ずり落ちてきた赤縁のメガネを人差し指で押し上げる。

指先が微かに震えているのがわかった。

​深夜11時を回った警視庁通信指令本部。

巨大なモニター群が放つ青白い光だけが、薄暗い室内を無機質に照らしている。

空調の低い唸り音に混じって断続的に響く着信の電子音――『ピピピ……』というその音が、張り詰めた神経をヤスリで削るように逆撫でしていく。

​胃の奥底には、溶けない氷がへばりついているような不快感があった。

重圧だ。

人の命を左右しかねないこのヘッドセットの重さ。

それが僕、宇野健太の肩にのしかかっていた。

​警察学校を卒業してから地域課・交通課・留置管理課・警備部と、様々な部署を転々としてきた。

でも、今の自分はどうだろう。

この指令第3係に配属されて3ヶ月。

業務の段取りには慣れたつもりだけど、夜勤特有の押し潰されそうな閉塞感には未だに順応できないでいる。

​（……この仕事、本当に僕に向いているのかな）

ふと、弱気な思考がひょっこりと顔を出す。

交通課で事故処理をしていた時は、少なくとも目の前にある『事態』に対処しているという実感があった。

地域課で迷子を保護した時、迎えに来た親御さんが流した安堵の涙と『ありがとう』という温かい言葉。

それを僕は、今でも鮮明に覚えている。

​それに比べて、ここはどうなんだ。

この3ヶ月の間に僕の鼓膜を震わせたのは、やるせない焦燥感とか理不尽な怒号ばかりだった。

​『飼い犬が3日前から元気がないんです、どうしたらいいでしょう？』

真夜中に、震える声で相談してきた女性。

彼女の不安は痛いほど伝わってきたけど、僕にできるのは獣医への相談を促すことだけだった。

無力感が喉元までせり上がって、吐き気を催したのを覚えている。

​『通販の商品が届かない！　これじゃ予定が狂うだろ、警察ならなんとかしろよ！』

受話器越しに怒鳴り散らす男性。

彼の剣幕に気圧されながらも、

「通販会社にお問い合わせください」

そう一般的な回答を繰り返すしかなかった。

自分の声がひどく空虚に響いて、言葉が指令室の壁に吸い込まれて消えていくような感覚に陥った。

​人の役に立ちたくて警察官になったはずなのに、今の僕はただの『電話番』に過ぎないんじゃないか。

そんな自問自答が、深夜の思考を黒く塗りつぶしていく。

​「――大丈夫？」

不意に、柔らかな声が掛かった。

びくりと肩を跳ねさせながら振り返ると、隣の席の佐藤さんが心配そうに僕を覗き込んでいた。

ベテランオペレーターである彼女は、どんな修羅場でも穏やかな笑顔を絶やさない。

その目元にあるホクロが、微笑むたびに優しく動く。

この殺伐とした指令室における、僕の唯一の救いだった。

​「宇野くん、顔色が悪いわよ。今日も大変そうね」

「あ、いえ……すみません、ちょっと考え事をしていて」

「真面目ね、でも宇野くんなら大丈夫よ。私が保証する」

​佐藤さんはそう言って、小さくウィンクしてみせた。

その何気ない仕草に、冷え切っていた胃の奥に小さな火が灯るような感覚を覚える。

強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのがわかった。

​「ありがとうございます、佐藤さん」

​僕はできるだけ自然に笑みを返した。

ああ、やっぱりこの人は僕の天使だ。

そう心の中で呟いて、前を向き直った。

​　――その時だった。

　午後11時15分。

空気を切り裂くような鋭い着信音が、一瞬の安らぎを粉々に打ち砕いた。

​僕は反射的に背筋を伸ばして、応答ボタンを押す。

佐藤さんの言葉を反芻して、深く息を吸い込む。

プロとして、冷静に。

​「こちら110番、警察です。事件ですか？　事故ですか？」

​　予想よりも落ち着いた声が出た。

　でも、返ってきたのは予想外の『冷静さ』だった。

​「……事件です」

​　受話器の向こうから聞こえてきたのは、驚くほど穏やかな、若い男性の声だった。

　焦りも恐怖も、興奮もない。

まるで明日の天気でも尋ねるような、平坦なトーン。

そのあまりの温度のなさに、背筋に冷たいものが走る。

緊急通報にしては、妙に落ち着いている。

​「須田と申します」

​男は淡々と名乗った。

僕は震えそうになる指先を叱咤して、キーボードを叩いて通報者の情報を入力し始めた。

指先が、理由もなく冷たい。

​「須田さん、詳しい状況を教えてください」

​努めて冷静に尋ねる。

須田さんと名乗った男性は、抑揚のない声で答えた。

​「場所は麹町区霞見町の旧七條商事ビルです」

​なぜだろう、その声にはおよそ人間らしい感情がすっぽりと抜け落ちているように感じた。

まるで精巧に作られた人工知能と話しているような、得体の知れない不気味さ。

無意識に唾を飲み込む。

喉が渇いて張り付くようだ。

​その時、受話器の奥から微かな物音が聞こえた。

何かが倒れるような、鈍く重い音。

そして、苦しげな呻き声のようなノイズ。

眉間に力が入った。

耳を澄ませる。

​「須田さん、そちらで何が……」

「パトカーは何分くらいで来られますか？」

​こちらの質問を遮るように、須田さんが問いかけてきた。

