マーラと翼を持つ者

七海ポルカ

第1話【聖者への道】



      


 夜闇に揺らめく、明かり。

 不意に樹間から見えた光にマーラは顔を上げた。

 優しい街の火。

 小さく息を零したそこへ手を差し出される。厚い革手袋に包まれた大きな手。

 見上げれば夜空の闇を背に、ライが微かな笑みを湛えて手を差し出している。


「大丈夫か」


 マーラはライの笑みにようやく安堵して、彼女自身も小さく微笑った。

「ええ」

 差し出されたライの手を借り、大きな樹の根を跨いで越える。

 賢い青年だと思う。


 ライは【時】を読むのに非常に長けている。


 本人は戦場では研ぎ澄まされることがあると口にしたことはあったが、マーラから見ると、彼のその能力は平時と戦場を問わない気がした。

 この厳しい山岳地帯を抜けるのにマーラは、女性としては自分も武芸の心得がある者として、体力はある方だという自負があったが、そんな彼女でもさすがにこの悪路には苦戦していた。彼女は苦しい時、集中力を上げてそれを乗り越える癖がある。マーラにとって不調な時とは、傷が痛む時でも心が痛む時でもなく、集中出来ない時だった。

 ライは彼女に非常に庇護的なので、普段彼女の身体を気遣うような言葉をよく投げかけて来る。


 言葉というのは、聞き手の受け取り方だ。同じ言葉でも、ある人間に掛けられれば嬉しく思うが、別の人間に掛けられれば忌々しく感じることもある。

 また同じ言葉でも、ある時に言われれば聞いて居れないほど疎ましく思うこともあれば、ある時に言われれば、確かにそうであると自分で素直に頷ける時もある。


 今回の山岳抜けは、もう一本の平地のルートが帝国軍に塞がれていたことによって、急遽決まった行程だった。しかし厳しいルートであることは最初から分かっていて、最終的に行くことを決断したのはマーラだったのだ。彼女は自分が下した判断には強くこだわる性格をしている。

 その為、この二日続いた山越えの最中、一度も後ろから気遣わしげな声が掛からなかったのは、集中している彼女にとっては有り難いことだった。

 またいつもの調子で大丈夫かだとか、やはり俺一人で行って来るだとか、少し荷物を持ってやるだとか言われていたら、山中で喧嘩が勃発していたかもしれない。


 しかしすでに街の灯が見えたこの場所で、掛けられたライの気遣いの言葉は、緊張と集中を和らげたマーラの心にはただひたすら優しいものとして響いたのだった。

 勿論、彼もマーラの性格と心境を理解して、ここまで沈黙してくれていたのだろう。

 


 最初に出会った頃、ライとは衝突ばかりしていたのだが、最近になって彼との衝突は俄かに減って来た。それは他人と他人の遣り取りに対して、滅多にものを言ってこないジルクでさえが「最近言い合ってる姿を見なくなったな」と口にするほどで、マーラにもその自覚はあった。

 今では、本拠地内でライと言い合う時は、議論自体が大したことのない、ちゃんと休め、黙って出撃するな、食事をちゃんと取れなどという、お馴染となったことについてライが口に出し、マーラが「出来る時はするつもりはある」と返すという、それも軽い言葉の応酬のようなもので収まるようになって来て、いちいち小言を言って来るなと最初は掴み合いの喧嘩になりそうだった気配は皆無になった。

 ライも、もうマーラが意固地と無自覚で忙殺されているわけではないと理解しており、そうしなければならない時だけそうしているのだということを知っていて、しかし誰かが口にはしなければと彼自身が思っているから、一応言っているだけなのだ。


 マーラもそれを感じた。

 同じ言葉でも最初の頃、彼の言葉に感じた激しい棘を、最近は全く感じない。

 呆れたようにしながらも「頑張りは認めるが」という労わるような気配を纏って彼の諌める言葉は響くようになった。だから彼女は煩わしいと思うことがなくなり、心配してくれていることに対しての感謝のつもりで「わかってる」とだけ返す。彼女の返す言葉にも、最初の頃込められていた苛ついたような響きが無くなったことを、ライも感じているのだろう。

 結局声を掛けあって、頷き合って終わるようになって来たため、衝突することがなくなったのだ。

 ライが本当に嫌がっていることや要望は、マーラは見抜けるようになって来た。これも最初は鵜呑みにしてやることは出来なかったが、普通の人間よりも勘の鋭い所を見せるライが敢えて言って来た忠告は、聞いていて損はないということをマーラは知り始めたのである。

 遠征が手薄だと感じたり、ルートが危険だと本当に彼が感じた時は、忠告する声が変わる。聞き入れてほしいと、真摯に見つめて来る薄青の瞳の底にも、こちらが心配になるほどの淡い光が帯びて、見つめて来る。


 だからそういう時は、マーラは再度メンバーを編成したり、ルートを検討し直したり、それが困難である場合は、ライ自身を自分の副官に据えて、共に戦場に赴くようになった。

 そういうことを何度か続けていれば、ライもマーラが自分の意見を聞き入れてくれる時と聞き入れない時の違いを鋭く察したようで、彼女が首を縦に振らない時は、黙って引き下がるようになった。お互いの判断を尊重し、信頼しているからこそ、衝突が減ったのだ。理由は明らかだった。


 今回、マーラはライのみを伴って、この山岳越えを決めた。


 目的地はもう一つ山を東に越えた、ズィーレンという街だ。目的は、ズィーレンにある大神殿に、今滞在中のイグリア聖教、大司教メンルーゲ・フィニスに会うことである。


 この大司教は、正式な所属は北のネスタ王国領との国境付近にあるミーダという街の神殿だが、予てより自ら宣教師となり、帝都国内、ある時は国外にまで出て、近隣の村や街で布教活動を行っていたのだが、ここ最近の、帝都の専横に不満を露わにしており、二年前、帝都アヴァロンの大聖堂で行われた大祭礼の最中、逃亡者が紛れ込んでいると式の最中に聖堂に軍が突入し、およそ百人ほどの逮捕者を出した事件に大激怒し、それ以来反勢力を支援し、帝都の不正を糺す為に、私は咆え続けると、各地を放浪しながら町々で演説をし回っているという異色の聖職者である。


 彼は『放浪司教』の異名で呼ばれ、今まで、帝都の兵や領主、役人の横暴に泣き寝入りをしていた人々を勇気づけて回っているため、人民には人気があった。四度ほど帝都の激しい追撃にあったようだが、その際に追撃部隊が大雨によって起きた土砂崩れに巻き込まれたり、待ち伏せていた山岳地帯で霧に包まれ、引き返すことを余儀なくされただとか、実際に見てないことには真偽のほども、程度も分からないが、ただし帝国の追撃を振り切ったことだけは真実として、天が彼を生かしていると、半ば噂になりつつある不思議な男だった。


 そのメンルーゲが、たまたま、ズィーレンの大神殿に滞在するという連絡を受けたのだった。


 マーラは立場上、勢力上、自由に歩き回るということがなかなか出来なくなっていた。不思議な逸話があり、民に広く支持されているこの司教には会ってみたいと思っていたが、機会があれば、としか望めなかった。

 それが、ようやく訪れたのである。

 丁度西への遠征から戻った日のことだった。アルグレンとジルクは遠征帰りで、主要戦闘員にも休息を取らせたかった。


 最近、レジスタンスは拠点を北のヴァルモン、西のワーレン、南西イオと三か所に増やしたので、各地に人員を随分割かれている。しかし安易な人員補填を嫌うマーラは、今までは自身が一手に引き受けていたメンバー勧誘を、その役目を託せるような人間を、欲しがるようになっていた。



