君に向かう各駅停車だった
泉田聖
君に向かう各駅停車だった
『この電車は後続列車との間隔調整のため、当駅でいましばらく停車いたします。お急ぎの——』
そんな車内放送が耳に届いて、思わず電光掲示板を見やった。
やがて目に留まった【各駅停車】の文字を見て目を見張る。快速電車に乗りたかったはずの僕は、あろうことか乗り込む電車を一本間違えてしまっていた。
[ごめん……! 電車間違えた。先に店入ってて]
飲みに誘ってくれていた友人にメールする。[お前の誕生日祝いなんだから早く来いよ]すかさず返ってきたメールに、[ごめん、ありがとう]と短く返した。
メールアプリを閉じる。
未読メールの件数が、またひとつ増えていた。
ポンッ、と通知がひとつ鳴る。友人だった。
[てか彼女はいいのか。ライブに来てた、めっちゃ綺麗な子。なんかギスギスしてんだろ]
返信を打ち込もうとした手が止まる。
[うん]
[まぁ詳しいことは俺らが聞いてやるから。早く来いよ。皆待ってる]
[ごめん]
メールしてうなだれた。
背負っているギターケースの猫のストラップが、しゃら、と音を鳴らして視界に入る。つい見なかったことにしたくなって、駅のホームに視線を寄越した。
いつの間にか見慣れた駅のホームには、僕を探している彼女の姿はもうない。
彼女の家を訪れるためだけにこの駅に停まる各駅停車に乗っていた日々が、途端に脳裏で蘇りそうになる。
未読のまま放置していた彼女からのメールを開いた。
一番古いメールは一週間前のものだった。
[昨日はごめん。私もイライラしてた。本当に、ごめん。音楽やってるユウのことが好きなのに、あんなこと言って]
[ちゃんと話したいから明日会えない? バイトが終わったら、私の家で。待ってるね]
いいんだよ。謝らなくて。
なんてぬるま湯をかけるみたいな優しい言葉は、もうかけられそうになかった。
あの日。彼女が泣きながら綴った言葉が脳裏に蘇る。
「ユウにとって私って何」——床に散らばった書きかけの歌詞を綴った白紙を踏みつけて、彼女が悲鳴を零していた。
「作ったんだよ。ユウが好きって言ってくれたハンバーグ。なのになんで食べてないの」
「ごめん。……曲、書くのに忙しくて。早く次の曲発表しなきゃだから」
「もう何回も聞いたよ。もう何回も同じ言い訳ばっかり聞いたよ」
彼女の背後のダイニングテーブルにはラップがかけられたハンバーグが置かれている。幸いまだ腐ってはいないだろうから、温めれば食べられるだろう。作業が終わったら食べる。
そう、言葉にした。
「なにそれ。仕方ないから食べるの?」
「……違うよ」
「違わないでしょ。私が何に怒ってるのか、ホントに分かってる?」
「ハンバーグ、食べてないから」
「違うよ。全然違うよ。そうやって私の気持ちを隅っこに置いてけぼりにするのに、怒ってるんだよ」
彼女が言って、部屋にかけていたカレンダーを見やった。ちょうど一週間前の火曜日が丸く囲まれている。僕はその日から新曲作りに取り掛かった。彼女が最後に家に来たのは、その日だった。ハンバーグはその日彼女が作り置きしてくれていた。
「そうやって人の気持ち蔑ろにして、ホントに人の気持ちわかってる? 私の気持ち、考えたことある?」
ある——言おうとしたのに。
「あるわけないよね」
「……」
「なのに音楽なんて。成功するわけないじゃん。人の気持ちも考えられない人の歌詞が、響くわけないでしょ」
そう言って彼女が見やった先には、四年前――十八歳の時にバンドを結成した時に撮った写真が飾ってあった。埃を被った写真立てには『武道館ライブやってやる‼』と書かれている。結成時は五人だったメンバーも、今や四人になってしまった。ギターとボーカルを担当する僕と、ベース以外のメンバーは何度も入れ替わっていた。
「もう帰るね。……それ、もう食べなくていいから」
そう言って彼女は家を出た。
僕は、音楽を——僕の思いを踏み躙った彼女を追いかける気にはなれなかった。
[今日忙しい?]
