第13話【白雷の反撃】
ぴくと一瞬、その指先が強張った。
ライの愛撫に陶酔していた女は刹那に混じった雑音に、不満気な溜め息を零した。
その吐息一つでさえ甘やかな響きを含んで、ライの鼓膜を震わせる。
女はライの頭を掻き抱き、彼の首筋に幾度も唇を滑らせていた。
男が欲情した時に放つ匂いを、彼女は嗅ぎ分けることが出来た。
自分たちの身体に流れる血は、全て人間にとっての毒で出来ている。
彼女は自分の上に跨る男の、整った顔を愛しげに手の平で撫でた。
初めて見つけた時から、気に入っていた。
群れの中にいても、目を引くこの容姿。
鍛え抜かれた戦士の身体。
自分の毒に少しずつ侵されながらこの涼しげな男が、どんな風に乱れて狂って行くのだろう。
人間の男の身体を知り尽くした女が探る手つきに、感じているその表情に女は舌なめずりをした。
確かに感じているのにその欲情を持て余して、愛しい女の身体の前に立ち尽くしている。
まるで獲物に飛び掛かる肉食獣のような気配を纏うライに、女は悦んだ。
久しぶりに楽しめそうな器だ。
今更躊躇い迷う素振りを見せるその姿すら、女の目には可愛らしい抵抗に映った。
どうせ、私の中に沈み、悦び狂うものを。
女は自ら衣服を脱ぎ捨て脚を広げ、男を誘い込んだ。
動物に等しい人間の雄は、この魅力になど抗えるはずもない。
惑わしながら、盗み取ったライの記憶の中でいつもの彼の、熱を敢えて排除したような振る舞いを見た女は、誇り高い騎士であることを願っているような彼を淫らに苛め抜き、辱め、犬のように自分の魅力の許に屈伏させたいという欲求に取り憑かれていた。
この器はいい餌になる。
女は闇色の欲望を胸の奥にひた隠し、何度も彼に優しげに愛を囁き、熱を帯びた身体を押し付け、誘惑した。
直前に見せた悪夢がよほど効果的だったようだ。
まるで死に瀕した人間の命を引き止める蘇生術かのように、執拗で思いを込めた愛撫を彼は繰り返した。
女はライのシャツに爪を掛け、肩から脱がした。
匂い立つ、昂った欲情の香り。その香りを嗅ぐだけで女は喘いだ。
邪悪な牙を隠しながら優しくライの柔らかい髪を、撫でていると。
突如、どこか遠くで凄まじい閃光が走った。
その瞬間――熱に惑っていたライの瞳が瞬いたのだ。
彼は身を起こした。
浅く息をして、後ろを肩越しに振り返る。
こめかみを、汗が伝い落ちる。落ちて来たその雫が頬に落ちた。
女は舌でそれを舐めとる。なんて甘く、美味なのだろうか。
女は恍惚の表情でうっとりとした。
「……マーラ……?」
ライは呟いた。
その名に、女の溶けていた意識が目覚める。
ライはすでに薄青の瞳に険を含ませていた。
自分を刺すように睨み付けるその表情に、女は甘い溜息を零して身を起こした。
この器で散々に楽しませてやった後に、全てが幻想だと教えてやり、屈辱に満ちたこういう表情を浮かべたところを、毒漬けにして犯し尽くしてやりたかったものを。
最後はどんな鳴き声を上げて自分に懇願するのかと、そこまで夢想していたのを邪魔された。
「……まったく……折角、これから楽しくなりそうだったところを……」
ライの裸の肩に手を滑らせると、彼は女のその手首を素早く跳ね返すような手つきで、捕らえた。厳しい表情で女を睨みつける。
「ウフフ……」
器はマーラの姿をしていたがはっきりと、彼女では無いものが宿ることを示す、笑み。
「可哀想にね。随分震えて、そんなに怖かったのかい?
……ぼうや。この身体が、死に絶える姿が?」
ライが立ち上がり、側の剣を引き抜いた。
「おまえは……」
「『私達』の毒は人間に強い幻覚を見せる。その人間が、何よりも恐ろしいと思っている幻覚をね」
女は自分の柔らかな茶色の髪をゆっくりと撫でてみせた。
その仕草でさえ、すでに覚醒したライの怒りを誘った。
まるでマーラに汚らわしいものが、触れているような気にさせられたのだ。
ライは剣先を突きつける。
「正体を現わせ」
女は妖艶な笑みで、フフ、と声を立ててみせた。
「その手でこうまで愛撫を重ねた、この身体に、剣痕を刻めるのか? あんなに激しく……狂おしいほど求めていたものを」
ライの顔が紅潮する。
女は、マーラとは全く違う嗤い声を立てた。
「やれるものならやってごらん。私は闇の眷属。人間の剣などでは殺められないぞ?」
「闇の眷属……?」
眉を寄せた瞬間、女の指先から鋭い爪が伸び、ライに襲い掛かった。
彼は身を捻って躱したが、もう片方の手からも伸びた爪の一撃は躱し損ねて頬に裂傷が走った。
「!」
後ろに跳び退った自分に尚も迫る刃を、閃かせた剣で一閃する。
女の嗤い声が森に木霊した。
「完全なる、私のしもべに、してあげようねぇ!」
マーラの姿が弾け飛び、無数の黒い蝙蝠がライに襲い掛かる。
彼の剥き出しになっていた皮膚に、鋭い牙で食らいついて来る。
「くっ、」
手で払いのけたが、その払いのけた蝙蝠が更に小さい蝙蝠に分かれ、ライを追撃する。
「ウフフ……心配するな。お前の血はこの姿で吸ってやろう」
マーラの姿で、女が冷たい笑みを浮かべる。
「マーラは!」
「無事だ。今はね。だがセルピノ様が帰還されれば、自分の眷属になさるだろうよ。私達は男の血と魔力しか吸わない。あの女は人間にしては強い魔力を持っている。セルピノ様に魔力を吸われ、その魔性の種を身体に植え付けられれば、男の血と魔力のみを欲する、淫らで幸せな闇の眷属に変化するのだ」
聞いた瞬間ライの表情が一変する。
それ以上のことは、何も聞く必要はなかった。
高らかに笑ったその女の顔を、突然発露した白い雷が吹き飛ばす。
残った身体が再び無数の蝙蝠に変化して飛び立とうとしたが、
間を置かず、宙を駆け抜けた雷が蝙蝠達を取り囲み、雨の様な激しい雷撃でその一羽一羽の、身体の肉片、姿形が消えるまでを撃ち続けた。
それは、その時のライの心をまさに体現したかのような苛烈な急襲だった。
閃光が二度、三度瞬きようやく雷が止むと、そこには焦げて荒れ果てた森が広がるだけで、何も残っていない。
怒りの表情で目を見開いていたライが、剣を握っていた腕を下ろす。
彼はよろめくようにして側の樹に寄り掛かった。
背を預け、一番痛んだ頬の傷を確かめようとした左手が大きく震えたのを見る。
「くそっ……」
ライは震えた自分の手を木の幹に思い切り打ち付けた。
額を押さえ膝をつく。
可能ならこの手で、安易な敵の罠に嵌まった自分を殴り尽くしてやりたいくらいだった。
だが。
ライはすぐに立ち上がった。
あの白い閃光と共に、一瞬、マーラの声が聞こえた気がしたのだ。
あの声が無かったら、自分は今頃あの魔物に取り込まれていただろう。
白い閃光……。
ライはハッとした。
「マーラ!」
◇ ◇ ◇
ギルノと、マーラの姿を見つけた。
彼女は倒れている。寸前に同じ姿を見ていたライは震え上がった。
「ライ」
その姿に気づき声を掛けて来たギルノなど、彼は知ったことではなかった。
「どけッ!」
ライはギルノの大きな身体を突き飛ばして、地に倒れるマーラを助け起こした。
そしてすぐに息を飲む。彼女の右手にひどい火傷の痕があった。
肘の辺りまで激しい燃焼に当てられたような痕がある。
「何があった」
ギルノを問い質す。
「それは……、」
「言えよ! 何があった!」
「ライ」
マーラが呻くように、彼を呼んだ。
「マーラ」
「……彼を責めないで……ごめんなさい……あんなに、貴方に言われたのに……咄嗟に魔力を使うなんて、軽率なことをしてしまった……」
マーラは顔を歪めて右腕を抱え込んだ。
ライは顔を顰める。
やはり彼女は魔力を使ったのだ。
ずっと封じていた力。
まともに魔法を使ったことも無いのに、そこに力があり救うべき人がいれば、彼女は迷わず使う。
彼女はそういう、人だった。
「マーラ、しっかりしろ」
平気、と彼女は痛みを堪えながらも返して来た。
そして自分を抱えたライの腕に残る傷痕に、首を振る。
「あなたは……平気なの」
「俺は大丈夫だ。心配するな」
「テサっていうあの女が、魔物だった。闇の眷属だとか抜かしてたか……」
「俺が倒した女も同じことを言っていた。セルピノの眷属だと」
「どういうことだ……あの悪魔共は帝都軍を率いて各地の戦線に送り込まれてるんじゃないのかよ。なんでこんな小さな村を襲ったりする」
ギルノが険しい顔をする。
ライはマーラを抱え上げた。
「おい、すぐに荷物を持って来い。ここを出るぞ」
「お、おお! 分かった!」
ギルノが慌てて駆け出して行った。
「ここに来る途中に川があった。そこで腕を冷やそう。少しの間、我慢出来るか」
マーラは小さく頷いた。
先に村を出て山を下りていると、ギルノが追いついて来る。
「マーラ。水で浸して来た。これを巻いてとりあえず冷やしとけ」
彼は言って、丁寧にマーラの腕をタオルで包み込んでくれた。
「……ありがとう、ギルノ」
少しだけ熱と痛みに包まれていた腕の感覚が和らぐ。
ギルノに礼を言うと彼は頷き、彼女の頭を軽く撫でた。
「頑張れよ。ズィーレンに着いたらメンルーゲに言って、死ぬほどお前を治療させてやる。奴は回復魔法の使い手だ。このくらいの傷はすぐ治せる。安心しろ。大丈夫だからな」
マーラは彼の言い方に、つい笑ってしまった。
「そうだった。忘れてた……彼に会わなきゃ。……ね、ライ」
マーラを抱えていた為両手が使えなかったライは頷いてそっと彼女の額に、自分の額を寄せた。
ライの身体にある傷の血はもう全て止まっている。全部浅手で済んだからだ。
だが、身体の傷よりなにより、胸の奥が痛んだ。
何故ならあの時の彼女は偽物だったが、
その彼女に対して自分自身が望んだことは、紛れもないライの心の奥底から湧き出たもので、……自分は、彼女を汚そうとしたのだ、とライは罪悪感を拭い去ることが出来なかった。
そんな風に憎悪しながら――確かに彼女に触れている時、幸せで堪らない気持ちに酔い痴れていた自分の心に、彼は激しく戸惑ったのである。
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