第4話 砂漠に自動販売機はない
「……えっ、ちょ」
「艶やかな黒髪! 二次元から飛び出してきたみたいな美しさ! ミッディの次に、愛してる!」
「おまっ……!」
浜田が、陸に打ち上げられた金魚のように口をパクパクさせている。
近年まれに見る挙動不審ぶりだった。
なんだ?と首をかしげた瞬間──背後から、透き通るような琴の音みたいな声で名前を呼ばれる。
「ねえ、平田くん」
全身がロウソクにでもなったかのように、冷や汗がだらだらと流れる。
できることならこのまま液体になって、床の隙間にでも逃げ込みたかった。
「ねぇってば!」
声の主は、間違いようのない――俺の妻その2(平介・談)であり、学園の女神。
「え、あ、はいっ! すみません!」
びっくりしすぎて、背筋に針金が通ったかのようなバネ人形みたいな動きになる。
横で浜田が肩を震わせて笑いをこらえているのが視界に入る。よっぽど面白いリアクションを取ってしまったらしい。
だが、その原因である涼やかな声は、一切動揺を見せず、淡々と続けた。
「数学のノート、回収なんだけど」
(何かの間違いであってくれ……頼む)
祈るような気持ちで振り返る。
だが、そこにいたのは紛れもない――このクラスどころか学校一、いや、日本一の美少女だった。
目の前が真っ暗になって、床に穴があいて落ちていきそうな感覚。
できれば本当にそうなってくれればいいのにと、現実逃避したくなる。
しかし現実はいつだって冷酷だ。
実際には陸上部の棒高跳びエース。腕相撲したら、こっちの腕のほうが折れる。
「ねえ、聞いてるの? 平田くん」
「あ、はい……平田じゃなくて平野です。ノート、はい、今出します!」
平介は急いで机の中をごそごそ漁る。……が、手は動かしつつも、目線はしっかり彼女にロックオンしたまま。
自称美少女たちが泣きながら裸足で逃げ出すレベルの、現実離れした美貌。
ペリドットのように透き通った瞳。
頭の高い位置で結ばれた黒髪が、烏の濡れ羽色に光りながら、雪解け水のように腰まで流れる。
そのあまりの描き込みに、光まで支配しているんじゃないかというレベル。
神もペンを折るであろう、超絶画力の申し子。
入学初日には『凛々子を崇めたてまつる会』、通称『リンリンの会』が発足。
もちろん平介が記念すべき会員番号1番、兼 会長である。
(やっちまった……!)
さっきの感情爆発が、よりにもよって本人に聞かれていたとしたら……平介は内心で絶叫しながら、大量の汗を流した。
(でも……もうこうなったら、いっそ突っ切るしかないッ!)
清水の舞台で全力ダンスをする覚悟で、平介は口を開いた。
「リ、リリリリリ……リンリンさんは、今日も……美しいね!」
あえなく自爆した。
緊張で唇があわあわと震え、壊れた玩具のような音しか出ない。
「あたし、そんな電話のベルみたいに愉快な名前じゃないんだけど?」
その返しの冷たさは、間違いなく氷点下だった。
「ご、ごごごごごめんなさい!」
がばっと頭を下げ、すでに見つけていた数学のノートを、ひっそり差し出す。
「……なにその地響きみたいな『ご』の嵐。……えっと」
凛々子は一瞬、隣の浜田に視線を向けた。
ノートの催促かと思ったが、彼女はすぐ視線を逸らした。
浜田もまた、眉をピクリと動かしただけで、凛々子を見ようともしなかった。
そして――再び向けられる鋭い視線。
「あのさ、聞こえてたんだけど?」
「……はい」
観念した平介は、肺いっぱいに空気を吸い込んで、覚悟を決める。
「好きです! 付き合ってくだ」
「却下」
言い終わるより早く、氷水のような言葉が頭から降りかかった。
人生で何度目かの告白は、今回も変わらず――いや、過去最速の拒絶という新記録を打ち立てて、終わった。
「私、あなたとあんまり話したことないよね?」
「その通りです。でも、俺……ずっと見てました! 凛々子さんのこと、誰よりも知ってます。笑わないところも、クールなところも、近寄りがたいところも! ……それに、実は『マジカル☆ミッディ』を欠かさず読んでて、ヒロインに似せようと鏡見ながら表情を研究してるところも!」
「気持ち悪っ。それ、ストーカーって言うんだよ?」
「ぐうの音も出ません!」
平介は、藁にもすがる思いで浜田の方を見た。が、親友は完全に気配を消し、窓の外を見つめている。
(耳はこっち向いてるくせに……)
みどりはみどりで、遠くの席で表情筋をひくつかせていた。完全に青ざめている。
「僕は、地味で平凡な顔で、なかなか絵も上達しないんですけど……でも、凛々子さんへの想いだけは……気持ち悪いけど、本物です! 付き合ってください!」
今度は最後まで言わせてもらえた。頭を下げた瞬間、机の角に額をぶつけた。
(痛っ!)