「降られる前に街に着けそうだな」



 彼女の集中を妨げないように、この道中ずっとマーラの後ろにいたライは、麓まであと少しというこの距離になって、ようやく前に出て、彼のペースで進み始めた。彼のペースと言っても、出身の街では周辺域の警護なども受け取っていたらしく、戦闘と行軍に意外なほどこの若さで慣れているライの、本気のペースにはマーラは付いていけない。

 要するに、彼の望むペースということだ。

 彼はマーラの身体にこれ以上負担や危険が及ばない程度の足取りで、慎重に山道を下りて行く。

 長い間、さぞや後ろでマーラの足取りに冷や冷やしたり、声を掛けたかったのを我慢し続けていたのだろう、ライは気遣うことを許された空気を感じ取り、若干安堵したような顔で、そんな風にマーラを振り返って見上げて、声を掛けて来る。

 ようやく喋りかけられることを許されたという、明るい表情を浮かべた彼は少し幼く見えて、泥に汚れた顔は、マーラをさすがに微笑ませた。


 うん。


 マーラは頷いて、ライの歩く確かな足場を、付いていった。

 無事に三日で山を越えた。


 このリュドレッカ山岳地帯は、クレメンティンから東に広がる。古くは巡礼の道として手入れをされていたようだが、東のブリエール王国が栄えるにつれてイグリア聖教は彼らには敬遠されるようになり、帝都の大聖堂が完成すると、途端に東への巡礼街道は使う者も少なく、廃れて行ってしまったのだという。


 ただでさえ巡礼泣かせと言われていたこの厳しい山岳地帯はそれ以後、帝都とブリエール王国を固く隔てる天然の壁になってしまった。これより南にはこれまた深い大森林が広がり、そこも東への侵入地点ではあるのだが、そこは昔から住み着く山岳民族が縄張りとして、人の往来を厳しく制限している。

 また、大森林に向かう前にある帝都の砦も、最近は広がりを見せるレジスタンス活動に備え人員を増員しているとの知らせが入っているため、抜けるのは厄介だった。

 人員を割けない中、マーラが選んだのがリュドレッカ山岳越えである。

 今回西への遠征に赴かず、本拠地の留守を預かっていたライだけを伴って、彼女は出発を決めた。

 以前はライとマーラが組むと、良くない顔を隠しもしなかったアルグレンも、ある時からジルクの判断を仰ぎ、彼も頷くならばと少しずつ戦場で戦う男同士として、理解をし合ってくれているようだ。この二人の不仲はライがレジスタンスに参加した当初からマーラを悩ませていたのだが、さすがにどちらも有能な剣の使い手なだけあり、戦う姿を見れば自ずと察するところがあったのだろう。衝突は減って来ている。

 今回もライだけ伴ってズィーレンに向かうとアルグレンに言いに行った時は、考え直してほしいというようなことは言われなかった。彼はただ、マーラの目を真っ直ぐに見つめて、忠告はして来た。



『伴った以上は、ライをちゃんと頼ってください。マーラ。貴方は何かあればまず自分が矢面に立とうとする。それは、一人でいるのと変わりません。ライを護衛のために連れて行くならば、必ずあいつを側に置いて守ってもらうように。もし貴方に何かあって、あいつが単独で戻ってくるようなことがあれば、私がライを斬ります。いいですね』


 

   ◇   ◇   ◇



 街について、宿を取る。


 無駄な金を浪費したくないと、行軍中は男と同じ部屋に寝泊まりすることに躊躇いを見せないマーラに、最初ライはひどく驚いたようだった。

 初めて彼と小隊を率いて遠征に出た時、当たり前のように一緒に寝てもらうわよと部屋に入るよう促したマーラに、ライは強張った顔で「まさか他の男とも同じことをしてるのか」と言って来て、あまりに真剣な、心配そうでいて、それでいて怒ったような声で言うので、マーラは何か、不貞を働いた人間の様な気持ちにさせられて、思わず吹き出してしまった。


