愛を知った日、君は星になったーー
ひめり
第1話
あの時、私が気づいていたら――
もっと早く気づいてあげられていたら、未来は変わっていたのだろうか。
どうかお願い、神様……。私をひとりにしないで――。
あの時、君みたいな人がいるなんて知らなかった。
「あの頃の私とは、何か変われたのかな?」
毎日、そんな風に自分に問いかけては、うつむいて涙が視界を遮る。
「一歩でも前に進めたのかな?」と、悩んでみても答えは出ない。
そして、答えてくれるはずもない貴方に向かって、
「ねぇ、私たちが出会ってから、もう何年経ったのかな? 今でもちゃんと私のことを見てくれてる?」
ぽつり、雫のようにこぼれたその言葉は、空に吸い込まれていく。
もう、貴方が戻ってくることはない。
それでも私は、空に向かってつぶやいてしまう――。
***
「おはようございます、かえでさん! さっき、高木さんが呼んでましたよ」
「おはようございます! 高木さんが……分かりました。ありがとうございます!」
深く頭を下げ、その場を後にした。
私は本元かえで、二十歳。社会人一年目の新人だ。失敗して怒られ、また失敗して怒られるーーその繰り返しで、正直、心が折れそうだ。この日も、出勤して早々に呼び出しをくらった。
「私、また何かやらかしたのかな?」
「書類の締め切りは来月のはずだし、何か勘違いしたのかな?」
頭の中でぐるぐる考えたけれど、思い当たる節は何もなかった。
ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が返ってきた。
「失礼します」
私は恐る恐るドアをあけ、足を踏み入れた。
「おい! 頼んでおいた書類、昨日までだと言っただろ! 出てないぞ!」
「も、申し訳ありません。以前は来月までと聞いていたのですが……」
「口答えするな! 俺が昨日までと言ったら、昨日までだ!」
「は、はい! 以後気をつけます!」
戸惑いながらも、私は深く頭を下げ、急いでその場を後にした。
私の上司、高木さんは機嫌が悪くなると、無理やり理由をつけて、入社一年目の私たちを呼び出す。正直、**「こんな仕事やめてしまいたい」**と思うことが多いけれど、生きていくためにはお金が必要だ。多少の困難は、誰もが通る道だと分かっている。
でも、それでも辛い。心が折れそうになりながらも、大人になっても人間関係の難しさに悩んでいる自分がいる。もし、完璧に人間関係をうまく築ける方法を知っている人がいれば、ぜひ会ってみたい。
彼氏でもいれば、少しは心の支えになって、この仕事も受け入れることができるのかもしれない。しかし、私の人生で、まともな恋人なんて一度もできたことがなかった。
唯一、高校生の時、そんな風に思わせてくれる存在がいた。でも、その人に会うことはもう二度とできない。
なぜなら、その人は私の手が届かないほど、遠くに行ってしまったから。
それは、三年前の春、高校二年生の時の出来事だった。
当時の私は、生きる意味を見いだせず、自分の命すらどうでもいいと思っていた。なぜなら、この世界には偽りの仮面をかぶった人しかいないからだ。でも、死ぬ勇気もなく、ただ、大人に敷かれたレールの上を生きるしかなかった。そんな価値のない私の人生は、あの時、彼によって、急速に狂っていくように変わった。
キーンコーンカーンコーン
寒い冬を越え、新しい風が運ばれてくる四月。閉じていた桜の蕾が次々に開き、花びらがひらひらと舞い落ちる。まるで、ピンク色のじゅうたんのように、道を染めていく。
その中で繰り広げられるのは、入学式と新学期の始まりだ。私を除いた世界の人々は、この瞬間を心待ちにしているかのように、笑顔で写真を撮り合っている。みんな、楽しそうにカメラに向かってポーズを決め、幸せそうな顔をしている。
友達が一人もできたことがない私には理解できないが、きっと、学年が上がり先輩になる生徒や、長い休みの間会えなかった友達、そして、何よりクラス替えのドキドキ感が、みんなをワクワクさせているのだろう。四月という時期は、誰にとっても新しい物語が始まる合図のようなものなのかもしれない。私には、みんなが何をそんなに楽しくて笑っているのか、理解できなかった。学校なんて、大人の言うことを聞いて、ただ勉強していればそれでいい。友達など、ただの邪魔な存在だと思っていた。
