大長老グラファイス

 その言葉が言い終わらぬうちに、アストリックスは鋭い動きでルシャーダに接近し、黒の写本を奪おうとしていた。ルシャーダが慌てて後退しながら百足でアストリックスを迎撃する。しかしアストリックスは、その百足の頭を片っ端から潰していった。


「本を返してください!」


 アストリックスは口にした瞬間、背後から近づく気配に裏拳を振った。灰色で細長い分霊体が潰れる。


「これは――」


 気がつくと部屋中に、50cmほどの細長い分霊体が、無数に空中を浮遊していた。その細長い分霊体は、胴体と同じ大きさの口を持つ深海魚のような形状だった。


「ミル=フォレイ室長、目的のものは入手しましたし、ここは退却した方がいいのでは?」


 ルシャーダは頷くと、素早く壊れた壁から身を翻した。後を追おうとするレギアに、深海魚の分霊体が何匹も群がる。レギアは右手の人差し指と中指をたてて光の短剣を作りだし、群がる深海魚を次々と斬り裂いていった。


「チッ、一体一体は弱いが、数が多すぎる!」


 深海魚の群は部屋にいた者すべてに無差別に襲いかかった。フェイの肩や足に、何匹か食らいつく。


「わあっ!」

「フェイ!」


 ジェイドが近寄ろうとするが、ジェイド自身も自分に群がる深海魚の処理で手が放せない。そこに光線が発射され、食いついていた深海魚が消去された。

 フェイが見ると、それはレギアの指から発射された光線だった。


(あの、レギアって人が……)


「皆、私の後ろへ来てください」


 ヒーリィが部屋の隅で声をあげる。全員が、ヒーリィの背後に回った。ヒーリィが剣の柄の手をかけるように魔紋を左手で掴み、右掌を部屋の中央に向ける。


「――氷結せよ」


 ヒーリィの静かな声が響いた瞬間、部屋の空気が一瞬にして寒気に見舞われる。すると部屋を浮遊していた深海魚が瞬時に凍結し、ボトボトと床に落ちていった。落下の衝撃で、ほとんどの深海魚が破砕した。


「チッ……奴らを逃がしちまったようだね」


 フェイはサムウジの方を見た。申し訳なさでいっぱいだった。


「サム……ごめん。僕のせいで、大事な本が……」


 サムウジはフェイを一瞥すると、ジェイドの方に視線を向けた。


「フェイを送って来たのは、最初から黒の写本が目当てだったのか?」


 ジェイドは首を振った。


「違う。私は息子が君の所に出入りしてることなど知りもしなかった。もし知っていたのなら、すぐに止めただろう。それにそもそも、まさか『掟破りのサムウジ』が洞穴国に帰ってきてるなどと、誰が思うものか」

「そうか……」


 そう呟くと、サムウジはフェイの方に向き直った。


「すまなかったな、フェイ。疑ったりして。それに、俺に関わったせいで君を巻き込んでしまった。すまない」

「そんな。僕の方こそ――」


 フェイははるかに年上のサムウジが、自分に頭を下げたのを見て恐縮した。それ以上に、自分を同格に扱ってくれるサムウジに、改めて親愛の情を感じたのだった。


「しかし黒の写本は帝国に盗まれてしまった。これは極めて深刻な事態だ。――ストリーム長老、大長老の元へ俺を連れていってくれないか」


「どうするつもりだ?」

「この件を話し、大洞穴の入り口を封鎖してもらう」


 サムウジは堅い表情でそう告げた。


   *


 大長老がいるのは洞穴国の中心部にある教儀聖堂であった。サムウジとレギアたちは、ジェイド・ストリーム長老に連れられ教儀聖堂の中心部へと入っていった。


 石造りの壮健な造りの聖堂の内部は、整然としているが細部に手の込んだ内装を持っていた。その中央の謁見の間で、レギアたちは大長老グラファイスの登場を待っていた。 


 謁見の間の正面は高台になっており、その中央部から少し内向き寄りに両翼が展開している。左右の高台に、背後の影から不意に九人の長老が姿を現した。


 長老たちは全員、灰色の長衣ローブをまとっている。左右の高台は二段になっていて、下に三人、上に二人が席に着いた。しかし右手の上の席は空いていた。どうやらそこが本来は、ジェイド・ストリーム長老の席のようだった。


 そして中央の席に、背後の闇から大長老グラファイスが忽然と現れた。大長老は灰色の髪を総髪にし、薄い口髭と長い顎髭をもった老人であった。意匠の少し異なる灰色の長衣ローブをまとい、右手には緑色の結晶が装着された杖を持っていた。


 ストリーム長老は両膝を床に着け、腕を互いの手で肘を触れるように前に伸ばして組み、頭をうなだれた。フェイとサムウジはこの洞穴族特有の敬礼に倣ったが、レギアたちは立ったままだった。