「ライ。レジスタンスのみんなは、私がこの解放活動に何故参加したのかは、よく知ってくれている」


 婚約者であるルカ・バルトラはマーラとは幼馴染みで同じ帝都貴族だったが、皇帝が地下神殿の封印を解き、禁呪で帝都各地や隣国を侵攻し始めた時、そのやり方を見逃せず、領外に逃れたいという人々を匿ったり、支援して、逃してやったりしていたのだ。


 名門貴族だった為、最後の最後まで追求の手は及んでなかったのだがついに密告され、捕まった。彼を慕う者は多かったので、帝都軍はわざわざ公開処刑を決め、近隣の街で彼を処刑し、それを止めようとする者達を、反逆罪で一網打尽にするつもりだったのである。

 マーラはそれを分かっていて、ルカ・バルトラを救おうとするレジスタンスと組んで、襲撃を行った。それでも救い出せず、彼は襲撃の混乱の最中、射殺されてしまった。


 ライはジルクからその話を聞いたらしい。


 レジスタンスの全ての者が、幸せになれる全ての可能性を捨てて、マーラがここに来たことを知っている。


「私と寝食を共にすることに疑問を持つひとなんか一人もいないし、寝食を共にして得したなどと考える人は一人もいないわ」


 マーラはそう言った。ライは、分かったとは言いながらも非常に複雑そうな顔をしていた。


 ライの出身地では、女剣士というのはとても珍しい存在だったという。

 彼は騎士の国シャンダール出身だ。シャンダールでは、男は必ず騎士に育て上げられるが、女は剣を持つことを許されていない。ありとあらゆる場面で、男と女は厳しく分けられる国柄のだという。

 ライは一番最初は故郷で剣を学んだらしいが。そこでも無論のこと、女性達は戦いの場からは遠ざけられていて、修行中は家に戻ることもないという。剣士としての生き方を厳しく諭され、教え込まれる中で、ライにとっては女性は「異性」ではなく「異質」な存在に思うようになっているのだと、マーラは気づき始めていた。

 彼は女性を平穏と結び付けて考えているから、共に戦う戦友などとは、今まで思ったことすらないのだろう。初めて会った時にライがマーラに向けた、戸惑いというよりは若干不審げにさえ思える視線の意味は、そこから来ている。悪気はなくとも、武器を持ち戦う女性が、ライは見たことが無かったのだ。


 女が戦っていること。女を戦わせること。


 しかもあのレジスタンスではマーラが指導者としてトップにいるため、ライは余計戸惑ったのだ。だが、戦えば普段言葉をただ交わしているより、信頼関係が固くなるのは当然のことである。戦う女がこの世には存在するということは理解したようだが、そうなると更なる悩みが生まれてきたらしい。


 後日、マーラはヤンゼから、ライが、ヤンゼとマーラの出会いからこれまでの戦歴から、今まで一度でも彼女を好きだと思ったことがあるのかと、全てを真剣に聞きたがっていたと報告を受け、笑ってしまった。勿論、ライは真剣なのが分かっていたが、彼の前でそれを笑ったことは一度も無いが、「誤解が無いようにしておいて」とヤンゼに苦笑して言うと、彼も少し笑っていた。

 そういうことを、ライはマーラに直接聞くこともあれば聞かないこともある。

 当初は何でもかんでも言い募って来ていた印象があるので、そういうことを、マーラの口から「一度くらいならある」などと言われる可能性に臆病になるくらいには、かつて「お前がこの世で一番嫌いな女だ」と言われたことも、和らいで来ているのだろうとマーラを微笑ませた。


 慣れないだろうけど、ここにいる限り慣れて。


 後日マーラがライに言うと、彼は難しそうな顔をしたものの、小さく頷いた。

 それから何度もこういうことはあったから、今では同じ部屋で寝泊まりしてもマーラが着替えるわ、と声を掛ければ他の男達がそうするように、その間は背を向けて、最初は、彼だけはいちいち律儀に気まずそうにしたり顔を赤らめたりしていたのだが、随分それも無くなった、と思う。

 ライが自分をようやく、自然な存在として受け入れ始めてくれるのだと思って、マーラは嬉しかった。彼とは深い仲になりたいわけではない。信頼し合える関係になりたいと彼女は望んでいる。



 部屋に入ると「まず着替えましょう」と声を掛けた。

 ライは旅慣れているので支度は早い。

 ただその日はマーラは武装していなかったので、着替えはライより簡単だった。すぐに濡れた服を脱ぎ、新しい服を纏うと、濡れた衣は暖炉の側の椅子に干しておく。それだけで終わった。

 ライはまず武器などを外したので、多少着替える時間は取った。

 彼が着替える間背を向けて見ていた窓に、雫が一滴落ちて来た。ガラス窓を伝い落ちる雫を目で追えば、丁度着替えるために着ていた服を脱いだ、ライの裸の背が映って見えた。


 いかにも誇り高き騎士の国シャンダールが誇る、長身で精悍な騎士という佇まいをいつも見せるライだが、服を脱ぐと、子供の頃から鍛えられてきたことが分かる体つきをしている。


 尤も、騎士団の規律が肌に合わなくて国を出て来たというから、彼は騎士と言うよりは戦士、という方が正しい。所々に騎士らしい所作や品も感じさせるが、ライの魅力はむしろ、騎士に徹していないところだとマーラは常々思っている。

 シャンダール王国を出たことも規律に従えなかったというより、この世界の混乱の中で、自国さえ守ればいいという道を選んだ国の方針に従えなかったのだと思う。

 彼は国に尽くすよりも、鍛え上げてきた力を、誰かを守るために使いたいのだ。



「降って来たわ」

 声を掛けると、ライがシャツの前のボタンを締めながら、振り返る。

 マーラはテーブルの上に地図を広げた。頬杖をつく。

「ここまで来ればあとは平地ね……。森は抜けるけど、馬は使える程度のもの。距離はまだあるけど、天候に恵まれれば二日でズィーレンにはつけるはず」

「そうだな。この距離なら、三日はかからないだろうな」

 ライもやって来て、側の椅子に腰掛けた。地図に視線を落としている。

 マーラは目の前に座った彼の顔を見た。顔を洗って泥をよけた顎の辺りに、少しだが切り傷が走っている。


「……ごめんなさい、ライ」


「ん?」

 彼女が何を謝ったのかと、ライは思ったらしい。

 顎の傷に気づき、苦笑する。

「なんだ。こんなのただのかすり傷だ。心配するな」

「傷のこともだけど、ロクな準備もなく飛び出して来て、その上全て貴方に負わせてしまって」

 マーラは溜息を付き、足元に立てかけていた自分の弓を持ち上げた。

「何故今日折れたかしら……」

 不満気な呟き。それはそうだろう。これは彼女がレジスタンス活動に身を投じた当初から、愛用していた弓だ。彼女は馬もそうだが、剣と弓も女性ながらにかなりのものを使う。特に弓の腕前は正直ライも舌を巻くほどだった。やはり並外れた集中力を持っているからなのだろう。こちらの声が届かないほどに集中した彼女が弓を引けば、外したところを見たことが無い。

 その彼女の弓が、山岳越えの最中、遭遇した、大したことのない魔物との戦いで、弓の方が折れてしまったのである。弦が切れることはよくあるので、対処が出来るようにしていたが、弓が折れてしまってはもう対処のしようもない。


 今回は他に随行の仲間もいないので剣も借りられず、山岳越えの負担を少しでも減らそうと長剣を置いて来たマーラは、手持ちの短剣一つしかない。これもあくまで護身用なので、襲われた時に身は守れるが、こちらから攻撃を仕掛けるために適した剣ではないのだ。

 そのような事情があって、それから二度ほど別の魔物と遭遇した時には、ライに全てを任せるしか彼女には出来なかった。

「気にするな。武器が壊れる時は壊れる時だ。剣なら研げるが、弓は弦を張り替えるくらいしか対処のしようがない。遠征からすぐに経って、弦が切れたなら君の武器の手入れ不足だと叱りたいところだが、弓が折れたなら君のせいじゃないだろ」

「……でもまだ先があるわ。それに、帰りもどうなるか分からないでしょう?」


 今回は本当に、この機会を逃したら、次にメンルーゲ・フィニスといつ会う機会があるか分からない、最悪もう二度とないかもしれないということもあって、とにかく勢いのまま出て来てしまった。


 ズィーレンは聖教会の支配が強い街なので、帝国軍と鉢合わせるという心配は低かったが、この道を再び戻るかと思うと憂鬱になる。考えとしては、メンルーゲと協調体制を取れるとまでは言わないが、とりあえず彼と友好的な関係は気づき、出来ればズィーレンから北方、ネスタ王国領に入って、北方から巡礼に紛れてクレメンティンへ戻りたいとマーラは考えている。

 だがそれも、よほど上手く行けばの話だ。ほとんど、どうにでもなれに近い心境で飛び出して来た彼女にしてみれば、旅の途中で自分がライのお荷物と化したことが、相当憂鬱な話なのである。


「俺だってこの剣が明日折れたら途方に暮れる。気持ちは分かる。けど、言ってても仕方ない」


 ライは自分の腰に下げた剣を取り出し、鞘を少しだけ抜いて刃を確かめた。

 ランプの光だけの淡い明かりでも、刃に向き合った彼の顔が照らし出されたのが分かった。

「見てもいい?」

 マーラがライの剣を目で示した。

「この剣か?」

「ええ」

「……いいよ」

 ライは鞘を納め、剣をマーラに手渡した。


 彼は何でもないように彼女に手渡したが、

 実はこの時、ライがシャンダール王国騎士団でこの剣を与えられてから、鍛冶屋などで研いでもらう為に職人に預けたことはあるものの、こうした平時に一瞬だろうが少しだろうが、他人の手に触れさせたことは一度もないという事情があり、他人が同じ願いを言ったら「悪いが断る」の一言でいつもは返すその要望を、マーラの願いを断りたくないという一瞬の判断でライが許した貴重な機会だったということを、マーラはもっと後に彼から聞かされて知ることになるのだが、今の彼女はそれを知る由もなかった。


 ライが手渡してくれた剣を手にし、その初めて感じる手ごたえが、彼女の予想していたものと多少異なったらしく、碧の瞳が明るく輝いたのをライは見逃さなかった。

 マーラは女性なのに、武器や馬が好きだ。彼女のそういうものを見る目は確かで、ライは一番最初に彼女のその資質に気付いた時、非常に驚いた。

 よく手入れをされた武器や、走る馬、切れる刃、それが分かるのである。貴族だからといってそういう目を持たない者はたくさんいる。やはり特別な才覚を持った女性なのだと思う。

 そういうものに出会った時、いつも聡明な彼女の瞳が子供のように輝くのが、ライは好きだった。


 マーラをよく知っているヤンゼの話では、マーラの家は帝都アヴァロンでも非常に名門の貴族で、一族は軍務大臣や将軍職などを数多く輩出して来た武門らしい。彼女が女ながらに戦術などにも長けているのは、その体に流れる血が所以なのだ。

 しかし、一族がアヴァロンにおいて軍部に名高い家系ならば、今の帝都軍にも身内がいるのではないかと思うのだが、そのあたりのことはヤンゼも「まあ古い血筋だから一人や二人はいるだろうな」とだけしか答えなかった。

