第2話 少女漫画は始まらない
(かーちゃん、ごめん。俺、嘘ついた。ミッディは彼女なんかじゃない……妻なんだ……!)
平介は、全力で高校への道を駆け抜けていた。
汗をたっぷり吸った前髪が額にはりつき、視界をにじませる。アスファルトを蹴るたび、足の裏から鈍いダメージが響いた。
快適な部屋でぬくぬく漫画を読み、アニメを観ることに特化した“文化系”の肉体は、激しく抗議している。
「やめてくれ、死ぬぞ」――筋肉の悲鳴が全身に響いていた。
さっきまで脳裏に焼きついていた、赤髪の少女・ミッディの颯爽とした走り。それと比べて、今の平介の走りはどうだ。
例えるなら――そう、山中を駆ける女鹿と、地面でもがくイモムシ。
悲しいことに、そのくらいの差がある。
「あと三分……! これはもう、新記録を更新するしかないな!」
息も絶え絶えに叫びながら、ようやく校舎の姿が見えてきた。
だが、その前には、最大の難所が立ちふさがっていた。
学校へ続く坂道――というより、もはや登山道と呼んだほうが適切なレベルの急傾斜。ぐねりと曲がるその坂が、意地悪そうに横たわっている。
ここから教室まで、平介の自己ベストは3分15秒。つまり、今までの自分を超えない限り、一限目に間に合わない。
完全に、人生の崖っぷち。
「生きるってのは、過去の自分との戦いなんだ……!」
まるで名言のように聞こえるが、これは『マジカル☆ミッディ』第7巻・123ページ・2コマ目のセリフだ。
誰かに尋ねられれば、平介はページ数まで完璧に答えられるだろう。
逆境に立ち向かうミッディの姿を思い出し、脳内にアドレナリンを強制分泌。
「いける……俺もいける……!」
気合いとともに坂を駆け上がろうとした、まさにそのときだった。
左半身に、ドンッという衝撃。
「うわっ――!?」
前しか見ていなかった平介の体は、横からのタックルにまったく対応できなかった。
肩と腹に激しい圧力が加わり、勢いそのままに、アスファルトへ豪快に投げ出される。
視界がぐるりと回る。
着地の衝撃が、脳天まで響いた。
(ひかれた――!?)
一瞬そう思った。だが、それにしては衝撃が軽い。視界にも、車の影はない。
地面に手をつきながら、平介はゆっくりと上半身を起こした。右肩を強く打ったようで鈍く痛むが、それ以外は特に問題なさそうだった。
「君、大丈夫か?」
頭上から、心配そうな女の子の声が降ってきた。
そこでようやく、平介は気づいた。さっきぶつかったのは人間だったのだと。
(通学路で女子とぶつかった……だと?)
しかも、制服からして同じ高校の生徒。これは――これはもしや……!
平介の中に、突如としてロマンスの鐘が鳴り響く。
曲がり角、衝突、朝の通学路。
定番中の定番じゃないか。違うのは、イケメン転校生じゃなくて自分がジミメン男子なことと、食パンをくわえてなかったことくらい。
(神は言っている……三次元に恋をしてもいい、と……!)
「本当にすまなかった。遅刻しそうで、焦ってたんだ。……どうした? そんなにうつむいて。頭、打った?」
アルトサックスのようにまろやかな、耳に心地よい声だった。
本妻・ミッディの透き通るソプラノとはまた違った魅力。でも今この状況なら、三次元の相手でも十分ロマンスの対象である。むしろ、ありがとう。
「いたたた……」
身体を確かめつつ立ち上がろうとするが、足首を軽くひねったらしく、情けないほどのふらつきで再び崩れ落ちる。
そのとき、ぐっと腕を支えられた。
女子生徒が、倒れかけた平介を支えてくれたのだ。
恥ずかしさに耐えながら、平介はおそるおそる顔を上げた。
期待してなかったといえば嘘になる。
ミッディみたいな美少女じゃなくていい。普通の子でも、ちょっと個性派でも、全然構わない。
俺にも、こんな出会いがあるかもしれない――
そんな淡い期待を胸に、平介は顔を見上げた。
「あ、ありが――」
言葉が、舌の上で石になった。
女子生徒の顔は──人間の顔じゃなかった。
もちろん、いくら不細工でも「人間の顔じゃない」なんて言うのはひどすぎる。それは、顔のことでいじられ続けた平介自身、痛いほどわかっている。
けれど今回ばかりは、悪口ではない。事実だ。
「どうした? ぼうっとして。……やっぱり頭、打ったのか?」
平介は慌てて首を横に振るが、内心は混乱の極みにあった。
(いや、待て。まさか俺、ほんとに頭打って、幻覚見てる?)
