第10話 学園のマドンナはうつむかない

 文化祭まで、あと三日。


 昼休みの屋上には、風が吹いていた。

 ガタガタと揺れる柵の影が、コンクリートに揺れている。教室の喧騒から少し離れたこの場所は、まるで別世界のように静かだった。


 俺の隣では、朱音がスケッチブックを開いて漫画を描いていた。

 風に髪をなびかせながらも、手元のペンはまるで機械のように正確に動いている。


 そして、彼女が一筆、顔の輪郭を描くたびに──


 ふっと、朱音自身の顔が入れ替わる。


 今は、口元にホクロのある、どこか気の強そうな女子キャラの顔だった。けれど、ページをめくって次の顔を描くたびに、それはまた変わる。

 観察していないと気づかないほど、滑らかに、そして当たり前のように。


 彼女にとって、顔を変えることは日常なんだ──改めて、そんなことを思った。


 俺は、朱音の手が止まった瞬間を見計らって口を開いた。


「なあ、朱音」


 彼女は軽くペン先を浮かせたまま、顔を上げた。


「……なに?」


「提案がある」


 俺は、屋上の柵に背を預けながら言った。


「囮になろうと思うんだ」


「……は?」


「顔泥棒は、また誰かを狙ってくる。文化祭は、生徒も来客もいて、犯人にとって都合が良すぎる舞台だ。だったら──こっちから仕掛けてやる」


 朱音の目が細くなる。風に揺れる髪の奥から、じっと俺を見据えていた。


「……バカじゃないの?」


「バカでもいい」


 俺は笑った。けど、それは強がりでもなんでもなかった。


「誰かが犠牲になるくらいなら、俺が前に出る。もう……何もできずに見てるだけの自分には戻らないって、決めたから」


 沈黙が落ちた。

 風がひときわ強く吹いて、朱音のスケッチブックのページが一枚、めくれる。


 次のページに描かれた顔は──少しだけ、みどりに似ていた。


 その絵に気づいたかどうかはわからない。朱音は、しばらく黙ったあと、小さな声で尋ねてきた。


「……何をするつもり?」


 俺は拳を軽く握った。


「俺に、作戦がある。犯人の目を引いて、逃がさないように動く。そのためには、俺が目立つ役をやるしかない」


「ふーん……」


 朱音は一度、視線を下に戻し、何かを描き足していた。


 それが、犯人の顔なのか、それとも囮役の俺の顔なのか──確認する勇気はなかった。


 だけど、次に描かれる誰かの顔が、もう二度と奪われることのないように。


 俺は、決めたんだ。


 今度こそ──守る。



 その日は、息を呑むような快晴だった。


 空には雲ひとつなく、露草を濃く煮詰めたような青が、遠くの山並みを越えて果てしなく続いている。真上には太陽が、まるで何かの祝福のように、どっしりと空の中心に座っていた。


 校内はというと、異様なほどの熱気に包まれていた。どこから湧いてきたのかと思うほど、人、人、人。近隣の住宅街は今、きっと全戸無人だろう。空き巣に入るなら、こんなチャンスは二度とない。


 グラウンドの隅には、特設の野外ステージが設けられていた。


 二本の白柱に支えられたサンシェードは、レモンのような形をしている。その影にすっぽりと包まれた舞台も、同じくレモン型だった。


 舞台の下には、黒く無骨な機材の箱がいくつも並んでいる。表面にはカラフルなボタンやメーターがぎっしりで、思わず押してみたくなるが、怒られる未来が目に浮かんだ。足元に這うコードは、ガムテープできっちりと固定されていて、生徒たちの本気度がそこににじんでいた。


 ごくり、とつばをのんだ。


 レモンの両端が細くとがっており、その一方が舞台裏にあたる。目隠しのついたてはあるものの、その隙間からは、客席の様子がはっきりと見えてしまう。


 昨日、あれほど整然と並べた折り畳み椅子の列は、今や意味をなしていなかった。通路だったはずのスペースも、びっしりと埋め尽くされている。どこに椅子があるのかさえ、もうわからない。ぎゅうぎゅうの満員、三百パーセント超え。ちょっとした都市伝説だ。


 しかもその異常は、数時間前から始まっていたという。ミスコンの三つ前のプログラムからすでに席は埋まり、最前列の客は午前中から座っていた可能性すらある。


 明らかに異常だった。例年、ここまで盛り上がるのはミスコンの本番でも稀だ。立ち見が椅子の倍以上なんて、前代未聞だろう。


 ひとりの観客と目が合ってしまい、慌てて視線を逸らした。すぐさま背中に視線が突き刺さるような感覚が走る。


 ――見られている。


 そんなことには慣れていない。だが、今日は逃げられない。


 ステージでは、前の演者がちょうどスピーチを終えたところだった。礼をすると、観客から割れんばかりの拍手と歓声が上がる。その熱気が渦を巻いて押し寄せ、脳が煮えそうになる。


