神様、なぜ人は苦しむの?
祥一
1 出会い
神様、どうして人間は苦しむのですか。そう天に向かって問いかけたくなることは、誰にでもあるだろう。もちろん、僕もだった。
僕は心を病んでいる。回避性パーソナリティ障害という。過去を思い出してみるに、どうやら十三歳の時、発症したらしい。同じクラスの男子生徒たちにいじめを受けたことによる。
その後なにも知らないまま、二十九年間もがきながら生きてきた。なぜこんなにも生きるのが難しいか、教えてくれる人はいなかった。たまたまユーチューブのサムネイルに、「回避性パーソナリティ障害」という言葉が出てきて、自分に関係のあるワードに違いないと感じ、調べているうち確信し、精神科病院で診察を受け、確定した。これを書いている現在、四十三歳。
ひどい。僕の人生はなんだったのか、完全に無駄だったじゃないか、そう思うこともよくあった。
ただし、違うよ、と言ってくださる方がいる。僕は今、おおむねそれを肯定している。
宗教の話をしよう。この文章の目的は主にそういうことなのだ。
もともと僕は、例の病気によってしょっちゅう死にたがっていた。否、死ぬ以外に救われる道をなかなか見いだせなかった。
十代のころなど、本当にひどいものだった。学校をサボって飛び降りにちょうどよさそうなショッピングモールへ出かけていき、上の方の階の立体駐車場から、地面を眺めたりしていた。
けれど違う。死にたかったのではなく、死ぬしか解決法が見つからなかったに過ぎない。苦しみから解放されるのであれば、喜んで生きることを選んだだろう。
それに、回避性パーソナリティ障害というのは、なんでもかんでも回避してしまう病なのだ。死ぬという重大事項をそうやすやすと選択できない。つまりは八方ふさがりだった。
仕方ないので、一階の書店で暇をつぶした。なんか面白そうな本はないかと。
文庫本の棚に、「生きるヒント」というタイトルがあった。作者は五木寛之。上等じゃないか。そんなものがあるのなら、ぜひ教えてほしい。全五巻、みんな買ったよ。死ぬより散財の方がマシに思えて。
これが宗教の話だったので驚いた。確かオウム真理教による地下鉄サリン事件のあとだったので、そういうのに多少の偏見はあったから。でも救ってくれるのなら、手段は選ばない。
作者の五木さんはベストセラー作家なのに、五十歳近くから龍谷大学に入り直し、仏教を学びだした変わった人だ。
まあ、面白い本ではあったと思う。少なくとも、死ぬか生きるか、はっきりさせるのは全部読み終わってからでいい、そんな気持ちにはさせられた。
で、救われた、などという単純な話ではない。正直、別に、だった。人間性に大きな変化は現れてない。少なくとも、自殺願望はそのまま維持された。
ただそれが僕の宗教へのファーストコンタクトだったことは事実だ。
おおやけには仏教徒と名乗っていいかな、くらいの感じにはなった。
一応、僕の家は母方が浄土真宗、父方はよくわからないけど禅宗のうちのどれからしい。父方は新潟で、僕の居住は京都府。遠いのでそちらの葬式は祖父母ともに出られず、確かめる機会がまだ得られていない。母方のはちゃんと出て、お坊さんの法話っていうのかな、それで親鸞聖人の話を聞いた。
それ以来ってわけではないけど、僕は親鸞さんのファンだ。例の五木寛之による彼の長い伝記小説も読み、けっこう感銘を受けた。ついでに僕はユーチューブで『歎異抄』を自ら朗読したことさえある(もうBANされちゃったよ、ちょっと事情があって)ので、彼の思想はわりと頭に入っている。
さらにさかのぼって、ブッダのことも大変好きになった。手塚治虫の漫画によって。あれはかなり名作なので、ぜひおすすめしたい。
そして瞑想が好きで、お坊さんが書いた本とかもけっこう読んでいる。
そう、僕の宗教は、完全に本から入ったことになる。
きっかけは中国人の大学院生だった。
僕はちょっと前まで、十五年くらい必死に中国語翻訳家としてがんばっていた。ろくに稼げてはいなかったのだけど、ちょっとでも上達したくて、インターネットで中国人とコンタクトを取りまくっていたのだ。これは回避性パーソナリティ障害の患者としてはかなり異例なことだったのだけど、それだけ中国語への情熱が激しかったといえる。
ASIAQというサイトがかつてあったのだ。今は中国共産党によってつぶされてしまった。中国語を学ぶ日本人と、日本語を学ぶ中国人の交流サイト。僕はそこに一生懸命に中国語で日記を書いていたためか、しょっちゅう中国人から友達申請を受けていた。中でも積極的な方からは、チャットをしようと誘いをかけられることがあった。
そのうちの一人の方だ。中国人はネットに自分の写真を載せることをあまりためらわない人が多い。それを見ると、なかなか美しい若い女性だった。
彼女は大学院で宗教を学んでいたそうだ。あの国で宗教、というとなんだか危険な響きがあるけど、宗教学自体を禁止する度胸など、さすがに共産党にもないだろう。
僕が読書好きだと知ると、彼女は愛読するさまざまな宗教書を紹介してくれた。僕もお礼に、チリのエンリケ・バリオスという人が書いた『アミ 小さな宇宙人』という本をすすめたものだ。
そんな経緯で僕はニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』と出会った。
第一巻では、ふーん、なるほどね、くらいのものだった気がする。
簡単に説明すると、作者のウォルシュさんは趣味で神様に手紙を書いていたらしい。なかなか運の悪い人らしく、失業したり離婚したり、ホームレスに転落したり、いろんないやな目にあいまくっていた。むかついて、どうしても神様に、ひどいじゃないか、いったい何のつもりで俺にこんな経験をさせるんだ、と愚痴をこぼしていたようだ。ストレス解消としては、悪くない方法だろう。
