、2人の少年少女と一体のアンドロイド、そして1人の魔族を静かに見守っていた。


「そう、色々とね……」


 それ以上は追求できる空気ではなかった。


『マスター、足がしびれてきました』

「あんたは黙ってなさい!!」

『…………』


 ……空気を読むという概念が存在しない者もいるが。


 事情がどうあれ、10年間生活を共にしたショータから見たマザーウィルの信仰心は本物だった。アニスの所感しょかんも同じである。

 無論、サキュバス・エンプレスなら魅了の技や魔法で誤魔化す事は容易だが、そうした小細工を施行していたら、今はレミュータの『サイレンス・フィールド』で解除されているはずだ。

 そして現在も人間2人の意見は変わらなかった。


 ちなみにレミュータの想定とは違い、村人への洗脳行為も吸精時の記憶消去以外はおこなっていないという。

 彼女がミルゴ村の人々にしたわれているのは、当人と献身と誠実さの賜物だったのだ。


「それで……これからどうするか、なんだけど……」


 アニスの声は歯切れが悪かった。

 マザーウィルがサキュバス族の間では時折見受けられる“人間社会に適応した善良な魔族”であるのは明白である。

 慈悲と慈愛を旨とするラミュルト教徒としては、このまま見守りつつ見逃したいのが本音なのだが――問題は、彼女が『魔王級』の魔族である事だ。

 単身で世界を滅ぼしかねない存在を放置するのは、あらゆる意味で難しいだろう。

 いずれにしても、この件が12歳と10歳の子供の手に余る事態である事は明らかだ。やはり村の大人たちに連絡するしかないのか――


「その必要はありませんよ」


 頭上の穴を見上げながらマザーウィルは呟いた。

 その視線の先から、いつのまにか星々の輝きが消えていた。


「もう連絡は済ませていますから」

『……!』


 アクセラレーションで加速したレミュータが戦闘モードに変形しつつ、ガードする為に人間2人の前に立つ。

 天井の大穴から猛烈な強風が吹き込んできたのは次の瞬間だった。


「うわっぷ! ななな何よこれぇ!?」

「あああせっかく掃除したのに……」


 突風に巻き上げられた天井の残骸が部屋中を暴れ回る。

 突然の事態に慌てるアニス&ショータの声を背に受けつつ、レミュータの多目的センサーは教会の上空に浮かぶ全長数百mに及ぶ直方体の飛行物体をとらえていた。


「あらまあ、思ったよりも来るのが早かったですね。近所の方々が驚かないかしら」


 のほほんと頬に手を当てる女司祭の肢体したいを、飛行物体から投射されたサーチライトの光柱が艶やかにライトアップする。

 歌劇役者のように優雅に立ち上がったマザーウィルは高らかに歌った。


「出発しましょう皆さん――“皇都アジャーハ”へ」




つづく




『マザーウィル、あなたに1つ言いたい事があります』

「あら、何でしょうか」

『あなたのギャル語は少々古過ぎます』

「えっ」(ガーン)




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