夜明けが来る
手帳溶解
零、一日目
趣味に使えるお金が欲しくて、私はアルバイトを始めた。採用通知メールを受けた三日後に、一通の封筒と共に黒い箱が私の自宅に届いた。両手で抱え込める大きさの真っ黒な箱は段ボールのような質感で、何も入っていないのではないかと思うほどには軽く、揺すっても何かが内側を叩くようなことも無かった。加えて中を開くことも出来そうになく、私がその中身を確認することは不可能だった。封筒の中には一枚の手紙が三つ折りで入っており、そこには私に与えられた明日からの「仕事」の内容が簡潔な箇条書きに記されていた。
・箱は日の当たらない安定した場所に置く
・毎日午前7時と午後8時、箱の側面から30cmの範囲内に50gの塩を盛る
・午後1時、箱の前で以下の文章を読み上げる。
〈いつもどおり、きょうがすぎゆく。あんねいと、ていじょうをきざむ。〉
・午後10時、箱の側面から30cmの範囲内に出現する物体を回収し、焼却処分または可燃ごみとして廃棄する。
そして赤く太い字、更に二重の下線で大きく強調された文章が最後に書かれていた。
「餌やり、読み聞かせ、排泄物回収。貴方に求められている行為はそれだけです。それ以上の一切は行うべきではありません。」
私は指示の通り黒い箱を使っていなかった暗い部屋の机の上に置いた後、それを詳しく観察してみることにした。耳を当てても中に物音は無く、生き物の気配すら感じられない。箱の表面を良く撫でてみると微かな凹凸と指先が擦れてざらざらと鳴る。部屋の僅かな光が箱の表面に存在した規則的な刻印に影を流し込み、そこに十一個の記号の並びを作り出すが、少なくとも私が知っているような文字やマークではなく、それが何を意味しているのかは分からなかった。何かの警告文のようにも、贈り物に付属されるメッセージのようにも見えるその十一文字は、七文字目と十文字目のみ同一の形状で、そのどれもが曲線と円だけで構成されている。いくつかの方向から観察してみたが、その刻印は天面にしか彫られていなかった。箱はやや平べったく、完全な立方体ではない。例えるならホールケーキ用の箱が最も近いかもしれないが、一辺が30cm 程でそれよりは少し大きい。やや黴臭く思ったが、恐らくそれは始めからこの部屋に染み付いたもので、この箱本来の匂いは黴臭さに混じって仄かに香る紙の匂いだと推測する。こうしてじっくりと調べてみたものの、明確に指摘できるような異常性は箱の表面に刻まれた解読不能な文字列以外に確認できず、私は拍子抜けしてしまった。ここまで私がこの箱の違和感を警戒、或いは期待していたのは、私がそういった超自然的現象による精神的な刺激を求めている為であり、それがこのアルバイトを選んだ理由だからである。最寄り駅周辺の路地裏にひっそりと貼られていたB5サイズの、「生き物を育てる仕事」とだけ書かれた露骨に怪しいポスターを見つけ、わざわざ応募したのだ。そういった類のものを期待しないはずがなかったが、ともかく今のところは何もない。私はこれから起こる何かしらの超常現象や、報酬金額に胸を躍らせながら眠りにつくことにした。
それへの餌やりの為、私は朝早くに起床する。寝惚け眼をこすりながら、私は小皿に盛った塩を持ちながら部屋に入った。そうして扉を閉め、箱の前の椅子を引きながらデスクライトを点けて箱を照らした時、私は思わず着席を躊躇してしまった。2月の乾いた風が吹いた季節、外を飛び交う虫や動物の少なくなる時期にも関わらず、箱の天面や周りにパラパラと羽虫の死骸が散らばっていた。どの個体も頭部が欠損し、羽が千切れているが、四肢は繋がったままである。更に奇妙なことに箱の右側にだけは一切それらが転がっておらず、嫌に規則性を感じさせられるのだ。私はその状態をカメラで撮影した後卓上箒で死骸を片づけ、餌やりを済ます。どこから虫が入ってきたのか部屋全体を一瞥して、それらしい穴が無いことを確認する。