 その様子から、もしかしたらかなりの近親者が今の軍部にもいるのかもしれない。


 だが、マーラは家との繋がりを完全に断っている。


 彼女が口に出す近親者と言えば、結婚間近であったという婚約者ルカ・バルトラだけなのだ。  


 まだ正式に結婚はしていなかったが、婚約者としてバルトラ家にはよくマーラは出入りしていたらしい。

 ヤンゼはルカ・バルトラの友人なのだ。だからマーラのこともよく知っている。

 しかし、彼すら「マーラがまさかこれほど剣や弓を使うとは知らなかった」と苦笑していたため、マーラは帝都にいる時は、武芸に関することはあまり公にはしていなかったようだ。


 子供の頃から、こういったものが好きだったのかな、と思うのだが、そうではないのだろうか? 彼女のことをもっと知りたいと思いつつ、ルカ・バルトラの死や、彼女が帝都貴族だという背景から、あれこれ詮索されるのは嫌かもしれないと考え、何となくライは聞かないままになってしまっている。

 だが、それでいいのかもしれないとも思うのだ。


「予想してたより重かった」


 何故か彼女は嬉しそうに言うと、静かに少しだけ鞘を抜いた。

「貴方軽々とこれを操るから、もっと軽いのかと思ってたわ」

 刀身の半ばほどまでが覗くと、本当に鏡の様な刀身だ。

「本当に綺麗ね」

 マーラの誉め言葉にライの表情は綻んだ。

「うん」

 自慢げに頷いた青年に、マーラも目を細める。


 ライに会ってからまだ半年ほどしか経っていないが、彼は自分の剣をとても大切にしている。 

 どんなに疲れ果てようが、旅の途中だろうが、ライは剣を抜いたその日に剣の手入れをしなかったことは一度もない。


 彼の故郷は『国という騎士団』と呼ばれるシャンダール王国だ。


 そこの出身の男子は生まれながらの騎士なのだという。

 少年時代から騎士団に所属し、成人すれば正騎士となる。

 騎士は自分の武具の手入れを怠るなと骨の髄まで叩き込まれているので、彼はいつも眠りにつく前に武器の確認をしていて、寝台にまで剣を持ち込んだ。

 いつも手の届く場所に置き、汚れが残る隙すら与えられないライの剣は本当に美しい。

「そういえば、初めて会った時も貴方ちゃんと剣を研いでいたものね。すごい混乱の中だったのに」

「もう癖みたいなものだからな。寝る前に研がないと、どうも落ち着かない」

 マーラは鞘をゆっくり納めると、礼を言って彼の手に剣を返した。

 やはり手慣れた様子で受け取ったライを、少し微笑ましげに見つめていたのだが、そのうちに彼女はまた表情を曇らせた。


「……やっぱり新しい弓、買おうかしら。長剣でもいいけど……」


 ライは眉を顰める。

「気持ちは分かるけど、遠征の途中で武器を変えるのはあんまり良くないぞ。手元が狂って徒に危険を招くかもしれない。武器はある程度、ちゃんと手に馴染んでから……」

「それは私も分かってるけど……このまま貴方だけに戦わせてズィーレンに行くっていうのも気が引けるし」


「何言ってんだ。俺は護衛の為に来たんだから、当たり前だろ。言っておくけど、普通はリーダーが単独で飛び出して自ら先頭で剣を振るったりはしないものなんだぞ。どうもお前はその辺りが逆さまの認識になってるように思うんだが、いくら人材不足のレジスタンスとはいえ、それが当たり前みたいにはなるなよ。初めて会った時だって、そうだっただろ。あの時は非戦闘員が多かったから仕方ないけど、俺は戦えるんだから、頼むからこの旅の間くらい俺の後ろにいてくれ。この先は強い魔物が出るって情報も特にないし、どうせ目的地は神殿だろ? だったら無駄な武器は持ってない方がいいんじゃないのか」


 諭されたが、マーラはまだ釈然としない表情で自分の折れた弓を見ている。

 彼女の、まず守ってもらおうとしない所は非常に立派だとライも思っているが、少しも守ってもらおうとしてくれないのも、それはそれで問題である。剣も弓も馬も、マーラは女とは思えないほどに使う。並の男よりずっと強いから、実際大抵のことは一人でやってのけてしまうのだ。

