第6話 朱音師匠は妥協しない
あのあと――授業を抜け出した平介は、当然のように先生からしっかり怒られた。
浜田とは少し気まずい空気になったけれど、彼は何事もなかったかのように、いつも通り接してくれた。
そのさりげない優しさに、平介は救われた。
(浜田って、ほんといいやつだよな……。俺と親友やれてるだけある。中身までイケメンかよ)
放課後のチャイムが鳴り、教室の空気がわずかにざわつきはじめる。
この季節、窓の外にはまだ、やわらかな夕光が残っていた。
「あのさ、今日の帰りだけど――」
「あー、ごめん! 今日、ちょっと用事あって!」
平介は両手を合わせて、ぺこりと浜田に謝る。
今日の放課後は、朱音から顔の描き方を教えてもらう約束がある。人生初の弟子入りだ。
「そうか。……実は、俺も用事あるんだ。ちょうどよかった」
「ほーん? 珍しいな。さては――デートだな!」
軽口のつもりで言ったのに、浜田の頬がぴくりと引きつる。
机にノートをしまう手も、一瞬止まった。
「……え? マジで?」
「デートじゃねーよ」
と、浜田は苦笑いを浮かべながらも、どこか言いにくそうに目をそらす。
「片想いだよ。……ずっと好きだった子」
「……まじか! え、いいじゃん! がんばれよ!」
予想外の展開に、平介は思わず声を弾ませた。
浜田は昔からモテる。平介もそれを身をもって知っている。何度も女子に呼び出されては、浜田へのラブレターの仲介役を頼まれた。
あのときの、胃がきゅっとなる感じ。
思い出すと、鼻の奥がつんとして、涙が出そうになる。
だから、急いで気持ちを切り替えた。
「でもさ、ずっとって……お前、彼女何人かいたじゃん?」
「……いろいろあんだよ、こっちにも」
苦味を滲ませた声で、浜田はそれだけ言って会話を打ち切った。
イケメンの恋は、フツメンの理解の範疇を軽く超えている。
(……そっか。浜田にも、そんな一面あるんだな)
平介は、少しだけ不思議な気持ちで、親友の背中を見送った。
◆
「……ということが、あったんだ」
「他人の恋バナなど、興味はない」
化け物の頭部をした師匠は、沈黙が気まずかろうという平介の配慮を、一刀両断で切り捨てた。
表情の読めないチェスの駒から放たれた「興味ない」のひとことで、空気は見事に凍りつく。
「いやー……ずっと好きな子がいるのに、彼女を何人も乗り換えるって、意味わかんねーよなって話ですよ。朱音さん的には、理解不能……ですよね?」
「舐めるな。理解できないわけではない」
即答。しかも、ちょっとムッとしている。
「告白されたから付き合う。けれど、好きな子は別にいる。社会的な恋愛と感情的な恋愛は、別物だということだろう」
「……はー」
あんなに意味不明だった浜田の恋愛観も、朱音の手にかかれば冷静に分析されてしまうらしい。
「俺には全然わかんないっす。ていうか朱音さん、意外と恋愛詳しいんですね」
「意外とは何だ、意外とは。私はこれでも少女漫画家だ」
あ、そうだった。
度肝を抜く展開と、繊細すぎる心理描写で話題の新進気鋭――天音 ひかる先生。
恋愛のプロだった。
「……そりゃ、そうっすね。すみません」
「まったく。あと、今日はろくに寝ていない。さっさと済ませるぞ」
不機嫌そうな声とともに、朱音は競歩のようなスピードで歩き出した。
その異様な頭部に、すれ違う人々が次々と視線を向ける。
誰もがぎょっとして振り返るが、まさかこのナイトの駒が、国民的人気漫画家・天音 ひかるだとは夢にも思うまい。
「は、はいっ! 了解です!」
平介は慌てて、朱音の三歩後ろを小走りで追いかける。
別に距離を取って歩きたいわけではない。……たぶん。
ただ、不審者に付き添う人に見られて一緒に通報されるんじゃないか、という不安が頭をよぎってしまう。
この見た目はインパクトが強すぎる。
二人は駅前のショッピングセンターを目指していた。
何でもそろう街の中心地。今日はここで、平介が使っている画材を朱音に見てもらう予定だった。
歩道橋をのぼり、ショッピングセンターの二階へと足を踏み入れる。
「でも俺、そこそこ画材は持ってますよ。別に問題は――」
「愚か者。選び方が悪い。まずはそこからだ」
ピシャリと切り捨てると、朱音は迷いなく画材棚に手を伸ばした。
「主線、使い分けてる?」
「……えっと?」
「輪郭、瞳、鼻。ぜんぶ同じ太さで描いてるんじゃない?」
朱音は一刀両断でそう言いながら、ペンを一つつまみ、買い物かごに投げ入れる。
「太さを変えるだけで、絵の情報量とリズムがまるで変わる。基本中の基本よ」
「へ、へえ……」
「線に躍動感が出れば、キャラに命が宿る。基本の線ほど、魂を込めなきゃだめ」
そう言いながら、朱音は次々と画材を選び、ためらいなくかごに放り込んでいく。
平介は内心、財布の中身を高速でスキャンしていた。
今月はミッディの新刊とファンブックで大出費済み。これは……足りるのか?