どうやら彼は、若いころ、ちょっと牧師になりたい希望を持っていたそうだ。頭のいい人だし、よく勉強もされていたはずで、宗教の知識はかなりあったんだと思う。ただ、知識の問題ではなかっただろう。彼はある種の奇跡を経験した。
急に神様ご本人と、筆談できるようになってしまったのだ。
嘘だろ、と誰でも思う。もちろん僕も、信じてはいなかった。ただ、面白い本ではあったので、読んでみて損はなかったし、普通にみなさんにもおすすめする。
うちの近くの図書館にも、最初の三巻まで置いてあったのが大きい。僕は図書館派だ。貧乏だからというのもあるけど、京都府のすべての図書館の本棚を、自分の本棚だと錯覚できるのがうれしいからだ。
それなりにがんばって、『神との対話3』まで読み込んだ。1・2・3のどこに書いてあったんだっけ、神様はこんなことをおっしゃっていた。正確な引用ではない。
世界の人々がいう、あるいは書く言葉はすべて神とともに発したものなのだ、と。つまり世の中の本という本はどれも作者が神とともに書き、出版したものだ、と。
ほんまかいな、と僕は当然思った。それと同時に、強烈にうらやましくなったのだ。僕もそれ、やりたい。例えば趣味の俳句を神とともに作れたら、それは神の俳句にもなるんじゃないか、と。
ただ当然、ウォルシュさんみたいな特別な能力のある人だけが、神の言葉を直接聞く、というか筆談できるのだろう、と想像した。
あーあ、僕みたいな一般人には土台無理な望みだよ、とため息をついたものだ。
けど、ちょっとだけ試してみてもバチは当たらないのでは。
ちなみに僕はすでに書いた通り仏教系の人間で、ウォルシュさんはキリスト教系だろう。仏教には、神様というのはまず出てこない。仏は出てくるんじゃ、とはいえ、あれは基本、人間が悟ってなるもの、のはずだから神とは根本的に違う、という認識で合っているだろうか。
とにかく僕は神とは縁がない、とずっと思っていた。キリスト教の人と話していて、神が話題になると、「僕はその存在を『宇宙』と呼ぶことにするよ」とわさわわざことわったりしたものだ。
でも神の俳句が作れるとしたら、そんな魅力的なことはない、と感じていた。
なので、ちょっとやってみたかったのだ。
筆談、はなんだか難しそう。できなかったらがっかりするだろうし。
心の中で呼びかける、というのはどうかな。
ねえ、神様、ちょっと僕と話してくださいませんか。
するとできてしまったのだ。非常に簡単なやりとりであれば。イエス・ノーくらいの短い受け答えのみなら。
忘れもしない2019年9月6日、というか読書メーターっていう、本を読んだ日を記録できるサイトを今見返したところ、その日付が出てきた。『神との対話3』を読了した日のことだ。正確には8月の終わりだったかな。
そして次の日には、僕の頭の中で、神はもうべらべらおしゃべりになられた。うれしくっていろいろ尋ねてみたものだ。
「あなたっておいくつ、何歳なんですか」みたいなことを。
すると突然神は沈黙された。
なーんだ、やっぱり嘘っぱちじゃないか。僕が心で奇妙な演技をしちゃってただけなんだ。
そうではない、と神はおっしゃった。
君は、君の心を通じて私と話しているのだ。君の脳には宇宙についての情報・知識がない。なのでいくら私が何歳だよ、と答えたところで、君の耳には届かないのだ、だって。
うまいこと逃げましたね、と僕はそのとき思ったよ。もうちょっとこの遊びを続けたいから、なんとか言い訳をひねり出したのだろう、と。
すると、そうではない、君は君の心というフィルターを通して私の声を聞いているのだ、だそうだ。
ちなみにあとから知ったところによると、宇宙の歴史は百三十八億年、ということらしい。ビッグバンが起きたのがそのくらい前なのだと。最近見たテレビの教養番組によると、あるいはもっと長い歴史がある可能性が、天文学者の間でささやかれているそうな。
宇宙の年齢イコール神の年齢だ、と本人はおっしゃっている。定説がくつがえされると、神も年齢を修正される。
それってずるくない?とは思うよね。
ずるくない、神は必要に応じて嘘もつくし、演技もする。とおっしゃっている。
さて、僕は頭がおかしくなったのだろうか。ちょうど心を病んでいることだし。ただ回避性パーソナリティ障害というのは、妄想とか幻聴をともなう病気ではない。それに、神様は、妄想でもいいじゃないか、とおっしゃる。神の言葉を妄想することは、神と対話しているに等しい、んだって。
科学的に説明することも簡単だ。僕は子供のころによくあるという、イマジナリーフレンド、と会話しているのかもしれない。大人のイマジナリーフレンドを「タルパマンサー」というらしい。別に病気ではない、よくあること。
僕はもともと小説を書いていて、その主人公や登場人物とよく頭の中で会話していた。そうしているうちに、その人物のキャラクターが固まり、プロフィールとかものの考え方がしっかりつかめるようになるのだ。それに、楽しいことでもあった。そんなふうにして、ある種の素質ができあがっていったのだろう。
そう解釈することもできる、というわけだ。僕はいたって正常であり、決して神秘体験などしていない。
『もういいかな。それくらい言い訳しておけば、君の心も満足できるだろう』
と、神様は今おっしゃっている。
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