友達以上、友達未満

惰落くらうど

友達以上、友達未満

「もうやめない? これ」


 当たり前のように腰にまわされた腕を、次に横に座る友人を見て、代田深陽しろたみはるはそう切り出した。

 深陽がやめないかと言ったのは、彼らがたった今済ませたばかりの行為。軽く唇を重ね合わせただけの、恋人同士が行うもののひとつ。


 この部屋と彼らが腰掛けているベッドの持ち主である渡稜真わたりりょうまは、瞳をほんの少し見開いて瞬きをひとつ。


「今さら?」


 当然といえば当然の問いに「うん、今さら」と深陽は返す。

 彼らは友人でありながらただキスをするという関係を二ヶ月以上続けてきた。

 関係の始まりは、稜真に恋人ができて間もない頃。高校に上がって早くも1年が経ち、クラス替えも済んだあとだった。


 そう、稜真にはれっきとした交際相手がいるのだ。本人の自覚が時折なくなるほど気まぐれなさががたまたま傾いたとはいえ、告白に頷いた上で成り立った関係にある。

 にも関わらず、稜真は友人である深陽とキスをしている。

 深陽もそれを受け入れたからこそ今日まで続いた。


「ハル、別に嫌がってなかったじゃん」


 声に疑いは含まれておらず、ただ不思議に思っている。

 不意に首筋へ柔らかなものが押しつけられ、見れば稜真の長い睫毛に縁取られた瞳が深陽を上目遣いに見つめていた。

 相変わらず彼の瞳からは何も読み取ることができない。


 彼の言う通り、深陽は彼とのキスが嫌ではなかった。

 あの日もここで、稜真の部屋を訪れたときに初めて唇を重ねた。奪われた、のほうが正しい。


 何故触れたのかと訊ねれば「そうしたかったから。 なんとなく」というなんとも単純かつ淡白な声が返ってきて、深陽を見る瞳は普段と何ら変わらずどこか冷めていた。

 平然とした稜真の様子に、他に言いたいことは次から次へと浮かんできたはずだ。何故曖昧なのかといえば、その他諸々の言葉たちを喉奥へ押しやり記憶すらも飛びかけるほど、ひとつの感情が深陽の意識を覆っていたから。


 深陽は小学生時代から付き合いのある稜真に、いつしか同性の友人に対して抱くものとは言えないものを芽生えさせていた。

 稜真は顔立ちが整っているうえ、同性異性に関係なく無自覚に思わせぶりな態度をとるので、周囲の人間同様そこにやられたせいもある。ごく自然に人との距離を詰めてくるのだ。


 友人という気安い関係だからなのか、特に深陽に対しての距離感はバグと言ってもよかった。

 肩に頭を乗せたり、高い背を屈め膝の上にちょこんと指先を乗せて見上げてきたり、控えるということを知らないかのような稜真の振る舞いに深陽の心が乱されないわけがなく。

 理由らしい理由であろうとなかろうと、彼から求められるという事実は深陽の胸を震わせ、乾いた心を潤した。


 稜真の恋人に対する罪の意識すら甘やかなものへと変えてしまうほど、自身の淡いとは言えない想いを慰める何物にも代え難いものを、深陽は今、手放そうとしている。

 稜真が自分を友人以上の存在として思うことはないという虚しさに気づきながら、爆発寸前というところにいくまで目を逸らし続けた。


「あのとき、最初にキスした時点でやめておけばよかった。 今になって気づいただけだよ」

「……里香になんか言われた? あいつからお前とどうこうなってるかなんて聞かれたことないけど」

「中野さんは関係ないよ。 でも、お前の彼女にもさすがに申し訳ないってのはある。 たまにお前のことで相談しに来るから」

「あいつとたまに話してたのってそういう……。 だからいろいろ言ってくること減ったのか」


 事実と嘘を織り交ぜた深陽の言葉に、稜真は瞼を半分ほど下ろす。

 稜真の恋人であり深陽のクラスメイトである中野里香なかのりかには、少々独占欲が強い面がある。学年一とはいかなくとも女子に人気があり、本人にその気がなくとも相手をその気にさせてしまう稜真だから、万が一ということもあると気が気ではないのだろう。

 その万が一らしきことは自分との間に起こっているのだが、と深陽は思いつつ彼女から話を聞いていた。


 稜真は恋人に対する不満、というよりストレスを深陽の前でたびたび吐露した。

 今日は何人の女子と喋ったかだとか、恋人の優先度が低いだとかを交際を始めて一週間も経たないうちから言われている、と疲労の色が濃く滲んだ顔で稜真は話した。

 最後は恋人の名前を呼んだ唇で口づけ、深陽も常にそれを受け入れた。


 そこまで言っておきながら別れないのは何故か。それも「なんとなく」なのか。女子でなければ満たされないのか。

 何度も叫んでは全てを飲み込んで、ささやかでとろけるような蜜に溺れようとして。それでも消しきれない苦痛から逃げることを選んだ。


「こういうこと、もう彼女とだけにしろよ。 お前の気まぐれに付き合うのはこれで最後」


 腰に回された腕をほどきながら深陽は言う。

 やや硬く、しかしはっきりとしていた声は決心を鈍らせないために自分へ向けたものであり、本心の一部が表れた結果でもあった。


 友人という境界線を揺るがした触れ合いは稜真の「なんとなく」で始まった。

 キスの間も心から幸福なのは深陽だけで、稜真はきっと何も感じていない。

 彼が何を考えているのか、何を思っているのかを知るのが恐ろしくてついぞ聞くことはなかった。

 あのひんやりとした眼差しを覗き込んで感情を探るのは、十年近い付き合いを経た今でも苦手だ。下手をすれば、どうしようもない感情を暴かれてしまいそうでもあったから。


 稜真の勉強机の右上に掛けてある時計を見ると、ここへ来てから1時間も経っていなかった。

 これ以上長居する気も起きなかった深陽がベッドから腰を上げると、その白い左手首が掴まれる。


「本気?」


 深陽を見上げる両の目はわずかに瞼が上がっていた。

 想像もしていない反応だったが、深陽は黙って小さく首を縦に振る。

 手首を掴む力が強まった。深陽が自分の左腕を引っ張ろうとすると、より抜け出せなくなる。


「……離してくんない?」

「なんで」

「いや、帰りたいし。 逆に聞くけど、何で離してくんないの」

「納得できない。 これまでずっと、何も言わなかったじゃん。 勝手にキスして、それを今までやめなかった俺に怒るとか冷たくするとかなかったのに」


 稜真が視線を下げ、小さく声を落とした。


「ずっと俺のとこ、いたくせに」


 拗ねた子供のような言い方に、次は深陽が目を見開く番だった。

 離れるな、とでも言うのだろうか。

 込み上げてくるものを堪えきれず、深陽はプッと吹き出す。


「お前だって、キスしてきただろ? なら俺が終わらせてたっていいじゃん」

「………」

「別に友達辞めるわけでもないのに大袈裟……いや、一旦距離も置いたほうがいい?」

「は? そこまですること」

「あるんだよ。 付き合ってるわけでもない、どころかお前には彼女がいるのに、隠れてこんなことやってる。 さすがに駄目だったってことで、お互い頭冷やそう」


 捲し立てるように言葉を続けられた稜真は、深陽の細い手首を掴んだままうつむく。

 数秒後、顔を上げずに稜真が言った。


「もうしない。 キスはもう、しないから。 距離置くな」

「……人前でくっついてくるのもやめるなら」


 稜真の頭が小さく縦に振られる。

 珍しく頑なな面を晒す彼が、深陽にはわからなかった。

 自分と同じ想いを抱いているはずもない友人が、自分が離れることを良しとしないなど妙なこともあるものだ、としか思わなかった。

 否、稜真のことは昔からわからなかった。


 長い付き合いだと先ほど自分で言ったばかりだが、同じ月日を過ごしてきた友人が他にいないというわけではない。稜真の人付き合いを横で見ていればわかる。

 彼と一緒にいた場面が他より少し多かった。ただそれだけに過ぎないが、それだけで十分だと思うべきだったと心の中で呟き深陽は苦笑する。

 たまたまとはいえ、隣でいた時間が長い相手がいきなり距離をとろうだなんて言い出せば、戸惑うのも無理はないのかもしれない。


 深陽の前で下を向いたままの稜真の表情は、この時酷く歪んでいた。眉間に皺が寄り、唇に歯を立てている様は痛みを堪える人間のそれだった。

 しかし自身の胸を刺すものに見当がなく、それ故にまた苦しんでいた。


 手首を掴んでいる腕を外すと、一段と弱々しい表情をした稜真とようやく目が合った。

 その顔に両手をそっと添えた深陽は、一等優しく微笑んでから稜真の唇に自分のそれを重ねる。積み重ねてきた想いを、胸を抉られるような痛みを、彼によって刻みつけられたもの全てを注ぐように。

 深陽からするのはこれが初めてだった。


 行き場を失った稜真の手がぴくりと反応する。

 それが背中へまわるより先に深陽の顔が離れた。


ちゃんと、友達だから」

「それ、どういう––––」

「好きだったってだけだよ。 お前のこと、そういう意味で」


 ひゅ、と稜真が息を呑んだとき、深陽はベッド脇の通学鞄を肩にかけていた。


「ハル––––」


 言葉が続く途中でドアが閉まる。

 先ほどの名残がある唇をきつく結び、深陽は稜真の家をあとにした。

 ドアの向こうで静かに喘ぐ声を深陽が知ることはなく、稜真もまた深陽のまなじりからこぼれた雫を知ることはない。

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