第3話 境界線の溶解
その日を境として、桧山朔の日常世界は、アトリエの隅に鎮座するあの無貌の塑像を枢軸として旋回し始めたと言っても過言ではなかった。覚醒と共に訪れるのは、自画像のカンヴァスへの衝動ではなく、まずあの粘土塊へと歩み寄り、前日からの変容の徴候を検分するという、もはや儀式と化した行為であった。当初抱いた自己欺瞞的な疑念――疲労による幻視や光線の悪戯といった合理的な解釈は、もはや完全に霧散していた。それは主観的錯認の域を遥かに超えた、厳然たる客観的事実であったのだ。
塑像は、あたかも内部に秘められた生命の律動に従うかのように、緩慢ではあるが、しかし不可逆的なプロセスをもってその形態を変容させ続けていた。あたかも、自律的なメタモルフォーゼを進行させているかのようであった。最初に顕現したのは、眼窩に相当するであろう二つの窪みであった。深く、内部に濃密な影を湛えた一対の穿孔が、それまでのっぺりとしていた表面に刻印されたのだ。
次いで、その二つの窪みの間に、低い鼻梁を思わせる微かな隆起が、顔の中央を垂直に貫くように出現した。そして、さらにその下方には、薄く、しかし頑なに引き結ばれたかのような、口唇を示唆する線条が刻まれた。それは未だ曖昧模糊としており、人間の顔貌と呼ぶにはあまりに歪で、不安定な形態であった。あたかも、オネイロス的な悪夢の深淵から掬い上げられた
さらに異様なことに、その形成されつつある貌の各パーツは、日ごとにその形態を微妙に変化させた。ある朝には老人のごとき深い皺が眼窩の周囲に刻まれたかと思うと、翌日にはそれが消失し、幼児のような未分化で滑らかな頬の膨らみが現出したりした。それは、あたかも複数の、互いに無関係な見知らぬ誰かの顔貌の断片が、一つの不定形な貌の上で混淆し、拮抗し、互いの領域を侵犯し合っているかのようであった。カオス的融合とでも言うべき、不気味なプロセスが進行していた。
朔は、強迫神経症的衝動に駆られるかのように、その日々の変容をスケッチブックへと克明に
彼は明確な恐怖を感じていた。この粘土の塊は、自然の摂理から逸脱した明らかに異常な存在であり、これ以上関与すべきではないと、彼の理性は絶えず警鐘を鳴らしていた。しかし、それと同時に、この不可解な変容の行く末を、その終着点を見届けたいという、抗し難い知的好奇心、ファウスト的な探求欲が彼を捉えて離さなかったのである。この塑像こそが、彼が長年、自画像の制作を通して追い求めてきた「顔」と「自我」という形而上学的問題の核心に迫る鍵を握っているのではないか――そんなパラドキシカルな期待、危険な甘美さを伴う待望すら、彼の内で密かに育まれ始めていた。
だが、変化は塑像という客体だけに留まるものではなかった。朔自身の主観的感覚もまた、確実に、そして深刻に侵蝕され始めていたのである。アトリエの壁に掛けられた大きな姿見で自己の顔貌を視認するたび、一瞬、そこに映し出されているのが「自分」ではないかのような、激しい自己疎外感に襲われるようになった。鏡の中の顔が、あたかもあの塑像のように、のっぺりと全ての凹凸を失い、無貌の平面へと還元される瞬間を幻視する。あるいは逆に、塑像のあの歪で複数の貌が混淆したかのようなグロテスクな形態が、鏡の中の自己自身の顔と重畳し、キアスムを形成することもある。瞬きをすれば元の、見慣れたはずの自分の顔に戻るのだが、その不気味な残像は瞼の裏に焼き付き、彼の精神を静かに、しかし確実に蝕んでいった。
体性感覚もまた鈍麻し始めていた。指先が、まるで彼の意志とは独立した自律性を持っているかのように、微かに震えたり、意図しない動きを見せることがある。歩行時には、足裏が地面を捉える確かな感触が希薄になり、あたかも粘性の高い泥濘、あるいはまさに粘土の上を歩いているかのような、奇妙な重さと不安定さを覚えるようになった。食事を摂取しても、味覚は鈍磨し、ただ生命維持のための義務として、無感動に食物を口腔へと運び、咀嚼するだけになっていた。周囲の音も、まるで水中にいるかのように、くぐもって、遠くから響いてくるように感じられる。世界全体が、一枚の薄い、半透明な膜で覆われたかのように、現実性への準拠枠が溶解しつつあった。デレアリザシオンの明らかな兆候であった。そして何より不気味なのは、時折、自分の思考や行動が、あたかも外部の、異種的な主体の介在によって引き起こされているかのように感じられることであった。まるで、マリオネットのように、見えざる手によって操られているかのような感覚。
「おい、桧山。最近、顔貌に生気がないぞ。ちゃんと眠れているのか?」アトリエで偶然顔を合わせた同学年の友人が、真剣な憂慮の色を目に浮かべて声をかけてきた。彼の顔色、そのカヘキシーの兆候は、もはや誰の目にも明らかだったのだろう。しかし、朔はただ曖昧模糊たる肯諾を示すのみで、まともな応答を返すことすら億劫であった。
彼の描く絵画もまた、顕著な変容を遂げ始めていた。かつての、描線は硬質で、色彩は抑制され、どこか死のスティグマを帯びたかのような人物画とは全く異質なものへと。線はより有機的にうねり、生命感を帯びる一方で、その輪郭は弛緩し、まるで粘土のように不定形に融解し始めているかのようだった。色彩は混濁し、不協和音を奏でながら画面上でせめぎ合っている。その変化を「興味深い」「新たな表現の獲得だ」と表層的に評価する声もあったが、彼はそうした外界からのノイズを完全に捨象していた。彼の異様なまでの制作への没入ぶりと、日に日に進行する心身の憔悴、その破滅への道程を真に憂慮する声も、彼の耳にはもはや届いていなかった。
朔は、自身が周囲の世界から急速に乖離し、孤立していくのを感じていた。彼にとって真に重要なのは、もはや他者の評価や懸念の声ではなかった。アトリエの隅で静謐に変容を続けるあの異形の塑像と、それに呼応するかのように変質していく自己の内的風景。その二つの極だけが、彼の現存在の地平の全てとなりつつあったのだ。この倒錯的な共鳴の果てに何が待ち受けているのか。それは完全なる精神の崩壊、カタストロフなのか。それとも、苦痛に満ちたプロセスを経た先にある、新たな
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