第9話 動揺は隠せない
翌日のお昼休み。
いつもより少し早く、俺は弁当を持って席を立った。向かう先は、朱音のいる教室の隅の窓際だ。
午後の陽が、静かに彼女の肩を照らしていた。
朱音はその光のなかで、うつむいて一冊の文庫本を開いていたが――ページは一向に進んでいなかった。指先は動かず、目は遠くを見ているようだった。
「よ、師匠。……昼、食わない?」
なるべく明るく声をかけてみた。
朱音はパタン、と本を閉じた。けれど顔は上げず、乾いた声で返す。
「……帰って」
拒絶の温度に、一瞬、息が詰まる。
「なんでさ。昨日のこと、まだ気にして――」
「関係ないから」
ぴしゃりと遮るような声音だった。
まるで見えない壁を張られたような拒絶。
それでも、俺の足はその場を離れなかった。
「でも――」
そのとき。
ガラリ。
教室のドアが開く音とともに、ふわりとローズの香りが漂ってきた。
「……いた。やっぱり、ここにいたのね」
一谷 凛々子だった。
高く結った黒髪が、光に照らされて艶やかに揺れる。制服の襟元はきちんと整えられ、歩みはゆったりとしているのに、まとう空気には張りつめたものがあった。
視線は、朱音だけをまっすぐにとらえていた。
「……なんの用?」
朱音の声は低く平坦で、表情のない仮面のようだった。
「別に……ただ、どうしてるかなって思って」
「私はどうもしないよ」
「ふぅん。そう。あんなことがあったのに?」
凛々子の瞳に冷たい光が灯る。だが、よく見るとその奥にあるのは――不安とも、怒りともつかない、揺らぎだった。
「知ってるんだな」
「そりゃ、ホームルームで注意があったから」
――顔を盗まれる被害が出ています。生徒のみなさんは注意してください。
先生はそう言っただけで、名前は伏せられていた。
けれど、学校を休んでいるみどりの存在を知っている生徒たちなら、ほとんど察しているだろう。
……でもさ、「気をつけて」って言われても、どう気をつければいいのか、誰も教えてくれないんだよな。
「あなたは変わらないね。……わたしのときと同じ。何もなかったような顔してる」
凛々子の言葉に、朱音はピクリとも反応しない。
その顔は今、真っ黒なチェスのナイトだ。感情も、揺らぎも、読み取れない。
「君もね」
その静かな返しに、凛々子はぐっと言葉を詰まらせた。
そして、つま先で床を踏み返し、無言で踵を返す。
朱音はそっぽを向いたまま、筆箱に手を伸ばす。
――そのときだった。
彼女の机の上に、見慣れない紙が一枚、ひっそりと置かれているのが目に入った。
白地のカード。手書きの文字が、一行だけ、くっきりと。
《文化祭で、あなたの顔をいただきます》
「……!」
俺は、思わず声もなく息をのんだ。
文字の下には、小さくこう添えられていた。
顔泥棒より
「ちょ、これ……!」
カードを思わずつかんだ俺の手を、朱音が鋭く見た。
「それ……今朝はなかった。誰かが、勝手に置いていったんだ」
凛々子も眉をひそめ、足を止めたまま言葉を飲み込んだ。
カードのあなたとは、誰を指しているのか。
朱音なのか、それとも――
俺の脳裏に浮かんだのは、凛々子の顔だった。
先ほどまでの彼女の態度。その奥にあった不安。
凛々子と朱音は、同じ中学校の出身らしい。浅からぬ因縁があると、浜田も言っていた。
もしかすると、次に顔を奪われるのは――一谷 凛々子なのかもしれない。
◆
文化祭の準備が、今日から本格的に始まっていた。
教室のあちこちで、看板のペンキを塗る班、黒板に飾りつけを貼る班、備品の搬入表を確認する班──。
だけど、みどりの姿はなかった。
「みどり、今日も……?」
俺が小声で尋ねると、浜田は黙って首を横に振った。
ショックから、まだ立ち直れていない。
そりゃそうだ。自分の顔を盗まれたんだ。気丈にふるまっていたが、ショックは計り知れないだろう。
「……お見舞い、行こうと思うんだ」
俺が言うと、浜田の手が止まった。
「……は?」
「みどり、ずっと家にこもってるって聞いた。少しでも顔を見せれば、元気づけられるかもしれないし……」
「ふざけんなよ」
浜田が、ガムテープを机に叩きつけた。
その音に、周囲が一瞬ざわめく。
「……おまえ、朱音と、今もつるんでるんだろ?」
教室のざわつきの中、浜田の声だけがやけに真っ直ぐ届いた。
「朱音と一緒にいると、誰かが狙われるって、わかってるくせに。みどりはそのせいで──」
「違う、あれは偶然――」
「偶然じゃねえよ!」
声を荒らげた浜田に、教室の空気が一瞬凍る。
「みどりがどれだけおまえのこと信じてたと思ってんだよ。『平介はどんなときも優しい』って……。そんなやつが、原因の中にいるやつと組んでたら、どう思うよ?」
