過去作の一部
キリ
海は破れない
火曜日はさすがに行かないと親が心配すると思って、重い足で学校に向かった。彼女がいるとはわかっていたけれど、顔は見れなかった。授業が終わったあと自習室に入って、ノートの新しいページを開いて何もしないまま気づいたら2時間くらい過ごしていた。やっと私がいつもの参考書を開いたときもう自習室には誰もいなかった。
ばかみたい。自業自得で。
悲しい自嘲の笑いが出た瞬間に、スカートのポケットに入れていたスマホが震えだした。
「は、」
もしかして、と思った。いや、稔かもしれない、と自分を落ち着かせつつ画面を見たら、案の定まなかちゃんの名前があった。名前を見た瞬間、あらゆる不安が喉のところに集まってきてしまった。痛い。
「まなかちゃん」
謝るはずだった。まなかちゃんは私のことを嫌いになったはずだから。
でもやっぱり涙腺が痛くなって熱くなって涙が出てきた。
「ゆきちゃん、ゆきちゃん」
「あの、ね、ほんとに、ごめんなさい」
まなかちゃんはその場に頽れた私の肩をさすっている。なんで、なんで。なんで?なんで。
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ」
その、風鈴を鳴らしたみたいな、綺麗な声が本当に好きだった。今はその破片が胸に深く刺さって抜けない。返しでもついているんじゃないかと思う。抜いたら、血が出て止まらなくなって、私は死んじゃうんじゃないかと思う。まだ、私の体の一部で、あってほしかったのに。光を透かす破片を硬い体から抜いて死ぬなら、一生それが抜けない痛みとひとつになってみたい。
「ゆるして」
許さないでいいよ、と言おうとしたのに、口をついて出た言葉は違っていた。私は彼女に、まだ、許されたかったのか。強欲にも程がある、何を望んでも失敗してきたというのに。
「いいよ、だいじょうぶだよ、息吸って」
喉を震わせながら息を吸って、吐くのを、3回やった。
「落ち着いた?」
「う、うん」
涙で前が見えなくて、ごしごし目を擦る。
「ゆきちゃん、だいじょうぶだよ、私は何もゆきちゃんのこと、恨んだりしてないし、嫌とかも思ったことない」
「うそだ」
私ははっきり口にした。私は好きでもなんでもない同級生に、いきなりキスをされることを想像した。例えば、石井くんとか。ああ、どれだけ汚くて暴力的か私にも分かった。想像力が足りない私にも分かる卑近な例というやつだった。私は、めちゃくちゃだ。めちゃくちゃ。ほんとにめちゃくちゃ。自分のことが分からない。私の勢いにまなかちゃんは驚いた顔をしていた。
「そんな、嫌とか、思わないよ」
そんなはずないだろうと思ったけれど、その言葉に嘘はないように聞こえた。まずこの人が嘘を言うはずがないと、私は幻影を追いかけていた。これが嘘だとしたら、この世界はたぶん均衡が取れずに、どこかの海からとっくに破れてしまっていると思うのだ。この人と私は何が違うんだろう。育ち?ここまで、人を許すことが、できるのは、なんでなんだろう。
「ね、ゆきちゃん、私はその、女の子が好きとか、分からないけど」
私もわからないよ。私も、それがわかったことなんて一度もなかった。あなたの仕草にいちいち見とれるのも、石井くんのことが心底嫌いなのも、稔と結婚しようという誓いを立てたのも、何が恋愛に起因して何がそうでないのか、どこが違うのか、整然とした言葉で説明できたことなど一度もなかった。多分私は毎回間違えていた。現代文が苦手なのはきっとそのせいだ。私は、変なのだ。病気という病気には、たぶん当てはまらないけれど。私はどこかで、そうやって自分を認めていたはずなのに。
「うん、いや、いいよ、う、そんな」
「ううん。あのね」
まなかちゃんが、私の目を見た。少し、怖かった。
「友達でいていいなら、ずっと友達でいたい」
ええ、と鼻にかかった気の抜けた声が出た。友達?
「だって、私、ゆきちゃんと友達でいたいもん。それが、ゆきちゃんにとって、辛くないんだったらだけど」
「まなか、ちゃん」
「私は大丈夫だよ」
友達という言葉は、今日の私には、とても爽やかに軽く響いていた。それがなぜなのかはわからなかった。ただ、私の中の何かが、私から切り離されて地面に落ちた気持ちがした。これが、諦めるということなのか。そういえば、音楽をやめたときも、こんな苦しさと気持ちよさが、内側の壁を叩いていたような、気がしなくもない。いつのまにかそれも忘れていた。
「あ、ありが、とう」
「ううん」
ずっと友達でいたい、という言葉のどれほど脆いかを私はよく知っていた。私はいつまでも、この教室で時間を止めてでもあなたの横顔を眺めていたかった。ただ、そんなこと、叶っていいはずがなかった。まなかちゃんは、きっと私のことなんて忘れていく、というか目の前に立っている今でさえ、彼女の瞳に張った涙の上から私の影は薄れていっているようにも見える。私はまだ、彼女としたキスを思い出して高揚するんだろう。私は汚いのに、それを憐れむ余裕のある彼女のことが少し不思議で、羨ましかった。
「じゃあ、やり直しだね。友達」
ひゅ、と息を呑む音がした。私の前にあった未来は残酷だった。でも差し出されたその手を弱く掴む以外私にできなかった。
「……うん」
暗い声で返事をした私の背中を、まなかちゃんは軽く叩いた。
「ほら、帰ろ。準備して。ね?」
その笑顔は、やっぱり、私だけに向けられるにはあまりにも明るく綺麗だった。恋心はその眩しさにばらばらになってしまって、私は二度と触ることができなくなってしまった。これでおしまいらしい。割り切れたのか割り切れていないのかは置いといて、これを捨てなければ私はずっと汚れたままの人間なのだとよく分かった。手の平が触れている床の冷たさもそう教えてくれた。
過去作の一部 キリ @tyoutyouhujin
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