水曜日の放課後
翠ノさつき
水曜日の放課後
水曜日の放課後、図書室の奥には、二人ぶんだけ机がある小さな窓際のスペースがある。人目につかない場所で、外から柔らかな光が差し込むその場所を、私は少し特別に思っていた。
彼と出会ったのは、新しい学年が始まってすぐの水曜日だった。
新しい教室、新しい先生、新しい友達。すべてがまだ馴染まなくて、私は毎年恒例のように図書室へと足を運んだ。変わらない空間に身を置くことで、心を落ち着けたかった。
けれど、その日だけは少し違っていた。
「……あ、ごめん」
私がカバンを肩にかけたまま立ち尽くしていると、先に座っていた男の子がそう言った。
細く、静かな声だった。私より少し背が高くて、制服の袖が少し長め。文庫本を開いたままの手が、綺麗だったのを覚えている。
「ううん、大丈夫。ここ、好きなんだ」
私はそう答えて、もうひとつの椅子にそっと腰を下ろした。彼は少し驚いたようだったけれど、すぐに目を本に戻した。その動作が、なぜか心地よく感じられた。
それから、水曜日の放課後はなんとなく、自然に、彼と並んで座るようになった。
名前も、学年も知らない。会話も、ほとんどなかった。ただ、同じ空間で本を読むだけ。だけど、それが不思議と居心地よかった。
ページをめくる音、風に揺れるカーテンの気配、遠くから聞こえる部活の掛け声。
音が少ない分、彼の息遣いや指先の動きがやけに静かに心に残った。
数週間が過ぎたある日、ふと彼が読んでいた本の表紙に目が止まった。私も昔、一度だけ読んだことがある小説だった。
「それ、好き?」
思わず声に出すと、彼はゆっくりと顔を上げ、少しだけ表情を崩してうなずいた。
「うん。静かだけど、心が動く話」
「……いいよね、そういうの」
その日を境に、少しだけ会話が増えた。おすすめの作家や、好きな表現、挿絵の話まで。
短い言葉のやりとりでも、彼の声の調子や、選ぶ言葉に、どこか優しさを感じていた。
「なんで水曜だけ来るの?」
ある日、彼がぽつりと尋ねた。
「部活がない日だから。あと……静かだから」
「静かなの、好き?」
「うん。音がないと、気持ちが落ち着くから」
彼はうなずいて、それから少しだけ笑った。その笑顔を見て、私は胸の奥がふわっと温かくなるのを感じた。
雨の日も、風の強い日も、ふたりはその窓際の席に通い続けた。
本の内容がどんなに暗くても、彼といる時間は、穏やかだった。
だけど、ある週の水曜日。彼は来なかった。
その日は、春の終わりを感じさせる冷たい風が吹いていた。私は少し早めに図書室へ行き、いつもの席に座って本を開いた。けれど、ページをめくる手は落ち着かず、何度も入口のほうへ視線を送ってしまう。
そして、机の上に一枚の紙が置かれていることに気づいた。
《来週は行けないかもしれない。テスト、がんばって》
文字の癖と、紙の折り方で、すぐに彼のものだとわかった。そこに書かれた短い一文が、想像以上に胸に残って、私はその紙をそっと鞄にしまった。
翌週、彼はやはり来なかった。さらに次の週も。
私は同じ席に座って、本を開き、でも内容は全然頭に入ってこなくて、それでもページをめくるふりをした。
三週目の水曜日。窓から差す光が、初夏の気配を含んでいたころ。
「久しぶり」
声がして顔を上げると、彼が立っていた。少し髪が短くなっていて、制服のシャツが少しよれていた。でもその姿を見た瞬間、胸の奥に積もっていた不安が、ふわっとほどけていった。
「……うん。久しぶり」
彼は静かに笑って、隣に腰を下ろした。
「来てくれて、よかった」
それは心の中だけのつもりだったのに、彼はふとこちらを見て、小さく微笑んだ。
「来たよ。約束してないけど……ここ、好きだから」
たったそれだけのやりとり。でも、それだけで十分だった。
六月のある日。彼がそっと本を差し出した。
「これ、貸す。たぶん、君も好きだと思う」
カバーを外したままのその本は、少し角がすり減っていて、何度も読み返された形跡があった。
「ありがとう。読むの、楽しみ」
私はそれを大切に抱えて帰った。まだページも開いていないのに、心がぽっと温かくなっていた。
蝉の声が日ごとに強くなるころ。図書室の奥の席は、相変わらず静かだった。
彼との距離は、近いようで遠くて。でも、無理に踏み込まない感じが、ちょうどよかった。
「名前、聞いてもいい?」
ある日、勇気を出して尋ねると、彼は少し驚いたように私を見つめて、それから笑った。
「……いいよ。君も、教えて」
名前を交換しただけで、なぜだか急に世界が輪郭を持ったような気がした。
でも、その静けさは変わらなかった。
夏休みが近づいていた。最後の水曜日、彼は一言だけこう言った。
「……また、会えるといいね」
その声が、妙に遠く感じられて、私はとっさに返事ができなかった。
だけど、翌年の春。新しい制服を着て、少し緊張しながら図書室に行ったとき、窓際の席には、彼がいた。
まるで、何も変わらなかったように。
私は静かに笑って、彼の隣に座った。
そのとき、彼が本の間からそっと何かを取り出し、私に見せてくれた。
《また、水曜日に会おう》
小さな紙片に書かれたその言葉に、私はそっとうなずいた。
図書室の窓から、春の光が優しく差し込んでいた。
水曜日の放課後 翠ノさつき @Suino_Satsuki
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