第7話 中二病は友情から逃げられない
それからも、朱音さんのスパルタ授業は続いた。
一日で腱鞘炎になれるんじゃないかと思うほどの熱血指導。
指先が悲鳴をあげ、腕が鉛のように重くなる。
顔も何度も何度も描き直し、もはや自分がどんな顔をしているのかさえ、わからなくなる。
「……これが、首が腱鞘炎になるってやつか……」
「甘いな。まだその程度か」
朱音さんは、パフェの次に紅茶、さらにその次にはパンケーキを注文していた。
もちろんお会計は平介もちである。財布の中身は、風前の灯火を超えて、真っ白に燃え尽きつつあった。
「そろそろ、基礎はわかってきたはず。……自分の顔、描いてみたら?」
「お、おう!」
平介は新しい画用紙を取り出し、震える手でペンを握った。
線一本一本に集中する。輪郭、瞳、鼻――朱音から教わったことを、ひとつ残らず思い出しながら、丁寧に、丁寧に描いていく。
描き慣れているはずの自分の顔が、なぜかまるで初対面の人物のように感じられた。
それだけ、意識して描いたということだろう。
――そして。
完成した絵を見た瞬間、平介は思わず息をのんだ。
首から黒煙がふわりと立ちのぼり、視界が一瞬かすむ。
煙が晴れたとき、鏡を見なくても、自分が変わったと確信できた。
でもやっぱり、見たくなる。
平介は鞄からスマホを取り出し、カメラアプリを起動して、自分の顔を映す。
ぽやっとして、思わず画面の中の自分に見とれた。
数時間でここまで引き上げた朱音さんの指導力に、ただただ感服するしかない。
この人、教師でも絶対やっていける――生徒は泣くかもしれないけど。
「わざわざ鏡で確認する? 原本、そこにあるのに」
「いや……でも、鏡越しに見ると格別……。俺、かっこいい……惚れる……!」
画面の中には、かつてのフツメン平介とは思えない、自信に満ちた顔があった。
「ナルシスト、気持ち悪っ」
朱音があからさまに顔をしかめ、鳥肌の立った腕をさすった。
ちなみに今の顔も、ミッディである。
その顔で嫌悪されると、精神的ダメージが二倍になるのでやめてほしい。
と、そのとき。
「……あれ、平介くん?」
春風のような柔らかい声が、頭上からふわりと降ってきた。
「ん? あ、みどり!」
店の入り口には、新緑色の髪を揺らす幼なじみの姿があった。
制服から、センスのいいシフォンのワンピースに着替えている。ちょうど今、買い物帰りに立ち寄ったところらしい。
「おつかれさま! 平介くんも、お買い物? ……あれ、そちらの方は?」
朱音は動揺を隠しきれず、顔を両手で覆おうとして――あきらめた。
それから、視線を泳がせながら答える。
「通りすがりの者だ。とくにこの少年との関係はない」
「喫茶店で向かい合わせに座ってて、それ通じると思ってんの!?」
本気で思ってるなら、一回脳の検査をすすめたい。
「たまたま買い物中に声をかけられてな。『モデルにならないか』と――」
「俺はスカウトマンじゃねぇよ!」
朱音はどうやら、まともに説明するつもりはなさそうだった。
まあ、そうだろう。話せば漫画家であることがバレてしまう。
「……えーっと、同級生だよ。同じクラス。美術部の」
「美術部?」
「ちょっと顔の描き方、特訓してもらってるんだ。……お金で頼み込んで」
「へ、へぇ〜〜!? ……そうなんだ!」
みどりがようやく納得しかけた、そのとき。
彼女の背後から、男子生徒が現れた。
両手にグラスを持っている――みどりの連れらしい。
「……おおう、浜田」
「……平介。奇遇だな」
金髪の親友・浜田は、一瞬だけ気まずそうな顔を見せた。
が、すぐに朱音の顔に目を向けて、目をまるくした。
(あ、やばい)
「……ミッディ? ミッディじゃん!」
「えっ、それって、平介くんたちが好きな漫画の……?」
うまくごまかす未来が、どこにも見えなかった。
◆
「こちら、隣のクラスの朱音まひるさん。……ほら、普段は馬の」
「あー、馬の」
馬の、で通じてしまうのが、なんかもう笑える。
朱音はこそこそと、膝に乗せた紙の上で手を動かしていた。
煙がもくもく――そして黒い馬面が現れる。即席・変身完了。
今、俺と朱音、浜田とみどりの4人は、喫茶店の同じテーブルを囲んでいた。
「顔の描き方を教えてもらう代わりに、正体は秘密」
そういう取り決めだったのに――早くも、その契約は崩壊の危機を迎えている。
まだ基礎しか教えてもらってない。今、関係がこじれたら、俺のイケメン計画が瓦解する。
絶対に、秘密は守り通さないといけない。
「たまたま知ったんだけどさ、朱音さんって絵がめちゃくちゃ上手くて。で、お願いして特訓してもらってるんだ」
「へぇ〜、そうだったんだ!」
みどりは、素直にうなずいてくれる。
……この子、絶対いつか悪徳商法に引っかかるタイプだ。
「でもさ、さっきの朱音さんの顔――」
浜田が、いぶかしげに口を開いた。
わかってる。言いたいことは、痛いほどわかる。
朱音のさっきの顔が、天音ひかるの描くミッディそっくりだったからだ。
いや、似てるどころか、あれはもう原作だ。
「えーっと、そうそう! 朱音さん、ミッディの大ファンなんだって! よく顔を模写してるらしいよ!」
自分で言っておいてなんだけど、なかなかのアドリブである。
浜田は、少し怪しむような目つきを残しつつも、「……ふーん」と、それ以上ツッコんではこなかった。
助かった……と思ったのもつかの間。
「それよりさ、浜田が言ってた約束の相手って、みどりのことだったのか。あれ、でも前に――」
そういえば、浜田。 なにか言ってなかったっけ……?
俺がその記憶をたぐり寄せようとした瞬間――
「最近、みどりが顔の描き方で悩んでるみたいでさ! だから、ちょっとアドバイスしてたんだ」
浜田が絶妙なタイミングで話をぶった切ってきた。さすがイケメン。トーク回避スキルが高い。
「あー、なるほど。じゃあ俺たち、だいたい同じ目的でここ来てたんだな」
「……そういうこと!」
浜田と俺は、目と目で会話した。
互いに触れられたくない事情がある――という密約が、その一瞬で交わされる。
その平和条約は、だが。
「ねぇねぇ! 休憩が終わったらさ、四人で一緒に画材見に行こうよっ!」
みどりの無邪気な一言で、粉々に吹き飛んだ。
何の悪意もない。疑いすらない。
ただ、良かれと思って提案されたその笑顔が……いちばん強い。
(……おそろしい子……!)
◆
「……どうしてこうなった」
朱音さんが、のどの奥から絞り出すような声でつぶやく。
顔の筋肉はピクリとも動かず、音だけが浮遊するように届いてくる。
馬のときの朱音さんは、ほとんど口を動かさない。
まるで、腹話術師に操られる巨大な人形だ。
(……本体、どこにいるんだろうな)
「すみません。みどりって、こういうの無邪気に押し切っちゃうタイプで……あと浜田は、みどりの言うことには絶対逆らえないから」
「見たところ、あの子に逆らえないのはお前も同じだろう」
図星すぎて、ぐうの音も出ない。
朱音さんは明らかに不満そうだった。
まあ無理もない。まさか同級生と一緒に行動する羽目になるとは、思っていなかったはずだ。
しかも浜田は、さっきのミッディ顔で何かに気づいているに違いない。
浜田の鋭い視線を避けるように、朱音さんは俺の右側に回り、小声でささやいた。
「……一応、礼は言っておく。お前、私の仕事については黙っていたな」
「顔の描き方を教えてもらってる以上、朱音さんは俺の師匠ですから」
「ほう。師匠の言うことは聞く。いい心がけだな」
「師匠である限りは、ですけどね」
それはつまり――口を滑らせてしまえば、契約も破棄されるぞ、というさりげない牽制である。
イケメンになれるチャンスを逃すわけにはいかない。口が滑るなんて、あり得ない。
「……ならば、師匠としての責務を果たさねばな」
朱音さんの黒く無機質な瞳が、なぜかおもちゃを見つけた子どものように輝いて見えた。
原理は不明。どうやって光らせてるのか、本気で謎だ。
「今日の宿題。今日学んだことを踏まえて、明日の顔を描いてくること」
「は、はい!」
「これからは毎日チェックするよ。ふふっ、私は……厳しいぞ?」
「……知ってます!!!」
スパルタの片鱗は、今日の時点でもう骨の髄まで叩き込まれていた。
そのとき、不意にみどりの声が割り込んでくる。
「えっ、毎日? ……ねえ二人って、いつの間にそんな仲良くなってたの?」
みどりが耳ざとく聞きつけ、さっそく食いついてきた。
「えーっと……家が、近くて」
――あ。やべ。
口が先に動いてしまった。頭が追いつかず、自分の設定ミスに気づいたのは次の瞬間だった。