それほどまでに、その顔は現実離れしていた。
馬面という言葉がある。平介も「馬面」と呼ばれる人間を何人も見てきた。だが――
目の前の彼女は、レベルが違った。
そう、馬面じゃない。
本物の──馬だった。
「あ、はい、すみません。立てます。手、放してください。大丈夫です」
ロマンスの予感は、ぱりーんと音を立てて、粉々に砕け散った。
ほんの数秒前まで浮かれ倒していた自分を、平介は心の底から恥ずかしく思った。
顔の筋肉から力が抜けて、自然と真顔になる。
「痛いところはないか?」
「ないです。そっちは?」
「そうか、それならよかった。私は大丈夫だ」
女子生徒――いや、馬は、微笑んだようだった。
だが実際のところ、黒光りする肌は大理石のように硬そうで、左右に離れた目もまったく動かない。
だからそれが微笑みだったのかどうかは、声のトーンから平介が勝手に想像したにすぎない。
その姿は、普通の馬とも違っていた。
漆黒の表皮は、まるで闇を絞って染め上げたかのように混じり気のない黒。朝日を受けて、硬質な艶を放っている。
だがその質感は、グラファイトで塗り込められた芸術作品のようで、構成する曲線と濃淡には、確かな意志と構図があった。死んだ質感なのに、生きている。
天才彫刻家が墨だけで彫り上げた騎士像に、神様が気まぐれで命を吹き込んだ──そんな存在感だった。
「お互い遅刻だな。どうだい、もう事故らないように、ゆっくり歩かないか?」
馬が穏やかに提案する。
平介が腕時計をちらりと見たところ、もう世界新記録を出してもギリギリ間に合うかどうか、という瀬戸際だった。
「……そうしましょうか」
さすがに初対面の女子(?)の顔にツッコむのは失礼だろうと、一度は「どうして馬なんですか?」という問いを飲み込む。
代わりに、無難な話題で探ることにした。
「ところで、馬だけあって、さすがに速いですね」
褒めたつもりだったが、馬はほんのり機嫌を損ねたように見えた。
とはいえ、首から下は普通の女子高校生。
細身すぎず、太すぎず。赤いリボンが結ばれた制服の襟、ひざ下五センチのチェックのスカート。
平均的な身長だが、長く伸びた頭部によって、全体的に縦に大きい印象になっている。
(……いや、下が人間なら、速さは別に馬とは関係ないのでは?)
そう気づいた頃、彼女――いや、馬は言った。
「馬ではない」
あまりにまっすぐな否定に、思わず平介は口をすべらせる。
「え、じゃあ……人面馬? 逆か、馬面人……?」
「お前、デリカシーという言葉を知らぬのか?」
馬はぴたりと足を止めて言い放った。
「私のこれはナイトだよ」
ナイトと聞いた瞬間、平介の脳裏には、とある少年の顔が浮かんだ。
黒髪で、幼なじみを装って本妻(ミッディ)に接近してくる厄介なやつ。
イケメンなのもまた腹立たしい。今のところミッディに全然相手にされていないのだけが救いだった。
「……チェスの駒だ。大理石のナイト、黒塗りの騎士だよ」
そう告げた馬は、どこか誇らしげに顔を上げた。
「チェスが好きなんですか? 顔をチェスの駒にするくらいには」
平介はアンパンが好きだ。でも、だからといって自分の顔をアンパンにしようとは思わない。
女子高校生といえば、地球上でもっともかわいい顔面にこだわる存在だ。
そのひとりが、なぜわざわざ人間の顔をやめて駒スタイルを貫いているのか。平介には理解が追いつかなかった。
ナイトの駒さんは静かに首を横に振ったが、たてがみはぴくりとも動かない。
「いや、これは目立たないためだ」
「……などと、意味不明な供述をしており」
つい口がすべって、相手に喧嘩を売るような台詞を吐いてしまう。
直後に平介は小さく舌打ちして、自分の口の軽さを反省した。
「すみません、調子に乗りました……許してください」
「構わぬが……変なやつだな」
いや、あなたにだけは言われたくない。
「変人だとお前には言われたくないランキング」があったら、間違いなくあなた、堂々の一位です。
「夜の仕事で疲れて寝坊するわ、ぶつかるわで……ろくでもない一日かと思っていたが」
「うん」
「お主のような、滅多にいない変人と会えたので、プラマイすると……」
「うん?」
「……大幅にマイナスかな」
「なんでマイナスなんだよ!? 結局ダメなんかい!」
そんな軽口を交わしながら、二人は校舎の前にたどり着いた。
授業中なので、自然と声のトーンが下がる。
「っていうかさ、夜の仕事って何? うちの高校、バイト禁止だよな? ていうか夜の仕事って、それ……」
「おっと、しゃべりすぎた。徹夜仕事って意味だよ。あくまで時間帯の話。……いかがわしい方向を想像したなら、君の心が汚れている証拠だね」
「うるせえわ! ……っていうか、高校生で徹夜の仕事って何してんだよ!」
どんだけブラックなんだ、とツッコみかけたところで、ナイトの駒さんが教室の扉に手をかける。
一年D組――平介の隣のクラスだった。
「それはそうと。……私には、もう話しかけぬ方がいい」
その言葉に、平介は首をかしげる。
「え?」
「顔を盗まれる人を見るのは、もうたくさんだからね」
そう言って、ナイトの駒さんは長い頭を下げて教室の中へと入っていった。
──が、やっぱり頭は長すぎた。扉の上枠にぶつかって、「ゴンッ」と鈍い音が響いた。
顔を盗まれる。
聞き慣れないその言葉が、やけに耳に残った。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
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