第7話:侵食

――放課後。

校門の外へと足を踏み出し、イツミは小さく息を吐いた。

リョクと過ごした時間が、すでに夢の中の出来事みたいに感じられた。

制服のスカートが風に揺れ、足元の白い膝が視界に入るたび、どこか現実感が薄れていく。


(リョク……なぜ、あの時も、今も……何も言わないの)


自分の行動に殺意があったことは、本人が一番よく知っている。訓練とは思えないほどに手加減がなかった。あの一撃は、ほんの少し軌道を変えれば、首を貫いていたかもしれない。


けれど――リョクは笑っていた。

いつものように、ただの友人のように。


(気付いてた。絶対に、気付いてた)


それなのに彼は、目をそらした。

まるで、自分の中にある“何か”に、手を触れようとしないように。


(どうして……私に、“触れよう”としないの……?)


そんな苛立ちを感じながら、自宅アパートの前にたどり着いたイツミは、扉を開けた。

そこには――ナナカがいた。


「おかえりなさい、イツミちゃん」


その声に、体が反応する。

無意識に、深く、深く息を吸い込んでいた。まるで、彼女の存在を“身体ごと”受け入れるように。


「どうだった? リョク君との演習」


ナナカの声は柔らかく、甘やかすような響きを帯びていた。


「――普通だった」


イツミは短く返す。


「何も言わなかったの。私が、何をしようとしたかも。何を持っていたかも。リョクは、全部気付いてたのに、何も言わなかった」

「ふふ、それで混乱しちゃった?」


ナナカは微笑んで近づくと、イツミの髪を撫でた。

その指先が触れるたび、思考の輪郭が揺らいでいく。


「大丈夫よ。アナタは少しずつ、目的のために動いてる。ちゃんと、自分の意志で」

「“自分の意志”で……」


イツミは、その言葉を繰り返す。


“自分の意志”で、リョクに近づいている。

“自分の意志”で、彼に笑いかけ、“信頼”を演じている。

でも、本当に――これは、自分のものなのだろうか。


その時、ナナカが静かに囁いた。


「アナタは、リョク君を“救いたい”と思ってる。そうでしょう?」

「――え?」

HYPヒプにとって、彼はとても貴重な存在。でも、今のままじゃ……彼は、ただの兵器になっちゃうわ。だから、アナタの手で彼を“眠らせて”あげるの。そうすれば、彼は……永遠に傷つかなくて済む」


イツミの視界が、ほんの一瞬だけ、歪んだ。


(眠らせる……リョクを、“守る”ために)


なぜそんな発想が出てくるのか、わからない。

でもその言葉は、不思議と心地よく、どこか納得できてしまう。


「リョクは、優しい人だから。だから、アナタが守ってあげなきゃ。ね?」


ナナカは、イツミの背中に手を添えて、そっと耳元で囁く。


「――彼に近づいて。もっと自然に。もっと深く」


その言葉は、魔法のようだった。



――翌朝の教室。

イツミは、無言で席についた。

教室にはまだ誰もおらず、静寂が支配していた。


数分後、教室のドアが開き、リョクが入ってくる。


「おはよ」


その声に、反応したのは“イツル”ではなく、“イツミ”だった。

ゆっくりと顔を上げると、少しだけ微笑んでみせた。


「――おはよう、リョク」


そう。これは“自然なこと”。


この微笑みも。

この言葉も。

この距離感も。


すべては、“リョクを守る”ため。

それが、ナナカの言っていたこと。


(でも……)


机の中に忍ばせた小さなケースの中には、昨日と同じ毒針があった。


(どうして、これが“必要”なんだろう)


疑念は確かにある。

だけど、それを深く考える前に、意識が“別の考え”で上書きされていく。


「今日はさ、部活もないし、久しぶりにさ……放課後、どっか寄ってかない?」


リョクのその問いかけに、イツミは――自然にうなずいた。


「――うん。いいよ」


すべては、彼を“守る”ため。

彼が気付かないまま、静かに眠らせるため。


その微笑みの裏で、ナナカの声が、確かに囁いていた。


(つづく)

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