そしてそのまま部屋を出ようと箱に背を向けた時、丁度その方向から物音がした。何か小動物の潜む音か、或いは床材や椅子の軋む音だろうと推測を立てながら振り返ると、そこには先程よりも斜めにずれた箱があった。風か、椅子を戻した時の衝撃か、私が無意識のうちにずらしてしまったか、或いは初めからずれていたのか。まるで独りでに箱が動き出したように感じて一瞬身が竦んだが、脳内でいくつかの可能性を挙げてそれを否定する。ともあれそこまで慄くべきことでもないだろうと自分に言い聞かせ、一息ついて身を落ち着かせてから部屋を後にした。それから5時間後、私は再び部屋の扉を開けた。箱のずれはそのまま変わりなく、皿に盛られた塩にも増減は一切確認できなかった。部屋に足を踏み入れるとほんの少し廊下よりも暑く感じられたが、部屋の換気などは行っているので空気が籠っていたことが理由であるとは思えなかった。むしろ、箱を熱源として部屋が暖められているようで、と考察しそうになるのを止め、私はやるべきことに集中する。箱の前まで移動し、たった一文を読み上げるだけだ。私は一度深呼吸してから、あの文章を読み上げた。箱に変化は起こらなかった。或いは何かが起こる前にすぐ部屋を出てしまったが故に私がそれを観測できなかったのかもしれないが、ともかく異常は見なかった。
午後8時、私は再び餌を持って部屋の扉を開けた。机の上には変わらず箱があり、机の上にはまた虫の死骸が散らばっていた。さっさと片付けてしまおうと部屋に入った時、妙に床が柔らかくなっているように感じ、そのまま私はバランスを崩して転倒してしまった。仰向けになった体を起こし、立ち上がろうと上を向いた時、私の視界にあの箱が映りこんだ。どろりと融解する長方形の影はアンティーク調で暗い木材の使われた机の色と混じり合い、やがて一体となった黒は焼け落ちるように朽ちて穴が開き始める。玉虫色の流動的な光がマンデルブロ集合のような模様を影に描き、そこに形容しがたい罅を垂らし、その背後に上る強い光が私の目を蝕み……私は机の上に変わらずただ置かれた箱を眺めていた。何が起きたのか一体何を見てしまったのかも分からぬまま、どうしようもなく私は立ち上がり作業に取り掛かった。箱の傍に置いていた小皿とその上に盛られた塩を新しいものと取り換え、古い皿を手に持ったまま部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。ぽつぽつと錆びのある古い金属で出来たそのドアノブは、少し湿っている気がした。それから2時間後、排泄物回収の為にその部屋の扉を開けた私は奇妙な光景を目の当たりにした。それは穴だった。机の上、箱が本来置かれていたはずの場所に、真っ黒で立体的な四角い影があったのだ。そしてそれは飛蚊症のようにふわりと私の瞳の上を漂うと、やがてゆっくりと焼き付くように消えていく。遂にそれが完全に消え去った時、そこには変わらず黒い箱があり、私の眼には重い疲労感だけが残っていた。私は漠然とした恐怖と箱に対する微弱な嫌悪感を抱きながら、2時間前から放置していた虫の死骸を片付けようと机に向かった。机の上には、欠けた羽虫の亡骸の他に、細かく千切られた色素の薄い肉片が増えていた。私は少し吃驚したが、これが排泄物なのだろうと解釈して自らを落ち着かせた。卓上箒を使ってまとめて袋に掃き落とし、袋の口を縛った後、ゴミ箱に捨てるために部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。その時、背後から椅子を引く音が聞こえたが、私は気のせいだと考えて無視した。その後ドアを閉める時、私は敢えて中を覗き込んだ。椅子は変わらず、机の下にしまわれてあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます