第三十話 再会と帰還の灯火(後編)


霧の立ち込める森の奥、わずかな陽の光が白い木々を照らし、昨夜の焚き火の跡だけが、そこにかすかなぬくもりを残していた。


ギムロックはすでに起き出し、炉に薪をくべていた。

ぱちり、と乾いた音を立てて火が走り、小さな火花が鋼に舞い落ちる。

鉄の匂いと油の香が混ざり合い、この地に馴染んだ彼の気配そのものだった。


「これで良し……っと。まったく、道具も年寄りみたいに鳴き始めやがったな。」


ギムロックはそう呟きながら、小さな刃や鋲を一つずつ布に包んでいく。

武具ではない。だが帰るために必要な旅装だ。


鍛冶場の裏で、ヴァレックは傷ついた羽を休めていた。

粗末ながらもしっかりとした包帯が巻かれ、少しずつ色が戻りつつある。

羽の付け根をかばいながらも、彼の目はすでに旅の先を見ていた。

傍らでラステンが無言のまま腰を下ろし、ゆっくりと炉の炎を見つめていた。

その大きな身体からは、変わらぬ落ち着きと、仲間を見守る気配がにじんでいた。


シヴァルは一人、焚き火の跡の前に座っていた。

まだ煤の残る石をなぞり、昨日の光景を思い返していた。

仲間との再会、子どもを守る決意、ヴァレックの生還。それらはすべて帰るために必要な出来事だった。


「ふぅ……。」


その隣で、幼い子どもがむくりと起き上がった。

シヴァルの胸に包まれて眠っていた子は、まだ目をこすっている。

だが、その瞳には昨夜よりもずっと強い光が宿っていた。


「……おはよう。少しは眠れた?」


シヴァルがやさしく問いかけると、子どもはこくんと頷いた。


そのやり取りを、少し離れたところでベルデンとモグラルが見ていた。

ベルデンはにこりと笑い、モグラルは地面に転がりながら軽やかに跳ねている。

子どもは思わずくすりと笑い、その様子を見たシヴァルの口元も、ほのかに緩んだ。


「……笑ったな。いい子だ。」


小さな命が、笑った。

この森の静けさの中に、それは確かに新たな朝の合図として響いていた。


焚き火の跡にわずかな煙が立ち上り、風がそれをさらっていく頃、ギムロックが静かに口を開いた。


「……あの頃の俺たちは、ただ戦っていただけだったんだよな。」


鍛冶槌を握る手に力が入る。

ギムロックの目は遠く過去を見ていた。

血に塗れた戦場、崩れた砦、叫ぶ仲間たち。

だが、今ここにいるのは、そのすべてを乗り越えた者たちだった。


「でも今は違う。ただの戦いじゃない。守りてぇもんがあるんだ。帰る場所と、待ってる奴らとな。」


「……ああ、そうだな。」


ナコビが頷く。

肩に掛けた革の袋を締め直し、鍛冶小屋の方角を振り返る。


「戦いはまた来るだろう。オべリス様が立つ限り、奴らは攻めてくるさ。

 ……でも、今度はうらたちが自分で選んだ道を歩ける。」


ラステンがごう、と低く鳴る音を立てて立ち上がった。

その動きに合わせて、彼の胸元に埋まった魔石コアが、ごぅ……と微かに脈動する。

かつて、共に主として仕えたルーデンの影が脳裏をよぎる。誰よりも仲間想いだった男。

そして、今その声を継ぐ者――魔王オべリスの言葉が、ラステンの記憶の奥で重なって響いた。


『ならばもう一度、我らは共に進もう。』


「モグ!」


その時、モグラルが土の中から飛び出し、くるくると回転してから元の位置に着地した。

前足で土をぽふぽふと叩き、小さな鼻をぴくぴくと動かす。


「地中ルート、確認完了ってことか。」


ベルデンが笑いながら訳す。

それにラステンが再び頷き、小さな光を灯すようにその胸の魔石が脈打った。


ヴァレックがゆっくりと立ち上がる。

まだ傷は癒えていないが、その眼差しははっきりとしていた。


「……ルーデンには申し訳ないと思ってる。あの頃、俺は力不足だった。

 奴を止める力も、守る力もなかった。」


「だからこそ、今こうしてここにいるんだ。」


ヤゴリの言葉が、皆の間に落ちる。


「もう一度やり直すために。仲間であろうと、自分であろうと、失ったものは取り返せると信じるために。」


焚き火の残り香の中で、誰もが短く、だが力強く頷いた。


「……帰ろう。俺たちの居場所へ。」


ヤゴリの一言に、シヴァルがそっと子どもを背負い直した。

ベルデンが肩を鳴らし、ギムロックが鍛冶槌を静かに腰へ収めた。


地面には、モグラルが開けた穴がぽっかりと開いていた。

その先に続くは、闇の中に走る確かな帰還の道。


地中ルートへと続く暗がりを前に、誰もが一瞬だけ足を止めた。

それは恐れではなく、長い旅路の区切りを確かめるような沈黙だった。


「……よし、行こう。」


ヤゴリが先に一歩を踏み出すと、それを合図にナコビ、メザカモ、そしてシヴァルたちが続く。

シヴァルの背には子どもがしっかりとしがみついていた。

その小さな手のぬくもりが、彼女の背筋に真っ直ぐな芯を通す。


ベルデンは最後に周囲を見渡し、鍛冶小屋の囲いに向かってそっと手をかざした。


「……また戻って来ようぜ。あの焚き火の続きをやるためにな。」


ギムロックはうんとだけ頷き、黙って地中に足を踏み入れた。

ラステンの巨体がその後をゆっくりと追うと、足音が地面に沈んでいった。


トンネルは思いのほか広く、モグラルが通った跡がしっかりと整っていた。

湿った土の匂いが鼻をかすめるが、奇妙な安心感がそこにあった。


「まるで、地面に抱かれてるみてぇだな……。」


ナコビのぼそりとした言葉に、メザカモがくすりと笑う。


「この世のどこよりも静かで、どこよりもあったかいかもな。」


小さな明かりが、モグラルの持つ魔石灯から柔らかに照らされていた。

その灯の中、ラステンが足を止める。


耳のないはずの彼が、ふと頭をかしげたのだ。


「……?」


ヴァレックがそれに気づき、問いかける前に、ラステンは静かに目を閉じた。


土の奥から、微かな低音が響いていた。

それは風ではない。誰かの“うた”のようだった。

生き残った者たちの、心の中に残った旋律――。

失われた仲間への祈り、そして希望。


ラステンはその音に耳を傾け、胸のコアを淡く明滅させる。

やがて、地中トンネルの終端に、かすかな光が差し込んだ。


「……出口だ。」


ヤゴリが言うと、子どもがぱちりと目を覚ます。

シヴァルの背で、目をしょぼしょぼさせながら光を見つめていた。


地上へ出ると、そこは小高い丘の上だった。

朝の霧が薄く流れ、湿った空気の中に、遠く“それ”は立っていた。


「……見えるか?」


ナコビが呟いた。


うっすらと、朝日に照らされた黒い影。

それは塔のような構造物の頂点――魔王城 ヴェルグラス・ドムハインだった。


「帰ってきた……。」


誰ともなく、ぽつりと呟いた声が空に溶ける。


オべリスの城。

自分たちが追われ、戦い、逃げ、そしてもう一度帰るべき場所。


「帰ってきたぞ……オべリス様。」


メザカモが静かに呟いた言葉に、皆が無言で頷く。

その胸に、懐かしい熱がともる。

戦友としての誇り、戦士としての魂、そして何より──帰る場所を得た者の想いが。


風が丘を吹き抜け、霧をさらう。

その風は、どこか懐かしく、誰かが見守っているような気配を孕んでいた。


霧が引き、空に淡い陽光が差し始めた。

夜の名残を背に、丘の上に立つ一行は、遠くにそびえる魔王城を見据えていた。


その瞬間、シヴァルの背中で目を覚ました子どもが、小さな声で囁いた。


「……あれが、おうち?」


シヴァルは微笑みながら、霧の向こうに浮かぶ城の影を見つめる。

その目に映るのは、ただの石の城ではない。

戦いと希望、失われた時間と、取り戻したい未来──そのすべてが重なった還るべき場所だった。


「そうよ。けれどね、帰るってことは、ただ元いた場所に戻ることじゃないの。」


そう言って、シヴァルはそっと子どもを降ろし、膝をついて目線を合わせた。

その目は静かで、けれどどこまでも力強かった。


「わたしたちは、自分たちで帰る場所をつくるの。

 誰にも壊されない、誰にも奪われない……心で繋がった場所を。」


子どもはしばらく黙っていたが、やがて不安げに尋ねた。


「……それって、むずかしい?」


シヴァルは笑って、頷いた。


「ええ、とってもむずかしいわ。でも……きっとできる。

 だって、あの人が、それを信じてくれてるから。」


風が、言葉のあとをさらっていく。

オべリス──その名を、声にしなくても皆が心に浮かべていた。


魔王であり、導き手であり、魂に火を灯した者。

恐れと敬意を同時に抱かせる、不思議な存在。


ナコビが後ろから近づき、子どもの頭をぽんと撫でる。


「こわいけど、あの方はお優しい。」


「オべリス様の声があったから、わいたちはまた歩けるようになった。」


ヤゴリの言葉に、メザカモも頷いた。


「もう逃げるだけの旅は終わった。これからは、戻る旅だ。自分たちの意志で。」


言葉を受けて、ナコビが頭をかく。


「不思議なのは、うらたちの方かもしれないねぇ……。魔王に命預ける日が来るとは。」


ヤゴリもくすっと笑った。


「でも、預けてよかったって思ってる。不思議なもんだ。」


ラステンは何も言わず、ただ空を見上げる。

コアの光が静かに脈打ち、ヴァレックの羽が霧の中でわずかに揺れた。


ギムロックとベルデンが、最後尾で鍛冶用の小袋を背に下ろす。

ギムロックがふっと鼻で笑った。


「ようし、歩こう。……そいつの信じた道ってやつを、この足でな。」


霧の彼方、魔王城が朝陽に照らされ、その全容をゆっくりとあらわす。

帰還の道が、ようやく本当の意味で帰る場所に繋がっていると、誰もが確かに感じていた。


そしてその背には、再び灯された火があった。

それは過去を越えて、絆をつなぎ、未来へと続く「灯火」だった。

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