俺は、言葉を失った。
浜田は怒っていた。悲しんでいた。
みどりを思って、まっすぐにぶつかってきていた。
だけど。
「……俺は」
拳を握った。
「顔泥棒を、捕まえる。みどりのために。絶対に……!」
浜田が目を見開いた。
「文化祭は、顔泥棒にとって格好の舞台だ。人が多くて、誰が誰だかわかりづらい。ごちゃごちゃしたところで、一瞬の煙や揺らぎなんて、誰も気づかない」
「ミスコンもあるしな」と、浜田が低く言った。
「凛々子ちゃんが、出るんだ。センターステージで、最後にソロで踊るって……それこそ、狙われるには十分すぎる。あそこまで目立てば、いい標的になる」
確かに、文化祭のミスコンは、学校最大の目玉イベントだ。
凛々子のような目立つ存在を、顔泥棒が見逃すはずがない。
「だから……俺は止まらない。顔泥棒を、みどりの前から消す。絶対に」
俺の言葉に、浜田は黙った。
しばらくして──
「……勝手にしろよ」
そう呟くと、彼はガムテープを拾い直し、何事もなかったかのように作業に戻っていった。
だけど、その背中は、どこか……遠く感じられた。
◆
放課後。空がオレンジに染まりはじめたころ、俺はみどりの家の前に立っていた。
見上げた二階の窓は、カーテンが閉じられたまま。日中の陽射しを遮るように、わざと光を遠ざけているみたいだった。
ピンポンを押す指が、なかなか動かない。
どんな顔をして出てくるのか。そもそも、会ってくれるのか――そんな不安が、手を鈍らせた。
何度も深呼吸をして、意を決して呼び鈴を鳴らす。
すると、玄関の奥から、スリッパの音が控えめに近づいてきた。
「……はーい」
扉が、ゆっくりと開く。
「……へいすけくん」
姿を現したのは、たしかにみどりだった。
けれど――その姿は、いつもとどこか違っていた。
部屋着のワンピースは少しだけくたびれていて、髪もゆるく束ねられたまま。頬はほんの少し痩けて、表情には張りがなかった。
笑顔をつくろうとしているのはわかった。でも、それは表面だけで、瞳の奥には濁った不安と疲れが色濃く滲んでいる。
かろうじて形を保ったその顔が、揺らがずにいてくれていることに、俺は心の底から安堵した。
「……大丈夫か?」
「うん……なんとか」
小さく、申し訳なさそうに笑ったみどりの声は、かすかに震えていた。
そして、ゆっくりと玄関の扉を開き、俺を家の中へと招き入れてくれた。
居間には、湯気の立つカップがふたつ。
その隣に、コンビニのスイーツが三つ、丁寧に並べられていた。
真ん中のプリンには、プラスチックのスプーンが添えられている。
「……なんか、準備だけは、してたんだ。来てくれるような気がして」
みどりが照れくさそうに言う。けれど、その声の裏側にある誰かに会いたかった気持ちが、胸にしんみり沁みた。
窓際のレースカーテンは、まだ引かれたままだった。
外の光を避けるように――
「浜田……怒ってたよ。喧嘩みたいになった」
その言葉に、みどりはぴたりと手を止めた。
「俺が考えなしに朱音に近づいたからだって、怒られたよ」
「……そっか」
みどりは、お茶をすするようにして、ゆっくりと話す。
「でもね……私、まひるちゃんのことも、平介くんのことも。悪いなんて、思ってないよ」
「みどり……」
「ほんとだよ」
みどりは、俺の目を見て、まっすぐに言った。
「私が顔を盗られたのは、たまたま。あれは……怖かったけど、でも、誰のせいにもしたくない。そうしちゃったら、もっと怖くなるから」
その優しさが、逆に刺さった。
「ごめん……俺のせいで」
「ちがうってば」
みどりが、少しだけ頬をふくらませるように言う。
「ね、平介くん。私、学校はまだちょっと怖いけど……」
そこで少し間を置いて、目を伏せる。
「でも、文化祭には行くつもり。隅っこのほうから見てるくらいなら……大丈夫かもって」
「……そうか」
「凛々子ちゃんが出るんでしょ? ミスコン。楽しみにしてたんだ。あの子、きっとすごく綺麗だろうから……」
そう言って、みどりはふっと笑った。
その笑顔は、やっぱり少し弱かったけれど──それでも、自分の足で立とうとしている人の顔だった。
「ありがとう。来てくれて」
「……こっちこそ、ありがとう。話してくれて」
俺は、最後まで言えなかった。「守る」とか「顔泥棒を捕まえる」とか、強がった言葉じゃなくて、ただ一緒にいたいという気持ちを。
でも、ちゃんと届いてる気がした。
みどりの優しさは、そういうふうに包んでくれる。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
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