第7話:ずれた世界
目が覚めた。
電車の揺れ。ブレーキの軋む音。
朝の光が、車窓からじわじわと差し込んでいる。
……ん。体が重い。違和感……いや、これは……
キュロットのすそを整える。カーディガンの袖を引き寄せるように軽く伸びをした。
自然な動きだった。頭で考えるより先に、身体が動いていた。
ふと気づく。斜め前の席に座るサラリーマン風の中年男性が、こちらをちらちらと見ていた。
(……見られてる?)
不快ではない。けれど、どこかくすぐったいような、こそばゆい感覚が喉奥に残った。
男は次の駅で降りていった。
車内に静寂が戻る。
(ナナカは……いない)
何度も左右を確認する。車両のどこにも、あの女の姿はなかった。
『それじゃあ――今日の“提案”をするわ』
ついさっき、確かにそう言われた。だが、その結末を思い出せない。
ただひとつだけ、はっきりしているのは――
(……まだ、ワタシは……オンナのままだ)
指先を見つめる。ピンク色のネイルが控えめに光を反射する。
タイツ越しに伝わる太ももの感触。胸の重み。
そして、膝にかかるカーディガンの袖。
(……オトコにはなってない。ということは、今日も“勝った”のかな……?)
自然な結論。
けれど、それ以上深く考えようとすると、意識が滑っていく。
脳が霧に包まれ、そこから先へ進もうとしない。
スマホを開く。
萌えパズルゲーム。いつも通り、イベント限定のキャラが表示されている。
ログインボーナスも揃っている。
けれど。
(――なんか、楽しくない)
色とりどりのピースを消しても、脳が乾いた音しかしない。
絵も声も、遠く感じる。
通知が入る。
[カレン]『今日バイト終わったらまた行こうよー』
[ミホ]『メイク道具また貸してー!』
(――友達、か)
指が自然に動く。
言葉を返す。
絵文字をつけて、少し冗談も混ぜて。
やり取りのリズムに、自然と口元がゆるんでいく。
(楽しい……かも)
そんなふうに思い始めたころだった。
「おはよう、ユウナちゃん」
隣に、人の気配。
顔を上げると、隣の窓際の席に、カズキが座っていた。
髪型はいつも通りだ。
けれど、視線の向け方が違う。
まるで、ワタシのすべてを肯定するような、やわらかな眼差し。
(ユウナ、ちゃん……?)
その名前。
その呼び方。
知っているのに、どこか異質で、ひっかかる。
「――おはよう」
口が自然に動く。
挨拶を返してしまう。
返すのが“当然”だった。
まるで、長年そうしてきたかのように。
(あれ……ワタシ、こんなふうに、誰かと話してたっけ)
自分の声。
そのトーンまでもが、知らぬうちに変わっていた。
高くて、やさしくて、角が丸い。
カズキ――彼は微笑んだ。
「今日も可愛いね」
褒め言葉。
なのに、胸の奥が、妙に熱くなる。
顔が火照る。
視線を逸らしたくなるのに、逸らせない。
(違う……ワタシは……)
心のどこかで、まだ“誰か”が反発している。
でも、その声はか細くて、霞の中に沈みかけていた。
“ワタシ”の感情が、それを静かに、でも確かに押し流していく。
葛藤の声は、かき消されていく。
電車の揺れとともに、記憶の底へ。
――ナナカは言った。
『また明日。最後の提案をしましょうね』
それが、どういう意味だったのか。
その答えもまた、彼女が現れるときに明かされる。
次の駅の到着を告げるアナウンスが、ゆっくりと近づいていた。
(つづく)
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