無外流剣術
「おう、朝飯に団子買ってきたぞ!」
月丹が、巡回中に買った団子を手に、留守番の二人に向けて声をかけた。甘い醤油の香りが、空腹の剣弥の鼻腔をくすぐる。
「あっ……おかえりなさい」
月丹の声に、奥で待っていたボタンはすぐに立ち上がり、冷たい水出しの茶を丁寧に湯呑みに注いだ。それを盆に載せて、皆に配って回る。
サチは、差し出された団子と茶を受け取り、軽く右手を上げて礼に代えた。その横柄な態度は相変わらずだが、月丹とボタンは全く意に介していない様子だ。
皆で団子をお茶で流し込みながら、和やかに談笑する。サチも時折、ふっと笑顔を見せた。剣弥は、初めて見るサチの、心底楽しそうな笑顔に、胸がキュンと締め付けられるような感覚を覚えた。剣弥の熱い視線に気づいたサチは、少し頬を膨らませ、ジロリと睨みつけた。
――かっ……可愛い……。何だ、この気持ちは……まさかこれが、曾孫の剣太郎が持っていた漫画で見た『ツンデレ』というやつなのか!?
あの手この手で、剣弥の心をくすぐってくる。剣弥は、可愛い相棒にすっかり心を奪われていた。
「さぁて剣弥! 腹も膨れたことだし、ちょっと外に出るぞ!」
月丹の明るい声に、剣弥は意識を引き戻され、二人で刀をボタンに預けた。月丹は、入口付近に立てかけてある二本の布袋を掴み、勢いよく外へと飛び出した。
すぐ隣の土地は、番所より少し広いくらいの空き地だ。遺体の安置や、乱暴狼藉を働いた輩を捕縛し、一時的に拘留しておくなどのスペースらしい。犯罪者に屋根など要らないというのは、近代日本では考えられないことである。
月丹は、布袋から二本の袋竹刀を取り出し、そのうちの一本を剣弥に向けて、勢いよく投げ渡した。ヒュン、という風を切る音と共に、袋竹刀が剣弥の胸元に飛んでくる。剣弥はそれを難なく掴み取った。
目の前の髭面の男は、まるで玩具を与えられたの子供のように目をキラキラと輝かせ、楽しそうに袋竹刀をブンブンと振り回している。その無邪気な様子を見ていると、剣弥の口元も自然と緩んだ。
さぁ、無外流の流祖、辻月丹の腕前を拝見させてもらおう。
剣弥は、右足を一歩前に踏み出し、両手で袋竹刀をだらりと下げる。下段の構えだ。重心を僅かに後ろに置き、獲物を待ち構える老獪な狩人のように、相手の出方をじっくりと窺う。
対する月丹は、反対に右足を少し後ろに下げ、袋竹刀を右脇に抱えるように構えた。先ほどまでの間の抜けたようなにやけ顔はどこへやら、その表情は一変している。眼光は鋭く、太い眉が吊り上がり、まるで獲物を射抜くように剣弥の目を睨みつける。
月丹の全身から藍色の剣気が、蒸気のように立ち昇る。剣弥も呼応し、空のように青い剣気が陽炎のように身を包んだ。
二人の対峙により、一瞬にして周囲の空気が張り詰めた。
初日に、あの宮本武蔵という化物の異常な剣気を体験しているのが幸いだった。真剣と袋竹刀の違いは勿論あるが、あの時のような底なしの威圧感はなく、臆することはない。
月丹が、摺り足でゆっくりと間合いを詰めてくる。その研ぎ澄まされた剣気に押されぬよう、剣弥も負けじと一歩前に踏み出した。月丹は、さらに右足を前に出し、竹刀を体の正面に構える正眼の構えに移行した。
竹刀の先端が触れるほどに、二人の距離は縮まる。フゥっと細く息を吐き出し、呼吸を整え、剣弥も正眼に構えた。
竹刀の先端を重ね、静かに小競り合いを始める。互いの呼吸を感じ取り、ほんの僅かな動きも見逃さないよう、神経を研ぎ澄ませる。
剣弥が、意図的に再度下段に構えを移行した、その瞬間、月丹の鋭い真向斬りが、剣弥の頭上目掛けて稲妻のように襲い掛かってきた。
咄嗟に、剣弥は右足で地面を強く蹴り上げ、身体を素早く捻り、紙一重でその斬撃を躱した。風を切る音が、耳元を掠める。
――好機!
しかし、体勢を崩すかと思われた月丹は、すぐに竹刀を引き戻し、再び正眼の構えに戻した。その動きの速さと安定感に、剣弥は舌を巻いた。
――大した体幹の強さだ……。
再び、互いに間合いを詰め、竹刀が先ほどよりも近い位置で重なる。剣弥は、ズイッと竹刀を突き出してみるが、月丹は容易には乗ってこない。
再度、竹刀をほんの少しだけ上に上げた直後、月丹は両膝を深く折り曲げ、竹刀を引いたかと思えば、流れるように鋭い突きを繰り出してきた。その突きは、まるで蛇が獲物を狙うかのように、正確かつ迅速だった。
その刹那、乾いた二本の竹刀の衝突音が響いた。
月丹は前のめりに体勢を崩し、剣弥の竹刀が、がら空きになった月丹の右小手を強烈に打ち据えた。月丹の手から、ハラリと袋竹刀が落ちる。
「クッソ! 見事な切り落としだ……」
「フゥ……背中が汗でぐっしょりだ……流石だな、月丹」
前原一刀流 切り落とし
相手の技の起こりに竹刀を合わせ、弾き落とす。それは、一刀流の基本であり、奥義とも言える至高の技だ。
現代剣道の切り落としは、ほぼ相打ちになる。切り落とし面と呼ばれる技だが、一刀流が使うそれとは、本質的に異なる。真剣勝負で相打ちになるような甘い技は使えない。技に合わせて滑り込ませるというよりは、的確に弾くという表現が正しい。
「俺の無外流は『初太刀で勝負を決する剣』だ。まさか、あの渾身の真向斬りが躱されるとはな……完敗だ」
月丹は、潔くそう言い放った。その表情には、敗北の色はなく、むしろ清々しさすら漂っていた。
「いやいや……たまたま下段に移行したのが良かっただけだ。二本目の突きには、本当に肝を冷やした。もっと、手合わせしたい」
気づけばいつの間にか、サチとボタンがすぐ横で二人の手合わせを固唾を呑んで見守っていた。
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