「あ、久しぶりー!」「春休み、何してたのー?」「彼氏がさー」隣の女子たちは楽しそうに会話をしている。前の席では、「お、やったな! 仕返しだ!」「おい!やめろよ、汚ねぇーな!」男子たちが黒板消しを使って遊んでいる。
耳を塞ぎたくなるような生徒たちの笑い声は、チャイムが鳴っても大きく響き続けていた。まるで遊園地ではしゃぎ回る子供たちのように。
その時、ガラガラと勢いよくドアが開いた。
「みんな、久しぶりで楽しいのは分かるが、チャイム鳴ってるぞ!」
あまりのうるささに担任の先生が注意しにきたのだ。
「前に貼ってある席を確認して座れー! 朝礼始めるぞ!」
その先生の一言に、生徒たちは素直に「はーい」と返事を返した。そして、座席を確認しようと一斉に黒板の前に集まり、あっという間にひと塊ができた。席を確認するやいなや、みんな不平不満を叫んでいる。
「え、私、ここの席、嫌だー!」
「俺、一番前とか、携帯いじれないじゃん」
正直、どこの席も変わらないと思うが、学校を楽しんでいるみんなにとっては、すごく重要なことなのだろう。
黒板の前から生徒が減る頃合いを見計らって、私も席を確認する。
「……私の席は、一番後ろの窓側? 一年生の時と同じ席だ!」
椅子を引いて腰を下ろす。
すると、背筋が凍るような強い視線を感じた。
そう、今私が座っている場所は、生徒の中で一番人気の席なのだ。携帯をいじっていても、寝ていても、先生からはバレにくい位置だからだ。私にとっては、晩御飯をカレーにするかビーフシチューにするか、それくらいどうでもいいことで、それよりも、仮面をかぶった偽りだらけの生徒たちと過ごすことの方が悩ましい。
そして、翌日からは普通に授業が始まった。
学校生活は、子供たちの戦争と言ってもいいだろう。少なくとも、私はそう呼んでいる。
教室に誰とも挨拶を交わすことなく、辿り着き、いつものように自分の席に腰を下ろした。
教科書がぎっしり詰まった重たいバッグを机の横に引っ掛ける。
「みんなおはようー!」
大きな声と共に教室のドアが開くと、視線が一気に集まった。
眠い朝から、何の躊躇もなく大きな声で挨拶するその声は、教室中に響き渡る。
彼女は、学校一美人で、男女問わず人気の女王様的存在、宮本鈴葉。誰もが振り向くその華やかな笑顔と、自信に満ちた歩き方は、まるで、教室の中に立つ太陽のようだ。
その隣を、メイドのようにいつも付きまとっているのは、高橋さき。鈴葉が歩くたびに、さきはピッタリとその後ろについて、控えめに微笑みながら周囲に視線を配っている。どこか影のある存在感を漂わせるさきは、鈴葉の影のように、常に彼女のそばにいる。
この二人は、私にとっては要注意人物だ。他にも気をつけるべき生徒はいるけれど、特に注意しなければならないのは、この二人だけだ。
鈴葉さんの挨拶に応じて、クラスメイトたちは次々と声をかける。
「おはよう! 鈴葉ちゃん! それに高橋さんも」
「よっ! 鈴葉! 高橋!」
陽気に挨拶を交わす彼らを見ていると、裏の顔を知らずに楽しそうに振る舞う姿が、逆に関わりたくない気持ちを強くさせる。そんな中、鈴葉さんが私に気づき、明るく声をかけてきた。
「あ! かえでちゃんじゃん! おはようー!」
必ず一人でいる私にも笑顔で話しかけてくる。でも、私に話すときだけは、その笑顔がどこか冷たく、目が笑っていないことがよく分かる。他人と話すことが苦手な私にとって、鈴葉さんのその態度は、どんな人でも背筋が凍るほどの恐怖を感じさせる。無視することはできず、私は視線を逸らして小さく会釈しながら「あ、どうも」と返す。
「どうもって、私があんたみたいなダサい子に声かけてあげてるんだから、挨拶くらい返しなさいよ!」
「もしかして、挨拶の仕方忘れちゃったんじゃないー?」
「え、それはやばくない! 挨拶もできないなら、小学生からやり直しなよ」
さっきまでの楽しげな雰囲気から一転、鈴葉さんと高橋さんは冷たい視線を私に向け、言葉のナイフのように鋭い罵声を浴びせてきた。
「うっ…」
言い返す余裕もなく、私はただ、無意識に下を向き、目を強くつぶった。涙が溢れそうになるのを必死にこらえながら、ひたすらその場を耐えた。
