第5話:タカネの爪痕

――朝の教室。まだチャイムの鳴る前。

席に着いたタカトの耳に、雑然とした女子たちの笑い声が届く。


「だってさ、見た? 昨日のあれ」

「聞いた? また一人で図書室にいたんだって。しかも、ずっと何もしてなかったらしいよ」

「わざとらしくない? あれで気づかれないつもりなのかな」


聞こえてくるのは、セイの話だ。

笑い声に含まれる悪意は、刃物のように冷たく尖っている。


(……またか)


タカトは眉をひそめ、声の主のほうに視線を投げた。

すると――

その中の一人。黒髪の女子生徒が、ふとこちらを見た。


その目に、一瞬、覚えのある光を感じた。

(屋上の……あの“女”)


ドキリとした。

短く刈りそろえられた髪。鋭い視線。風に揺れたスカートの影――記憶の断片がフラッシュのように蘇る。


だが、それはすぐに否定された。

目の前の彼女は、見た目こそ似ていたが、明らかに別人だった。

髪の色も、長さも違う。声の質も、話し方も違う。


(……見間違い、か)


自分で自分に言い聞かせながら、タカトは前へ向き直った。

セイは、今日も登校していた。

何食わぬ顔で、静かにノートを開いている。

けれど、どこか無理をしているような気配があった。


(……あいつ、気づいてるのか?)


誰が何を言っているのか。どれだけ笑われているのか。

そのすべてに、気づいた上で平静を装っているのだとしたら――


「……。」


タカトは机の下で拳を握った。

セイとは言葉を交わしていない。けれど、それでも、何かが少しずつ違ってきているのを、感じていた。


チャイムが鳴った。

朝のざわめきが、急速に静寂へと切り替わっていく。


だがタカトの耳には、まだあの嘲るような笑い声が、どこか遠くで木霊していた。



1時間目。セイはいつものようにノートを取り、先生の質問にも答えていた。

だが、何かが違う。無理に平静を装っている、作られた笑顔。それに気づいたのは、たぶん教室でタカトだけだった。


(なんで、俺……こいつの顔が“嘘だ”ってわかる?)


頭の奥がじんじんと痛む。指先がかすかに震え、ペンがノートを掠めた瞬間――

タカネは動いた。



――昼休み。


「セイくん、ちょっと来てよ」


そう声をかけたのは、数人の女子たち。彼女たちは笑顔で彼を囲み、強引に廊下の奥へと連れていった。

気づいたときには、タカトの足が勝手に動いていた。追いかけるつもりなんてなかったのに、気がつけば階段を駆け上がっていた。


(待て……なんで、俺……!)


けれど、そのとき彼の耳に届いたのは、明らかに“誰か”の声だった。


『見せてあげなきゃ、ね。“セイ”の情けないとこ』



――旧校舎の空き教室。

セイは、半ば囲まれる形で立たされていた。


「ねぇ、セイくん。アンタ、二股してたんでしょ?」

「この前泣いてた子、誰? 優しいフリして最低じゃん」

「証拠あるんだよー、見せてあげようか?」


スマホの画面がちらつく。だが、それは加工された偽のチャット履歴。セイの知らない会話が、彼の名前で記されている。


「違う、俺は……」


その声は掠れ、説得力を欠いていた。

扉の陰から見ていたタカトの手が、かすかに震える。


(――やめろ。こんなの、止めないと)


でも、足が動かない。視界の端に、スカートを履いた“自分”が立っているのが見える。赤い口紅、整えられた黒髪。

“彼女”は、微笑んでいた。


『あれがアイツの“本性”でしょ? 見てて気持ちいいよね、タカトくん』

「――タカネ」


名前が、口からこぼれ落ちた。気づけば、そう呼んでいた。

“彼女”は笑った。


『アタシのこと、思い出してくれて嬉しいよ』



――放課後。

セイは何事もなかったように帰っていった。けれど、その背中は重く、歩幅も小さい。

タカトは、その背を追わなかった。


代わりに――

鏡の前に立っていた。


制服の上着を脱ぎ、シャツをまくり、首筋についた「赤いキズ」に触れる。まるで唇で触れられたような痕。そこから熱がじわじわと這いのぼる。


「これも、“アタシ”の……?」


唇が、勝手に微笑んだ。



その夜、ナナカは書斎で本を閉じた。

ペンダントは、強く脈打つように赤く光っている。


「セイくんを囲む“壁”は、順調にできつつある。さて、タカト……アナタはそろそろ、“タカネ”としての自覚を持つ頃かしら?」


彼女の目はどこまでも冷たく、甘い。


「“正義の味方”ごっこは終わり。これからは、アナタが“セイ”を苦しめる番よ」


(つづく)

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