[起きてるから来て。ちゃんと話そ]
[電話でもいいから。ごめんなさいって言わせてよ]
他人の気持ちを分かっていないのはどっちだ。内心で思いながら画面を弾いていた。
もう話し合っても仕方がないだろう。
僕の生き甲斐と夢を否定した人間を好きでい続けるなんて僕にはできないのに。
ポコッ。
不意に、通知音がした。
[もう会えない?]
メールは彼女からだった。
まだ関係を修復できるつもりなんだろうか。喧嘩をして一週間ろくに連絡を取っていない僕たちは、もうとっくに手遅れなのに。
[今から会えない? いま駅に居るからすぐに行けるよ。私がそっちに行くからさ]
きっとダメもとで送ったメールに既読が付いたから、急いで送ったんだろう。
返信するべきか迷いながら、電光掲示板に視線を向けた。
『この電車は後続列車との間隔調整のため……』
アナウンスを聞きながら決心する。
画面を弾いて、彼女の電話番号を呼び出した。
『も、もしもし? ユウ? いまどこに』
『大変お待たせいたしました。この電車は各駅停車——』
一週間ぶりの彼女の声は何かに怯えているようにも聞こえた。
けれど、こちらのスマホから届いた音声に思えがあるようで、向こう側から激しい靴音が聞こえた。
かつかつ、と。付き合いたての頃は走ることなんて到底出来なかったヒールの踵の音が聞こえてきた。駅員の制止の声。僕の耳にも聞こえている、全く同じホームの案内音声。物音がして、彼女が誰かに謝る声が聞こえた。
もし彼女が間に合わなければ、何もかも諦めよう。
何も言わずに連絡先は消そう。
彼女の家の合鍵も捨てて、増えてしまった歯ブラシもスリッパも捨てよう。
このギターケースに付いているお揃いのストラップにも、名残惜しいけど別れを告げよう。
『間もなく発車致します。閉まるドアにご注意ください』
『ねぇ、ユウいまどこ⁉ ねぇ‼ 謝るから……!』
扉が閉まり始めた。
彼女の姿は結局、僕の視界には映らなかった。
今までも彼女のことを、僕はしっかり見ることが出来ていたんだろうか。自信はない。スコアとギターの弦と、トラックばかり眺めていた気がする。
彼女の指が綺麗だったことだけは、よく覚えている。僕がモニターを睨んでいるとき、彼女はよくコーヒーを淹れてくれたから。マグカップを握る長い指が羨ましくて、ネイルの色が変わっていることにだけはよく気づけていたと思う。
込み上げてきた諦観を飲み込もうと、伏せていた顔をあげて空気を吸う。電話はもう、切っていた。間に合うはずがないから。
しゅぅ、しゅぅ、と扉の開閉音がする。電車の扉は完全に閉まって、僕と彼女の最後の接点を断ち切った。
もうこの各駅停車に乗ることもないんだろう。
思いながら、白い有線のイヤホンをポケットから出してスマホに繋いだ。
有線のイヤホンを好んで使っていた「今どき流行んないでしょ」そう彼女に揶揄われたのが途端に懐かしくなった。でも付き合って最初のプレゼントはこの白いイヤホンだった。
これも捨てないとな。
目を伏せる。
次の曲のメロディを刷り込まないといけなかった。流れてくるのは録音した自分の鼻歌。メロディを保存しているファイルには、彼女の鼻歌も微かに混じっていた。
いつか、これも捨てる日が来るんだろうか。その時はきっと音楽を辞める時だろうから、もうしばらく先かもしれない。他人事みたいに考えた。
ゆっくりと、けれど着実に加速していく電車の車窓から流れる景色を見つめた。
交錯が落ち着いたホームの人波。
駆け込んでホームに降りてくる人々は、走り出した電車を見るなり肩を落としていた。
加速していく車窓の景色に、覚えのある人影が見えた。けれど、きっと気のせいだった。スマホを片手に握って、泣きじゃくるその人の顔を僕はもう鮮明に思い出せなくなっていた。
「もう行くよ」
電車が加速する。黙々と、淡々と。
僕を君のいる駅から引き離していった。
君に向かう各駅停車だった 泉田聖 @till0329
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