 震える指先でポケットから小さな手鏡を取り出した。


 鏡の中に映る自分に、ぎこちない笑顔を向けてみる。


 透明感のあるペリドットの瞳。しっとりと潤んだ唇は、薔薇のつぼみのように柔らかく色づいている。すっと通った鼻筋、整った輪郭。どれも計算された線で、隙がない。


 ――大丈夫。この顔は、完璧だ。


 見慣れたその輪郭を確認し、ようやく胸の中にひとすじ、静かな安堵が差し込んだ。手の震えも止まり、もう一度深く息を吸う。


 酸素が、肺の奥までゆっくりと満ちていった。


「十割、票を捕ってくれないか」

 頭のなかで、馬面のあいつ――朱音の声が、冗談めかしくも真剣に響く。


「いいか、十中八九じゃ駄目なんだ。顔泥棒を捕まえるには、十割だ。……お前になら、やれる」


「一谷凛々子さん、舞台袖にスタンバイお願いしまーす!」


 台本を丸めてメガホン代わりにしたスタッフが、小走りでこちらへ駆け寄ってきた。


 目が合う。静かにうなずく。スタッフの彼女は驚いたように一瞬息を呑み、頬にわずかに朱が差した。


 背筋を伸ばし、顎を引く。ドレスの裾が揺れるたび、ペチコートに広げられた布が大輪の花のように咲きこぼれた。


 白と青を基調にしたその衣装は、氷の女王をイメージして仕立てられたもの。肩から胸元にかけては、深海から浮上してくるようなグラデーション。レースには流氷のような透明な煌めきが散りばめられている。


 凛々子のクールビューティーなイメージにどんぴしゃだと、平介が主張した。


 舞台裏から注がれる視線が、刺すように集まってくる。でも、怯む理由なんて、どこにもない。


 もっと欲しい。もっと深く見ろ。もっと強く見ろ。

 視線の糸を束ねて太くしてやる。その縄で、この空気ごと支配してみせる。


 鏡に聞くまでもない。

 世界でいちばん美しいのは、一谷 凛々子。


 舌先で、唇の下にある黒子をひとなでして確かめた。

 心臓の奥、赤よりも熱い青白い炎がぼうっと灯っているのがわかる。


 燃やせ。焼き尽くせ。


 ステージへ上がる一歩。トン、と片足を段差に乗せた。

 風に舞う雪片のように、軽やかに、舞台の中央へと翔ける。


 待っていたのは、耳をつんざくような歓声だった。


「きゃーっ!」


「凛々子ちゃーーん!」


「うわああ、女神……!」


 下からはフットライト、上からは陽光のフィルター。照明と太陽の挟み撃ち。光に包まれながら、満開の笑顔を浮かべる。


 ドレスのラメが七色に反射してきらめいた。まるで空からこぼれた雪の結晶。儚く、美しく――だが、決して消えはしない。


 片手を上げて、客席の左から右へと、まんべんなく笑顔を振りまく。

 人は皆、「自分に向けてくれた」と信じるだろう。それが、彼らの幸福なのだから。そのことは、重々承知していた。


 歓声が一息ついたところで、正面に向き直る。


 ドレスの裾をつまみ、深く、優雅に一礼。


 何度も練習した。何度も、鏡に頭をぶつけるほど練習した。

 結果は――拍手が、風圧のようにぶつかってくる。誰か手の叩きすぎで骨折するんじゃないか?と思ったが、そんなバカは平介くらいだろう。


 でも、その平介は、観客席にはいない。


 あれ? ――そう思ったのは、裏サビに入る直前。ターンを決めた、その瞬間。


 視界の端、右側に、黒い煙のようなものが映った。

 観客の輪郭が、まるではがれ落ちるように、黒く染まっていく。

 煙が空間を呑み込み、景色が歪む。


 きた!


 目の前が、ぐにゃりと暗転した。

 両手で顔を覆おうとするが、肌があるべき場所に、何もない。

 膝の力が抜けて、その場に崩れ落ちる。


 目の前が真っ暗。視界ゼロの世界。

 音楽だけが、明るく、無邪気に流れ続けていた。


 そして、観客のざわめきが混じる――それも、やがて闇に吸い込まれていった。




✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧


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