「練り消しと羽ほうきは?」
「え、親のやつ借りてます」
「ふむ。まあ、今はそれでもいい。けど、いずれは自分のを持つべき。……で、カラーはこれ。コピック。番号は――」
「えぇ!? コピックって高いじゃないですか!」
思わず悲鳴に近い声が出た。
朱音は長いため息をひとつ。黒い馬の頭から、明らかに「呆れ」のオーラが出ていた。
「いい? 才能、時間、努力、そしてお金――そのどれかを顔にかけられる人間っていうのは、それだけで余裕があるってアピールできるの」
「……はい」
「だからモテる。簡単な話でしょ」
「はい……」
言葉のナイフが次々に刺さっていく。正論って痛い。ほんとに。
「中身が大事? 中身を見てほしい?――その気持ち、わかる。でもね。まず外見を整えて、手に取ってもらわなきゃ、中身なんて見てもらえないの。ボロボロのパッケージ商品って、だいたい中身もショボいじゃない?」
(……これ、もしかして一谷 凛々子と意気投合できるのでは?)
もし今、朱音と凛々子を並べたら、意気投合して大親友になれそうだ。
「才能もない。時間も努力も足りない。じゃあ、せめて金かけなさいよ。自分に投資できない人間が、モテたいなんて、片腹痛いわ」
ぐうの音も出なかった。
目の前の買い物かごには、命を宿す武器たちが揃っている。
平介は静かに決意した。
(……お金、下ろしてこよう)
喫茶店の奥の席を陣取り、買ってきたばかりの画材を広げる。
ひとまずはペンと画用紙だけ。コピックまでは予算が届かず、後日に持ち越しとなった。
こうして、朱音先生によるスパルタ授業がスタートする。
「まずは、フリーハンドで線を引く練習。直線、曲線、円。上手い人はね、頭に思い描いた線を、そのまま描けるのよ」
定規なんて使わず、真っすぐな線を何十本と引きまくる朱音。
それが終われば、今度は曲線。さらに円。
「じゃ、次はパースのとり方。消失点を意識して――」
間髪入れずに続く密度の濃いレクチャー。
この人、本当に寝てないのか?
でもこれ、冷静に考えてすごいことだ。
新進気鋭の売れっ子漫画家による個人レッスン。
本来なら、受講料だけで数十万はかかってもおかしくない。
それを――タダで、しかもチェスの駒頭の師匠直伝で受けている。
(……言ってみるもんだなぁ)
「ちょっと、集中力切れてない?」
「すいませんっす!!」
「……ま、いっか。ちょっと休憩しよっか?」
朱音は少しだけ笑って、すっと手を挙げてウェイトレスを呼ぶ。
そして、迷いなく――
「イチゴパフェ、ひとつ」
注文を終えて、テーブルに戻る朱音。
「……あの、先生。お会計は……」
「なに、その質問?」
瞬間、空気がピキンと張り詰めた。
「あ、いやいやいやいや、喜んで払わせていただきます!!」
平介の財布には、さきほどの画材購入で大きな穴があいていた。
イチゴパフェ一発で、もう風前の灯火である。
(来月のミッディ関連商品、……無理かもしれない)
朱音のイチゴパフェは、見た目も中身も、やたらときらめいていた。
それを無表情なチェスの駒が、黙々とすくって食べている。
この光景、じわじわくる。
シュールな光景に笑いをこらえていると、朱音の馬面が――ミッディのライバル役の令嬢の顔に変わった。
高貴な家柄に生まれながらも騎士を目指す、お嬢様キャラ。
シルバーの髪が、カフェの間接照明を受けて、やわらかく輝いている。
朱音の前には『ミッディ』の原稿が広げられていた。
平介の指導をしながらも、その右手は神の如く滑らかに線を走らせ続けている。
まるで迷いのないその手は、脳から直接ペン先へ命令が流れているようだった。
数十秒に一度、朱音の顔が煙に包まれる。そして、また別の顔が現れる。
変化の瞬間すら、自然で、無音で、あっけなかった。
「思えばさ、漫画家って……大変な仕事だよな」
顔を描くたびに、自分の顔が入れ替わる。
その現象に対する羞恥心は、彼女にとってはもうとうの昔に風化してしまったのだろう。
「顔が変わりすぎて、首の煙の吹き出し口、腱鞘炎になりそう」
「ならねえよ。そんなやつ聞いたこともねえよ」
朱音は淡々と返すが、口調に少しだけ笑いが混じっていた。
平介はふと、自分の顔のことを思う。
毎日描いて、変えてきた。でも、それは本当に「努力」と呼べるものだっただろうか?
自分のしてきたことが、急に薄っぺらく感じられる。
対面では、ミッディの顔でパフェを頬張る朱音。
燃えるような赤髪が、イチゴの赤と絶妙にマッチしていた。
誰もが振り返るようなその顔が、今も淡々と、当たり前のようにそこにある。
「あのさ……もし、顔が変わらない世界だったら――って考えたことある?」
「顔が変わらない? 一生、同じ顔ってことか?」
「うん。もし、生まれたときに顔が決まってて、変えられなかったら。……もし明日からそうなったら、どうする?」
「くだらない仮定だな。……宝くじで百万円当たったら、何に使う?ってのと同レベルだ」
そう言いつつも、朱音は天井をちらりと見上げて、まじめに考えてくれる。
「そうだな……顔が固定されてる社会、か。想像しただけでゾッとする。私なら、絶対イヤだな」
「……どうして?」
朱音はスプーンを止め、赤い瞳を細めた。
そのまま、静かに、はっきりと言う。
「だってさ――不公平じゃないか?」
「……不公平?」
世界トップクラスの美少女は、静かにうなずいた。
「努力しても、どうにもならない。変えたくても、変えられない。……そんなの、理不尽すぎるでしょ?」
その言葉には、朱音自身が積み重ねてきた努力の重みが、確かに宿っていた。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
読んでいただき、ありがとうございました!
もし「顔が変えられる世界も、悪くないかも」と感じていただけたら、 ☆評価とフォローで応援していただけると嬉しいです。
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