 大長老は赤い瞳をストリーム長老に向けると、厳かに口を開いた。


「ストリーム長老、緊急の報告があると聞いたが――どうしたというのだ?」

「大長老グラファイス、此処にいる『掟破りのサムウジ』からお聞きください」


 ストリーム長老が顔を上げて述べたのに続き、サムウジが顔をあげた。

「大長老グラファイス、私が持っていた『黒の写本』を、ガロリア帝国の特務機関に奪われてしまいました。どうか、大洞穴の封鎖をお願いします」


 サムウジはそれだけ言うと頭を垂れた。

 長老たちの間ではどよめきが起きていた。


「サムウジがこの国にいたのか?」

「黒の写本……実在していたのか」

「しかし、今になって何故?」


 大長老が片手をあげた。長老たちは静まり返った。


「サムウジ、そもそもお前が十年前に黒の写本を盗み出した罪は重い。それを知って何故、この場に現れた?」


「帝国は黒の写本を使って、怨機獣デゾンの復活を目論んでいます。もしそれが完成したら、大変な被害が出る。ここにいる者たちは、それを阻止しようとしている者たちです。だが我が国の責任を考えるなら、洞穴国の技術から、そのような犠牲者が出ることを見過ごすべきではありません」

「サムウジ、そもそも帝国に霊技の秘儀を売り渡そうとしたのは、お前ではないのか?」


 右の上方に座る長老の一人が、叱責するように声をあげた。頭髪がまったくなく、鋭い細い目つきをした人物だった。


 声をあげた長老を、大長老グラファイスがじろりと見やった。


「ベルデール長老、貴公もそれに覚えがあるのではないのか?」

「大長老、帝国との魔晶石の取引を、今の40%から80%に上げるという私の提案は、決して秘儀を売り渡すようなものとは違います。私はただ、洞穴国の経済的繁栄のために進言したまでです」

「しかしどうやら、ストリーム長老は既に帝国の人物と懇意にしていたようだが?」


 大長老はストリーム長老をぎろりと見やった。ストリーム長老は動揺を隠すように、うつむいて視線を反らした。

 そのなかで不意に、サムウジの声が響いてきた。


「――俺のやったことは間違っていた。俺自身はどんな処罰を受けてもいい。ただ、帝国の連中がこの国から黒の写本を持ち出すのを止めて下さい。……頼みます」


 サムウジは頭を下げた。しばしの沈黙が場を包んだ。


 やがて大長老は厳かに言い渡した。


「判った。白影士を呼べ」


 大長老の命を受け、謁見の間の下座に10人ほどの人影が現れた。彼らは全員が白の長衣を身にまとい、フードで頭部を覆い隠し顔はまったく見えなかった。

 その中で中心にいた人物が、顔を見せぬまま声を発した。


「白影士、参上しました」

大洞穴グランド・ケイブに向かい、外界への出口を封鎖せよ。その中に帝国の使者がいるはずだ。手荒な真似はなるべく控えるように。ただし――抵抗したのなら、手段を選ぶでない」

「はい。かしこまりました、大長老グラファイス」


 白影士と呼ばれた白い長衣の者たとは、一礼すると音もたてずにその場を去っていった。


「彼らは何者だ?」


 ヒーリィは小さな声で、傍らにいたストリーム長老に尋ねた。


「白影士。大長老直属の特命集団だ。分霊体ファントムをはじめとする強力な霊術マナテックの使い手が選抜されている。……ただし、その力の強大さのために、通常、出動することはほとんどないが……」


 答えるストリーム長老の声は、僅かに震えていた。


 それをよそに大長老はサムウジを見つめて口を開いた。


「ノーム・ノーリスが三十三年前に、先の大戦に我が国の霊術秘儀を持ち出して以来、秘儀を守ることが我々の掟となった。サムウジ、お前はその掟を破り帝国へと出奔した。その掟破りの罪に対する罰は受けてもらう」


 大長老はそう言って立ち上がると、手にしていた緑の結晶を先端に持つ杖を掲げた。


「ひっ」


 恐怖で声をあげたのは、ストリーム長老だった。

 緑の結晶から、突如、何十本もの蔓草が飛び出してきた。それがうなりを上げて、サムウジの身体を取り囲む。


「サム!」


 フェイは声をあげた。しかしサムウジはフェイの方を見ようとはせず、大長老を見つめて呟いた。


「――父さん…すみませんでした」


 フェイは息を呑んだ。と、その瞬間、サムウジの身体はほぼ完全に蔓草に覆われて見えなくなる。


「サム! サム!!」


 最後の一瞬に、僅かに見えたサムウジの顔がフェイの方を向き微笑した。そしてサムウジの全身は完全に蔓草に包まれ、まるで緑の繭のようになってしまった。

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