鈴葉さんたちの声は、教室の他の音に紛れて、誰にも届いていないようだった。
「いいよいいよ! こんなやつ放っておこう!」
その言葉が耳に入った瞬間、メイドのように鈴葉さんにぴったりくっついていた高橋さんが、鼻で笑いながら言った。
「そうね! こんなうじ虫みたいな奴と話してるだけでも鳥肌が立つわ! もう行くわよ、さき!」
「はい! 鈴葉ちゃん!」
「アンタ、きもいのよ」
鈴葉さんは最後に冷たく捨て台詞を吐き、私を蔑むような笑みを浮かべながら、高橋さんと一緒に足早に立ち去った。
「なんでいつも……」
消え入りそうな声で、ぽつんと呟いた。
私の心は言葉が引き裂くように痛んで、胸の奥で締め付けられる感覚が広がった。
二人が完全に去った後も、顔を上げることができなかった。足元だけをじっと見つめ、目からこぼれそうな涙を必死に耐え、飲み込んだ。
「怖い……、鈴葉さんたちも、周りの目も。」
その場に立ち尽くし、息が詰まりそうなほどの恐怖と孤独に包まれていた。周りの視線がどこに向けられているのか、顔を上げればまた何か言われるのではないかと、ただその場から逃げ出したい気持ちだけが膨らんでいった。
私が鈴葉さんに目をつけられたのは、一年生の時、入学してすぐのことだった。私はただ、机に置かれていた鈴葉さんの筆箱をうっかり落としてしまった。それだけのことだった。
でも、ぼっちで静かな私が気に障ったのだろう。
その日から、毎日のように嫌がらせが始まった。
昔は、お弁当を捨てられたこともあった。私はただ耐え続けた。どんなことがあっても耐えれば、なんとかなると思っていた。いや、そう教えられてきたから、耐えることしか考えられなかった。
二人が立ち去った後、すぐに入れ替わるように、明るい声が聞こえた。
「よっ! かえでちゃん。おはよ!」
「え……。」
「あいつらのことは気にすんなよ!」
その声の主は、学校一のイケメン、會野裕(かいの ゆたか)。鈴葉さんを「あいつ」呼ばわりするなんて、ちょっと意外だ。それに、どうしてこんなにも美女やイケメンに目をつけられるんだろう。しかも、同じクラスで。ますます自分が嫌になってくる。
「別に、気にしていません。 いつものことなので。」
「え、いつも……。あ、でも、かえでちゃんが大丈夫ならよかった!」
私の「いつも」という言葉に、最初は少し驚いたようで一瞬戸惑っていたが、すぐに落ち着いた様子で、まるで「僕はあなたのことを心配しているんだ」とでも言いたげな口調で返してきた。さすが学校一のイケメン、話すのがとても上手だ。きっとこれまでにたくさんの女子と話してきたんだろう。異性との会話には、もう慣れっこだと分かるくらい自然に振る舞っていた。
だが、こんな人が多い教室の中で、鈴葉さんに目をつけられている私とイケメンの會野裕と二人で話していたら、どうしても目立ってしまう。早く会話を終わらせて、私の前から去ってほしい。けれど、彼は私から視線を離すことなく、机の前から動こうとしない。むしろ、ニヤニヤしながら私を見ている。
「本当、なんなのこの人」と心の中で戸惑いながら思う。
これ以上ここにいると、周りの目が怖いし、すごく困る。
ここは勇気を振り絞って言うしかない! そう決心して、深く息を吸い、吐き出した。
「あの、なんか用ですか? 何もないなら、私に話しかけるのやめてください。」
当然、相手の目を見ることはできず、ただ座ったまま膝の上の拳をじっと見つめながら、力強く言った。
「もう、なんでよりによって学校一のイケメンが話しかけてくるのよ……。」
その言葉を口にした瞬間、みんなに対する怒り、いや、なぜが自分に対する怒りが込み上げてきた。そして、その怒りに加えて、悲しみも一緒に溢れ出してきた。
「これじゃ、……私、本当に居場所なくなっちゃうよ。」
透き通った瞼から音もなく涙が一粒、また一粒とこぼれていく。そんな自分を、これ以上見ていられなかった。
心の中で叫びたいような気持ちを抑え、目を背けるようにして、私は何も言わずに教室を飛び出した。
席を立つと同時に、振り返ることなく扉に向かって走り出す。心臓がドキドキと鳴り響き、頭の中で「もう、なんでよりによって……。」と繰り返すだけで、何もかもどうでもよくなった。
