初恋


空は、トルコブルーのなめらかな板でできていました。行列は、その空に、両手に持った大きな吸盤を交互にはりつけながら、行進していました。足に触れるものは何もなく、みな空にぶら下りながら進んでいました。互いを命綱で結びあい、空を這うように進んでいく行進は、下から見ると、空をゆっくりと泳ぐ小さな蛇のようにも見えました。


月は空になく、眼下の大地にたくましく盛り上がった緑の山脈の中に、まるで巣の中に産み落とされた卵のように安らいでいました。それは山よりも大きな月で、真珠のように照り光り、大地と空を清らかに照らしておりました。


わたしたちは、どうやらこのトルコブルーの空を、ずっと這っていなければいけないようでした。何のためにかはわかりません。行列に並んだ人はみな奇妙な仮面をつけ道化のような格好をしていました。その中で、ただひとりわたしだけは仮面をつけていませんでした。理由は、わたしが一匹の猿だったからです。


わたしが死んだのは、ついこの間のことでした。国道をバイクで走っていた時、交差点で右から突っ込んでくる車に気付かなかったのです。長いとも短いともいえぬ人生でしたが、死んだときは、やっと終わったのかと、ほっとしたものでした。わたしは生きているとき、いつもうぬぼれて、人をくだらないものと見下していました。そのせいで、ついには持っていたものほとんどを失い、まだ手に残っていた古いバイクを走らせ、すべての責任を放棄して、自分の人生から逃げ出したのです。


わたしの死を悲しむものはいませんでした。別にそれは構わないのです。わたしの周りにいた者は、みんな同じようなものばかりでした。日月の目の届かないところで、罪のない蛙の腹を割いて、金の粒を盗み出すようなやつばかりだったからです。


わたしは見えない姿のまましばらくぼんやりとそこらを歩いていました。空を見ると太陽の光が目をつらぬきました。わたしはありもしないはらわたの底を、一瞬のうちにねじりとられたような痛みを感じて、急いで暗がりへ走りました。近くに樹木の多い公園があり、わたしはそこに逃げ込みました。


わたしはそこで、一人の少女に出会いました。まだ中学生くらいでしょうか、額の秀でた横顔の美しい少女でした。彼女は木漏れ日を浴びながらひとりベンチに座り、うすい文庫本を読んでいました。生前、わたしはよくこんな女の子をいじめました。彼女らの長い髪や匂やかな肌や大きな黒い瞳が、異様に憎かったのです。女は嫌いだと言って、いつも追いまわし、影から常にいやなことをしながら、うそばかりついていました。


わたしは少女をしばらくじっと見ていました。微かな風が木々の梢と彼女の長い髪を揺らしました。本のページをぱらりとめくる音が、まるで蓮の花びらのはらりと落ちる音に聞こえました。わたしは静けさにいら立ちながら、ずっと少女を見つめていました。何か黒々としたものが、わたしの中のないはずのはらわたをきりきりとしぼりました。


突然少女は本をぱたりと閉じ、顔を空に向けると目を閉じて、詩の暗唱を始めました。それは藤村の「初恋」でした。


   まだあげそめしまえがみの

   りんごのもとにみえしとき


わたしの憎悪はいっぺんにふくらんで破裂しました。わたしはこの少女を、どうにかして壺のように割砕き、汚れたハエのように踏みにじり、その存在すべてを粉砕して、燃やし尽くしてしまいたいと考えました。しかしそのとたん、足元が砂のように崩れ、わたしはどこへともなく闇の中に吸い込まれてしまったのです。そして次に気付いたとき、わたしは一匹の猿となって、空につり下がっていたのでした。


それからずっと、わたしは月も日も星もない青空を、二つの吸盤を交互に空にはりつけながら、トルコブルーの中を這っているのです。大地に降りている月は、わたしたちを照らしながら、光とともに小さな白い蛾を無数に放ち、その蛾はわたしたちの耳元に止まって、永遠に大地を踏んではならないと、月の言葉を伝えるのでした。




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