火花が散り、視界が一瞬ぐらつく。涙がにじむ。けどこれは痛みのせい。感情じゃない。たぶん。
そして、凛々子の声が鋭く頭上から突き刺さる。
「地味で平凡な顔? ……その通りね。わかってるのに、どうして努力しないの?」
「努力は、してるんです……けど……」
「『けど』とか『だって』とか言ってるうちは、本気じゃないの。本気なら、言い訳なんてしてる暇ないはずよ」
その言葉は、つららのように冷たく鋭くて、群れをなして平介の心を貫いていく。
「うわー、凛々子ちゃん辛辣だな」
「でもまあ、正論だよな……」
「平凡な顔で凛々子の隣にいたら、引き立て役だよなあ……」
クラスメートたちのヒソヒソ声が、さらに精神を削ってくる。
「だけど! ……あっ、すみません……」
叫ぼうとしたが、声が裏返った。もはや涙目どころか、涙腺が決壊していた。机の角、痛すぎる。
「あなた、努力した? 私の――好きな人の好きな顔になるために、死ぬ気で?」
はい、と言いたいのに、ペリドット色の冷たい視線を前に、言葉が出なかった。
「私なら、努力するわ。死ぬ気で。それをせずに好かれようだなんて、
「俺……俺は……」
言葉が詰まる。情けないほど、出てこない。
何も言えない。それが、平介の人生の結果だった。
「でも――」
凛々子はふと声のトーンを落とす。
「勇気を出して告白してくれて、ありがとう。……ちょっとだけ、嬉しかったわ」
そのまま、凛々子は自分の席へ戻っていった。
スカートのプリーツが揺れるたびに、紅葉の枝が風にそよぐようだった。
濡羽色の髪がふわりと舞って、かすかにローズの香りが残る。
平介は、深く息を吸って、ぎこちなく口角を持ち上げた。
ようやく振り返った浜田と、気まずそうな視線がぶつかる。
「……り、リンリン……マジかわいい。かわいいっていうか、美しい。いやもう、かわ美しい!」
平介の声は震えていた。どんな芸人よりも滑稽だった。
顔から湯気が出そうなほど体温が上がっていて、今なら頭から味噌汁を沸かせそうだった。
「お前なあ……その無駄にスムーズな舌回し、本人の前でも出せたらな」
浜田が戸惑いがちに呆れた声を漏らす。その様子はまるで、テストの点数に愕然とするお母さんだった。
「無駄って言うなよ。……あー、ほんと綺麗だよなあ。なんか、リンリンって、ミッディに似てない? ミッディをちょっと東洋風にアレンジした感じ? 髪と瞳と肌の色、それに髪型を変えたら、もう区別つかなくなるだろ」
わかっている。自分が滑稽なことくらい。
でも止まらない。
陸にいながら、全身が溺れているような心地だった。
ミッディに似ている――それは、平介にとって理想のど真ん中ということだった。
そして、その理想から「傲慢」と言われ、「嫌い」と断言された。
自分は、紙でできているのだろうか?
吹けば飛び、心をさらすたび、風に切られる。
むき出しのままの自分が、冷たい現実にさらされていた。
「そうかな……? そうかもなあ」
浜田はどこか気のない声で、視線を窓の外へとそらした。
まるで「見ていられない」とでも言うように。
平介は、服の袖で両目をぬぐった。
「ああああ……振られてしまったあ……」
大げさに天を仰いで嘆く。
「リンリンみたいな子が彼女だったらさ、俺の高校生活……きっと、虹色パラダイスだったんだろうになあ」
そう言いながら、口元をゆるませて、脳内を妄想モードに切り替え始める。
そう、妄想だけは、いつだって平介に優しい。
ぬるま湯のように甘く、現実の痛みをまるごと包み込んでくれる、最後の逃げ場。
「そんなことないさ」
浜田の声が、不意に落ちてきた。
その温度は、思ったよりも冷たかった。
突然、妄想の砦に投石されたような気分になる。
平介はむっとして、眉間にしわを寄せた。
「はいはい、どうせ俺みたいなフツメンがリンリンと付き合えるなんて、夢のまた夢ですよ。叶うわけないんだよ。……でも、夢くらい見させてくれよ!」
「そういうことじゃねぇよ」
「じゃあ、どういう意味なんだよ!」
苛立ちがにじみ出た声に、浜田もつられて荒い息を吐いた。
無意識に親指の爪を噛むその仕草は、いつもの余裕の浜田とはまるで違っていた。
「俺が否定したのはな、虹色でもパラダイスでもねえってことだよ」
それを聞いた平介の胸に、もやもやとした怒りが広がる。
「……なに? 俺の理想、否定したいだけかよ。いい気になるなよ、イケメンだからって」
勢いで、言葉が口をついて出た。
「どうせリンリンにも、お前は数学のノートも出せない不真面目野郎って思われて、スルーされてたじゃん」
「……違う。あれは……そういうことじゃない」
浜田は、冬の海みたいに静かな声で言った。
「俺さ……中学のとき、一谷 凛々子と付き合ってたんだ」
沈黙が落ちた。
凛々子からの冷たい言葉で、すでにズタズタだった平介の心。
その残りわずかなHPを、浜田の一言が容赦なく削り取った。
(……なんだよ、それ。結局、顔かよ)
いや、本当はわかっている。
浜田が顔だけじゃないこと。
スポーツ万能で、成績もそこそこ良くて、友達も多くて、優しくて……完璧なリア充だってことも。
でも。
それでも。
結局、顔なんだと思わずにはいられなかった。
こんなふうに、惨めに負けたと思いたくなくて、悔しさを言い訳で塗りつぶしたくて。
チャイムが鳴った。
次の授業が始まる合図。でも、平介の身体は動いていた。反射のように、教室を飛び出していた。
逃げるように。
現実からも、自分自身からも。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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