朝から嫌なことが続き、授業に出る気力もなくなった私は、体調が悪いふりをして学校が終わるまで保健室で過ごした。
学校が終わる頃には、日が沈みかけ、カラスの鳴き声と部活をしている生徒たちの声が街を包んでいた。もちろん、私は部活に参加しているわけでもなく、帰宅部だ。学校から駅までの通学路は生徒で混み合っていて、その中を歩くのがどうしても無理だった。だから、いつも一つ奥の、誰も通らない静かな道を使って駅へ向かう。その道なら、誰にも会わず、街並みもとても美しくて静かだ。
「やっぱり、この道を歩いている時が一番落ち着くなー」
朝の出来事を忘れようと、私はいつもの静かな道を歩いていた。
しかし、ふと後ろから不安な気配を感じて振り向くと、
「おーい! かえでちゃん!」
「ビクッ!」
聞き覚えのある声に、思わず息を呑んだ。
振り返ると、會野くんが手を大きく振りながらこちらに向かって走ってきていた。
驚きと共に、私は心の中で「なんで、なんで、なんで」と何度も呟いた。
「はぁ、はぁ、やっと追いついた!」
私の前で立ち止まり、息を切らしながら、彼は笑顔を浮かべている。額からは汗がぽたぽたと垂れていたけれど、どこか嬉しそうだった。
その瞬間、彼がぱちんと両手を合わせ、
「今日はごめん、傷つけるつもりはなかったんだ。ただ、心配で」と頭を下げてきた。
どうしてこんなにも私に関わろうとしてくるんだろう。心配しているフリをしてまで、私と関わっても何も得るものはないのに……。
その疑問が頭に浮かび、思い切って聞いてみることにした。
「あの! 一つ聞いてもいいですか?」
「おお、なんでも聞いてよ!」
私が話し始めると、彼は嬉しそうに顔を輝かせて近づいてきた。
「あ、えーっと……。」
こうやってぐいぐい来られると、ちょっと聞きにくいな……。
「ってか、かえでちゃんから質問なんてめっちゃ珍しくない? 俺、嬉しい!」
「嬉しい?」
「うん! だって、学校ではかえでちゃん、いつも下向いて目も合わせてくれないし!」
「それは……。」
「だから、かえでちゃんからの質問嬉しいよ。で、何聞きたいの?」
完全に相手のペースに巻き込まれてしまった。
私は他人と話すのが苦手だし、これ以上話しかけてこないで欲しい気持ちがあった。これからの学校生活がもっと辛くなる気がしたから。
どうにかしないと……。
「あ、いや、なんで、いつも私に話しかけようとするのかなって、周りに可愛い子なんていっぱいいるし、わざわざ私じゃなくても。それに、興味もないくせに……」
「うーん」
彼は眉をひそめ、腕を組んで何か考え込むような様子を見せた。
そして、予想外の答えが返ってきた。
「じゃあ、なんでいつもかえでちゃんは一人でいるの?」
「え?」
びっくりして、私はその問いに反応できなかった。
私の質問を無視して、逆に疑問を投げ返されたからだ。
「あ、あなたには関係ないでしょ!」
少し躊躇しながらも、強く言い返す。
「うーん、まぁ、確かにそうかもな。でも、俺、かえでちゃんと話したいんだよね。」
普段のニヤニヤしている目とは違い、真剣な眼差しで私を見つめていた。
この人は一体何を考えているのか、全然わからない。その時、思わず心の中で感じたことが口に出てしまった。
「うそ! それは嘘だよ……。」
小さな声で、彼には聞こえないくらいの音量でつぶやいた。私と話したいなんてこと、絶対にない。きっと、私を油断させようとしているだけだと思った。
「ん? 今、なんて言ったの? ごめん、小さくて聞こえなかった」
「別になんでもないです! もう、質問も終わったし、私帰ります!」
私はすぐに背を向けて歩き出した。このまま會野くんと話し続けていたら、きっと何かしらボロが出てしまいそうで怖かった。
「ちょっと待って、駅まで一緒に行こうよ! 家、どこ?」
私が強く言っのに、彼はお構いなしで歩幅を合わせてついてきた。
「もう、私に構わないでください!」
「でも、駅まで方向一緒だし、ダメ?」
冷たく言っているつもりでも、どこか拗ねた口調で、飼い主に従う犬のようについてきた。
そして、その後も私が答えたくない質問ばかり、噛み付くように投げかけてくる。