その声は依然として、氷のように冷徹だ。

​「じゅ、10分から20分くらいだと思います。ただ今夜は市内で複数の事件が発生しており、到着が遅れる可能性も……」

​時間を気にしている？

言い訳がましい説明をしながら、嫌な予感が膨れ上がる。

​「わかりました」

​須田の声色が、僅かに変わった。

期待？

それとも、興奮？

その微細な変化に気づいた瞬間、僕の心臓が早鐘を打ち始めた。

​「今から目の前の男を殺しますので、急いであげたほうがいいですよ」

​――え？

言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。

ぞわりと、全身の毛穴が開くような感覚。

​その直後。

電話の向こうから、男の絶叫が響いた。

何かを乞うような、悲痛な叫び。

でもそれを、すぐにドスッという鈍く湿った打撃音が遮った。

空気が抜けるような、掠れた断末魔へと変わる。

直後、ふっと静寂が戻った。

​「待ってください！　何を……！」

​思わず叫んだ。

しかしその声が届くよりも早く通話は途切れて、受話器からは無機質な切断音だけが虚しく響いた。

​ツーツーツー……。

まるで世界から音が消えたみたいだった。

自分の心臓の音だけがうるさいほど耳元で鳴っている。

数秒か、数分か。

凍りついた時間が溶けた瞬間、僕はヘッドセットをむしり取るように外して立ち上がった。

​「……だ、誰か！」

​僕は弾かれたように立ち上がった。

椅子が派手な音を立てて倒れる。

耳の奥で、男の断末魔と切断音が反響して止まない。

​「誰か！　助けて！」

​

​叫び声が通信指令室に響き渡った。

周囲の同僚たちが一斉にこっちを向いて、慌ただしく動き出す気配がする。

でもその喧騒はまるで水底にいるかのように遠くて、現実感がなかった。

​ただ震える指先だけが、恐ろしいほどの鮮明さで『死』の感触を覚えていた。

​「宇野くん！　落ち着いて！　何があったの！？」

​佐藤さんが駆け寄って、僕の肩を強く掴んだ。

その指の食い込む痛みが、辛うじて僕を現実に繋ぎ止める。

僕は酸欠の金魚のように口をパクパクさせながら、必死に言葉を紡いだ。

殺人予告。

断末魔。犯人の名前。

佐藤さんは青ざめた顔で頷き、すぐに指令台へと叫んだ。

​「麹町区霞見町、旧七條商事ビル！　至急、パトカーを！」

彼女の表情から微笑みは消えて、熟練した警察官の鋭い眼差しに変わっていた。

その切り替えの速さに、僕は恐怖すら覚えた。

​そこからの記憶は、酷く曖昧だ。

怒号のような指示に無線飛び交うノイズ、誰かの舌打ち。

約30分後。

現場に急行したパトカーから、無情な第一報が入った。

​『――マル害、一名発見。意識なし、救急搬送するも心肺停止状態』

​最悪の報告だった。

土曜の深夜。

酔客のトラブルや主要道路での大規模事故が重なって、パトカーの到着は致命的に遅れたという。

被害者は久留島秀一さん。

搬送先の病院で、死亡が確認された。

そして、通報者であり犯人を名乗った『須田』の姿は現場にはなかった。

​僕は報告を聞きながら、指一本動かせないほどの脱力感に支配されていた。

自分の無力さが、鉛のように重くのしかかる。

​（あの時、もっと何かできたんじゃないか？）

（なんでもっと早く異変に気づけなかった？）

（どうして、時間を稼げなかった？）

​『プロとして』なんて気取って、僕はただ犯人の実況を聞いていただけじゃないか。

後悔が棘になって心臓に突き刺さり、呼吸をするたびに肺を切り裂くようだ。

​「宇野くん……」

​佐藤さんが心配そうに声をかけてくれたけど、顔を上げる気力もなかった。

彼女の優しさすら、今の僕には眩しすぎて痛い。

​「宇野君、今日はもうあがってくれ」

​通信指令官が、重々しく告げた。

「しばらく休暇を取るといい……君のせいじゃない」

​上司の言葉は温かかったが、それが逆に『もうお前はここにいなくていい』という宣告のようにも聞こえた。

僕は機械のように頷いて、逃げるように席を立った。

​本部を出ると、夜風が生温かく肌にまとわりついた。

足が重い。

一歩進むごとに、受話器越しに聞いたあの『鈍い打撃音』と『断末魔』が足枷のように絡みついてくる。

​『急いであげたほうがいいですよ』

​須田のあの言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れない。

あいつは楽しんでいたのか？

それとも、本当にただの事務連絡のつもりだったのか？

わからない。

何もわからないまま、1人の人間が死んだ。

​「宇野くん、待って！」

​背後から佐藤さんの声がした。

けれど、僕は振り返らなかった。

振り返れば、きっと崩れ落ちてしまう。

今の僕には、彼女の聖母のような笑顔を見る資格なんてない。

​「すみません……」

​蚊の鳴くような声でそれだけを絞り出して、僕は闇の中へと歩き出した。

早くここから消え去りたい。

その一心だった。

​翌日。

須田が自首したという速報が流れた。

その男の顔には、貼り付けたような薄ら笑いが浮かんでいたという。