「そっか! じゃあ私たちともご近所さんだね! 最近引っ越してきたの?」
朱音さんとは学校前の交差点でぶつかった。つまり、家は完全に反対方向。
言ったあとで、自分のポカが致命的だったことに気づく。
「お、おー……」
朱音さんが肘でぐいぐいと抗議を押しつけてくる。無言の『やらかしたな』という圧。
……どうやら朱音さんは、人見知り――あるいは、内弁慶なタイプらしい。
みどりや浜田に対する距離感と、俺に対する雑さの差がすごい。
「おーい、こっちこっち!」
少し離れたところから、浜田が手を振って呼びかけてきた。
向かった先は、大型の画材コーナー。品揃えは街でも随一だ。
「さてと、まず何から見る?」
「あのね、私……髪と瞳の色、ちょっと変えてみようかなって」
みどりが、翡翠色の髪を指にくるくると巻きながら、控えめに言った。
「おっ、それいいじゃん。で、何色にするの?」
「――髪は、夜空の色で……瞳は、ペリドット」
……あれ、それって。
一瞬、空気が止まった。
全員が同じ顔を思い浮かべたに違いない――
つややかな黒髪に、透きとおるオレンジの瞳。学園のマドンナ、一谷 凛々子。
「じょ、冗談だよ! ちょっと言ってみただけ! 憧れっていうか……そんな感じ!」
みどりが慌てて手を振る。
まじめすぎる性格だからこそ、軽口のつもりでも自分で動揺してしまうのだ。
「そ、そーだよな! みどりにはやっぱ、緑が似合ってるって!」
みどりは、名前のとおり、生まれてからずっと緑髪だった。
赤ちゃんが生まれると、名付け親からクレヨンが贈られる風習がある。『お顔初め』という、初めて自分で絵を描いて顔をつくる儀式。そこで最初に握らされたクレヨンも緑色だったらしい。
「……ん。そっかな」
みどりは微笑んだけれど、そこにはほんの少しだけ影があった。
名前に色があると、どうしてもその色らしさに縛られてしまう。
それに対して、複雑な感情はあるのかもしれない。
「でも嬉しいな。覚えてる? 去年、朱音さんと同じクラスだったんだよね。あんまり話せなかったけど、ずっと気になってたんだ」
みどりが天使のような微笑みを浮かべる。
――そりゃ気になるわな。クラスメートにチェスのナイトの頭部をした立体馬面女がいたら。
でも、きっとみどりの『気になる』は、そういう意味じゃない。
一人でぽつんとしていた子が、気になっていたんだろう。
「だから、よろしくね。平介くんのお師匠さん」
みどりの真心からの言葉に、朱音はぎゅっと唇を引き結んだ。
「……私はよろしくする気はない」
おいおい、ここはツンじゃなくてデレるとこだぞ。
「ちょっと待て! せっかくみどりがよろしくって言ってんのに、よろしくとか、ありがとうのひとつも言わないのかよ?」
「……ありがとう。みどりさんは、いい子だと思う。その好意は、ありがたく受け取るよ。ただ――私には関わらないでくれ」
無表情なチェスの駒が、無機質にそう告げる。
お前はどこの中二病主人公だよ。
「うぜえええ! ラノベかよ! 中二病かよ!」
思わずツッコミが口をついて出た。
「なにしたか、自覚あるか? 今日、俺たちが何してきたかって!」
「……何か、まずかったか?」
「まずくはないけどな!? 学校帰りにカフェでパフェ食って、恋バナして、画材屋でショッピングまでしたんだぞ?」
ちなみにパフェを食ったのは、朱音さんだけだけど。
「関わるなって、何言ってんだよ。俺らもう、友達だろうが」
俺の基準では、その三点セットをこなした時点で友達認定される。
それに、俺の友達なら、みどりとも自動的に友達だ。
「悩みがあるなら相談しろよ。俺たち、もう友達だろ?」
「……すっごいドヤ顔。今、自分いいこと言ったって思ってるでしょ?」
あ。バレましたか。
朱音まひるは、ふうとため息をひとつついた。
「でも、まあ……ありがと。話したくなったら、話すことにする」
それだけ言い残し、朱音――いや、馬面の少女は、静かにその場を離れていった。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
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