「ねぇ、いつもこの道から帰ってるの?」
「そうだけど、何?」
「そうなんだ! この道、いいね」
「はい?」
「人通りも少なくて、心がホッとすると言うか、なんか一人の癒しの帰り道って感じで、俺好きだな!」
彼は両手を大きく横に広げ、空を見上げながら言った。その言葉に少し驚きながら、初めて彼の顔をちゃんと見た。夕日のオレンジ色が彼の横顔を照らして、何よりも美しく、楽しそうに生きている彼の姿に、思わず見惚れてしまいそうになった。
彼は話を続けた。
「かえでちゃん、この道教えてくれてありがとう!」
言い終わった瞬間、急に振り向いてきた。見惚れていた私は反射的に目を逸せるほど素早く反応できず、彼と目がバッチリ合ってしまった。
「あっ!」
数秒遅れて、慌てて目を逸らす。
たった一瞬目が合っただけなのに、彼の瞳は優しくて柔らかく感じられ、心臓がドキドキと大きく響く。必死にそのドキドキを抑えようとするけれど、体が言うことを聞かず、心臓の音が体中に響いていた。
そんな私に、彼は平然とした様子で言った。
「ねぇ、今俺のこと見てたでしょ?」
ドキドキを必死に抑えようとしている私の顔を覗き込んで、からかってきた。
「別に見てません」
「えー、本当にー?」
「違うって言ったら違います! 隣の家見てたんです!」
「俺は目が合ったように見えたけどなー」
小さな子どものように、嬉しそうに笑いながらからかってくる。
「もぅ、なんなのよ!」
私は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
こんなにしつこくからかわれて、さっき見惚れていた自分を殴りたい気分だったけれど、なぜか不思議と心が温かくなって、少し楽しい気持ちになるような気がした。
そのうち、気づけば駅に着いていた。
「結局、駅まで一緒に来ちゃったね」
「勝手に着いてきたんでしょ」
「冷たいなー。あ、なんなら家まで送るよ」
「しつこいです! 一人で帰れますから」
「もぅ、つれないなー」
ムスッとした顔でホームに向かって歩き出した私を見て、彼はついてきた。
電車を待つためにホームで立っていると、彼も横に並んでちょこんと足を止めた。この駅の電車はだいたい五分ごとに来るから、あまり待たずに乗れる。
「あ、私この電車なのでさようなら」
「え、俺もこの電車!」
彼は少し驚いた顔をして、目を丸くしてから同じ電車に乗り込んできた。
「え、嘘でしょ? 本当に同じの?」
よく考えてみれば、二分の一の確率で同じ電車に乗ることになるから、別にあり得ないことではなかった。
流れで結局、一緒の電車に乗ることになってしまったが、静かな電車内では二人とも話すことはなく、沈黙が続いた。
しばらくの間、私たちの間に気まずい空気が漂っていて、電車が揺れる中で十分ほどが過ぎた。
思わず彼に聞いてみた。
「ねぇ、もしかして家までついてくる気?」
彼がなかなか降りず不審に思えて、つい口に出てしまった。隣にいる私を見た彼は少し照れながら答えた。
「最初は送ろうと思ったけど、ダメって言うから家に帰るつもりだよ。」
「じゃあ、なんでまだ電車に乗ってるの?」
「だって、俺の最寄り駅、まだ先だから。」
「本当に? 嘘言ってない?」
「本当だよ! 俺の最寄りは岬ヶ丘駅だから、あと四つくらい。」
「え、今なんて?」
聞き覚えのある駅名に思わず目を疑った。
「え、だから岬ヶ丘駅! って、まさかかえでちゃんも同じ駅?」
「はぁー、そうよ。」
呆れて言葉も出なかった。反対に、彼は楽しそうに笑いながら答えていた。
電車が同じでも、最寄り駅まで同じだなんて、こんな偶然があるとは思ってもみなかった。
彼は私を見ながら、にっこりと微笑んで言った。
「じゃあ、やっぱり家まで送るよ!」
その笑顔には優しさがにじんでいて、思わず私は言ってしまった。
「もぅ、分かったよ。 でも、家まではダメ。 近くの公園までなら……。」
彼の笑顔に負けて、仕方なく了承してしまった。この時はそんなつもりじゃなかったけれど、この一瞬の緩みが後々、私に大きな影響を与えることになるなんて、まだ知らなかった。
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