第5話 このチャンスは逃さない
「お前……!」
「平介君!」
浜田とみどりが引き留めようとする声が、背中越しに聞こえた。
でも、その声をかき消すように、扉を乱暴に開ける音を響かせた。
――聞こえなかったことに、した。
ふたりなら、何も言わずとも察してくれるだろう。
平介の自暴自棄な授業放棄も、苦笑しながら受け入れてくれるはずだった。
(……俺、結局、甘えてるんだ)
頬を伝った涙が、一筋の線となって風にさらわれていく。
騒がしかった校内も、授業の始まりとともに静けさを取り戻していた。
その中を、平介はただ、ひたすらに走った。
教室には戻れない。
ホームルームの時間をトイレで過ごすには惨めすぎる。
かといって、空き教室では、誰かに見つかったときのダメージがデカすぎる。
足が自然と向かったのは、屋上へと続く階段だった。
(ここなら……誰も来ないだろ)
一番上の段に腰を下ろそうとして、ふと気づいた。
屋上への扉が、わずかに開いていた。誰かの閉め忘れだろうか。
だとしたら、ちょうどいい。
平介はそっと扉を押し開け、敷居をまたぐ。
目の前に広がったのは、目線と同じ高さの空の青。
端のほうには鈍い雲が広がりはじめていたが、視界の大半は、真っ青に晴れ渡っていた。
そして――その青を背景に、鮮烈な赤が立っていた。
太陽を絞って染めたような、燃えるような赤い髪。
その髪が、そよ風にたゆたうように揺れている。
一人の少女が、屋上の縁に立っていた。
まるでキャンバスのなかの物語に、迷い込んでしまったかのように。
平介は、その場に立ち尽くす。息をするのも忘れていた。
少女は気配を感じたのか、ゆっくりと振り返る。
紅い髪が空気をふくらませて舞い上がり、制服のスカートが軽やかにはためいた。
その姿は、非現実的なはずなのに、まるでそこに存在していて当然のように自然だった。
肌は小麦色をひとさじ薄くしたような、健康的な色。
繊細な鼻梁、可憐な口元――どこを取っても、完璧だった。
そして、湖のように澄んだ瞳には、呆然と立ち尽くす平介の姿が映っていた。
(ミッ……!?)
目を見開いていたはずの平介が、さらに目を見開く。
夢で何度も見た。画面の向こうで何度も恋い焦がれた。
そこにいるのは、間違いなく、あの少女だった。
二次元から飛び出してきたわけじゃない。
自分がいつも見ていたミッディのほうこそ、この現実の彼女を模していたのだ。
そう思えるほど、その姿は自然だった。
「ミッディ……」
声が、かすれた。
呼びかけたはずの名前は、がらんとした屋上の空間にふわりと溶けて、消えていく。
その瞬間、彼女が抱えていた白い紙の束が、
コンクリートの床に、鈍い音を立てて落ちた。
この日、平介は――
三次元の世界で、
自分が一番愛した二次元のヒロインに、出会ってしまったのだった。
「……嘘だろ、ほんとに?」
一歩、二歩と足を踏み出す。
平介と赤髪の少女のあいだを、そよ風がすり抜けた。
それと同時に、白い紙の束が風に乗って宙を舞う。羽のようにくるくると。
少女は「あっ」と小さく叫び、慌ててしゃがみ込んで紙を拾い集めようとする。両腕を広げ、必死に舞い落ちるページを追っていた。
そのうちの一枚が、ふわりと平介の足元へ滑り込んだ。
思わずかがみこみ、紙を拾い上げる。
「これ……」
枠線で区切られたコマの中に、見覚えのある線のタッチ。
それは――平介がまだ見たことのない『マジカル☆ミッディ』の、新しいページだった。
「ミッディ……」
つぶやいた瞬間、少女がすっと顔を上げ、険しい表情でこちらへ歩いてきた。
「知ってるの? この漫画!」
「し、知ってる! っていうか俺の聖典……!」
少女はほっとしたように肩を落とし、大きく息を吐く。
「……お願い。黙ってて」
「え?」
「このこと、誰にも言わないで」
その声は、思いのほか切実だった。
平介は戸惑いながらも聞き返す。
「このことって……? っていうか、ミッディって本当にいたのか? まさか同じ学校に……これって運命?」
「いるわけないでしょ、ミッディは漫画のキャラ。あと私はずっと前からこの学校にいる。運命とか言うな、恥ずかしい。まさか同じ日に二回出くわしたくらいで、運命だとでも?」
平介は頭の奥に、奇妙な既視感をおぼえた。
今は普通に喋っているが、どこか覚えのある声色――落ち着いたアルトの響き。
「……ナイトの駒さん?」
「そういえば、さっきは名乗ってなかったね。
平介の脳内で、すべてがつながった。
朝ぶつかった、馬の駒の頭をした女子生徒。
彼女が今、目の前でミッディの顔をして立っている。
「お、俺は平介、です。朱音さん……ここで何を?」
「言ったでしょ。仕事だって。漫画家」
――まんがか?