 最初の頃は私は手を貸してもらわなくても一人で出来ると突っぱねるマーラと、女を矢面に立たせてるとこっちが集中出来ないんだよ! と苛々するライとで、しょっちゅう喧嘩をしてばかりいた。

 さすがにお互いを知ってきて、強情で殴り合うのはやめたが、やはりマーラは自分がただ何もせず守られる存在になるのが相当苦手らしい。


 彼女が恨めしそうな目を止めないので、ライは彼女の手から弓を取り上げた。


「今回は戦うのが目的じゃないんだろ、マーラ。だったら君は護身用の短剣だけで十分だ」

 弓を取り上げられ手持ち無沙汰になったマーラが、唇を引き結んでため息をつく。

「こういう時魔法が使えたら、本当に便利ね。丸腰でも、少しは戦えるもの」

「……まぁそれはそうだが」


「……やっぱりこの制御ピアス外そうかしら……」


 今度こそ、ライは眉を深く寄せた。

「ヤンゼから聞いてるぞ。君、以前一度外したことがあるんだろ。でも身体が受け付けなかったから封印し直したって」

「受け付けなかったっていうか……扱えなかったっていうか、ずっと頭痛が止まらなくて。寝込んでる場合じゃない時だったから、すぐまた制御ピアスで封印したの」

 ライは頬杖をついて首を傾けた。

「俺も聞いたことがあるな。中には魔力が強くてもそれを使うことが出来ない人間もいるって」

「でもライだって魔力があって、便利だって思うこと多いでしょ」

「それは……助かることはあるが」

「でしょ。なら、私にだってあった方がいいってことよね」

 ライは自分の言葉の運びを失敗したことに気づいた。

「要はあんまり使わなければいいわけでしょ?」

「いや、魔法のことは俺にはあんまり聞かないでくれ。俺のとこは国で小さい頃から魔力や魔法の使い方を教育してくれるから、人任せでここまで来たんだよ。シャンダールが教え込む魔法は癒やしの魔法と、魔力を魔法剣に帯びさせて威力を増すとか、そんな使い方だけだ。魔法使いってわけじゃない」

 何となく誤魔化したつもりだったのだが、上手く行かなかったようだ。マーラは窓の外を見た。


「――確かここに来るまでの通りに教会があったわよね?」


「おい、本気か?」

「だって丸腰って本当に落ち着かないんだもの。ちょっと話し聞いて来るわ。ついでに、酒場か食堂かでズィーレンの話も聞いて来る。いざついて大司教メンルーゲはもう去った後でしたなんて目も当てられないもの。この街になら彼の噂も届いてるかもしれない」

 マーラは椅子に掛けていた上着を羽織った。ライは彼女の身支度を見ながら、頬杖に不満気な顔を乗せている。

「……俺を置いていく気か?」

 怒ったことが分かる低い声に、彼女は碧の瞳を瞬かせた。

「でもすぐそこだったから」

「すぐそこだったからなんだ! なんですぐ一人でうろつこうとする!」

「ごめん。そんなに怒ると思わなくて……」

 マーラが目をぱちぱちさせて返した。彼女がすぐに謝ったので、ライは深い溜息を付いた。


「頼むから、旅の間くらい、俺の手の届くところに、ずっといてくれ」


 ふふ。

 彼女の笑い声がして、ライは額を押さえた。

「あんまり怒らせるなよ。俺だけ必死で馬鹿みたいだろ……」

「分かったわ。ごめんなさいライ。疲れてるの承知だけど、ちょっとだけ付き合って」

「確かに君は、魔法使えるようにしてくれておいてくれた方がいいかもな。なんかあった時に持っててくれた方が、すぐにどこにいるか分かりそうだ……」

「でしょう?」

「喜ぶな!」

 手の平を打ち付けて嬉しそうに頷いたマーラに、ライは立ちあがって抗議した。


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