その言葉の意味が、頭に染みこむまでに少し時間がかかった。
「ほら、本名の『
あかねまひる。あまねひかる。
あたまの中にひらがなが一文字ずつ描かれたカードを並べて、何度か並べ替える。
あっ、本当だ。
「アナグラムってやつ。バレないようにしてたんだけどね」
天音 ひかる――中学生でデビューし、一躍人気作家となった天才漫画家。
平介もずっと憧れていたその存在が、まさか、すぐそばの女子高生だったなんて。
「じゃあ……あの頭、ナイトの駒は?」
朱音は無言でしゃがみ、メモ用紙にペンを走らせる。描かれたのは、あの黒いチェスの駒。
「漫画家だってバレないように、顔を変えてるだけ。ミッディの顔で登校してたら、すぐ気づかれるでしょ?」
そう言って、朱音の首から黒い煙が立ちのぼり、ミッディの愛らしい顔が隠れていく。
煙が引いたとき、そこには無機質な黒い馬の顔――ナイトがあった。
「おい、慎みを持てよ……!」
顔が変わる瞬間は、寝起きのパジャマ姿を見られるようなもの。普通なら恥ずかしくてたまらない。
だが朱音は、まったく動じなかった。
「しょうがないでしょ。戻さないと教室に行けないし。それより、黙っててね。私が天音ひかるだってこと」
「バレたら、まずいんだな?」
「当然。うちの学校、バイト禁止だし。漫画家なんてやってるってバレたら、学校生活がめちゃくちゃになる」
それはもっともだ、と平介は思った。
人気漫画家が同級生にいたなんて、知れた瞬間、学校中が大騒ぎになるだろう。
そして――そんな彼の脳裏に、悪魔がささやく。
「……じゃあ、黙っててもいいけど、ひとつ条件がある!」
「はあ? 条件?」
朱音は思いっきり面倒くさそうに振り返った。
表情は見えないけど、声に全力で「うんざり」がにじみ出ている。
「ああ。俺に……顔の描き方、教えてくれ!」
平介はすとんと地面に正座し、頭を深く下げた。まさにジャパニーズ土下座。
凛々子の言葉が、胸にまだ残っていた。
――私なら、努力するわ。死ぬ気で。
「数十秒前、自分で『慎みを持て』って言ったよね!?」
「忘れた! 頼む! フツメンだし、憧れの子には見下されてるし……! 努力してるつもりなのに、全然うまくいかなくて! どうしたらいいのか、わかんないんだ!」
必死に言葉を絞り出しながら、平介はすがりついた。
「ほんのちょっと、アドバイスくれるだけでいいから! そしたら俺、朱音まひるさんが天音ひか――」
「声がデカい!」
朱音の鋭いツッコミが飛ぶ。が、ため息まじりに続けた。
「……まず、デッサンが崩れてる。直線と曲線、ちゃんと練習してる? あと、画材の使い方も単調。手癖だけで描いても、上達なんかしないから」
(お前は一谷 凛々子か……)
と思うほど、痛烈で核心を突いたアドバイスだった。
恐る恐る顔を上げると、チェスの駒の頭が、ほんのり神々しく見えた。
「仕方ないわね……。黙ってくれるなら、あんたのこと、とびっきりのイケメンにしてあげる」
その瞬間、黒い駒のシルエットが、まるで後光を背負っていたように見えた。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
「顔面、描き直すしかねぇ……」って思った方は、 ☆評価とフォローで応援していただけると嬉しいです!
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