花外12

 空はしどろもどろになりながら、教えられた「名」という「しゅ」について説明すると、桔梗は次第に落ち着いたのか、あまりにも空の姿が哀れに見えたのか、怒りの矛を収めた。


「分かっておる。分かっておるからこそ腹立たしいのじゃ……名は仕方ない。じゃが姓はお止め。憎らしくて仕方がない。名乗るのならいっそ桜宮はどうじゃ?」

「それはそれで凄く目立ちそうですけど」

「己の定める位置を名乗りに使うのもまたひとつ。まぁ良い。文句はあの男に云おうぞ」


 それで名については仕舞いとなった。

 そろそろ時間も危ないだろうと暇を告げると、桔梗は来たい時に来いと云って見送ってくれた。それから訪ねてはいないが、そろそろヨミが育てた野菜が成る頃のため、近く訪ねることになるだろう。


「えっ、是空って桔梗様の知り合いなの?」

「うん」


 処は清川楼。少し早く到着した空は、夜が始まる前に女郎に休息を貰ったらしい明音と芝爺の部屋で雑談していた。どうやら馴染みの客が少し遅くなるようで、時間が出来たようだ。

 芝爺はまだ来ておらず、空が部屋で待っている時に明音が顔を出したのだ。姫飯を器用に両手に持って食べていたハクが、随分な塊を慌てて飲み込んだ音がした。


「すごーい! どんな繋がり?」

「師匠の昔馴染み、かな」

「桔梗様と繋がりのある師匠って、何してるの? そうそう居ないよ、草火のひとりである桔梗様と知り合うなんて! 菖蒲様は偶に街を歩いていらっしゃるからお姿を見ることはあるけど、桔梗様は店から殆ど出ないもの」


 然うらしかった。桔梗の評判は良く聞くけれど、馴染みの客や商店はなく、随分前に一度姿を見たことがある人が居る程度だ。菖蒲は基本的に花街に居るので、花外から出ない人はよく知らないらしい。ただあまり良くない噂はあった。


「お師匠さんって何の師匠? 是空の持ってる其の刀に関係あるの?」

「あるようなないような……今は畑仕事かなぁ」

「畑仕事ぉ? 是空ったら、偶に土汚れてるなと思ってたけど、そんなことしてたの? 今じゃ畑なんかやってる人殆ど居ないよ」


 それは闇皇の乱心によるものであるが、明音は抑もそうした仕事を好まないようだった。


「何処の人なの? 花街?」

「さぁ?」

「何で知らないのよ! じゃあどんな人? 男? 女?」

「男だと思う。蔵面を付けてるからよく分かんないんだ」

「蔵面?」

「紙のお面」

「何でそんなの付けてるの?」

「さぁ?」


 明音はヨミについてあれこれと尋ねるも、空は彼について何も知らないに等しいため、結局答えられたのは背丈ぐらいである。隣でハクが呆れたように息を吐いた。


「何にも知らないのね。つまんない!」

「ごめん……」

「是空って人に興味ないの?」

「ないわけじゃないけど」


 聞ける雰囲気でもないのが正解である。ハクはヨミを讃えるばかりで、肝心の為人は分からないままなのだ。ヨミも空と無駄話をするつもりはないようで、何処で何をしていたのかやどうして闇師になったかを聞くとただでさえ少ない口数が無になってしまう。


「じゃあ桔梗様は? 遠目に一回だけ見たことあるけど、やっぱり美人? うちの姐さんより綺麗?」

「皆綺麗だと思うよ。桔梗とは俺もまだ二回くらいしか会ってないけど、色々教えてくれるし、優しいよ」

「桔梗様を呼び捨てって、もしかして是空ってお得意様? それともお師匠さんがとっても偉い人で、その人の弟子だから?」

「いや、それは関係ないと思うけど……」


 何せいつか首を刎ねてやろうと狙われているくらいである。寧ろヨミの弟子でしかなければ空も歓迎されなかったに違いない。おそらく空の母が桔梗の大切な姫様だからだろうが、あまりそのことを口にしない方が良いだろう。

 明音は好奇心旺盛でお喋り好きなだけあって、少々口が軽いことがあるし、姐たちに口止めされたことも芝爺にこっそりと話してしまう。うっかり聞いてしまった空は、店の娘とあまり関わらないようにしようと思った。


「でもなんか納得」

「何が?」

「だって身形はいいのに、日銭稼ぐためにこんなとこに来るんだもの。訳ありだなって思ってたけど、桔梗様の個人的な稚児なら自分のお店で働くのは気まずいし、他のお店でお勉強みたいなもんでしょ?」

「ちょっと待って。俺と桔梗はそんなんじゃないよ!」


 稚児という言葉にハクは慌てて吹き出しそうになる口を前脚で押さえたが、堪えきれず空の背後でくっくっと肩を震わせている。


「違うの?」

「違うよ! 師父の知り合いで、花外に来た時に挨拶して、ちょっと気にかけてもらってるだけだ」

「ふぅん……何か狡い」

「狡い?」

「だって花外ここって、是空みたいな子はみーんなお客さん取ってるんだよ。男の子は体売らなくても良いのに、更に街の主と親しくって、面倒見てくれる大人がいるって、狡い」


 明音の素直な言葉に、空はどんな顔をして聞いていれば良いのか分からなかった。ただ、明音は芝爺に付いていた世話役がどうなったかどころか、陰間のことさえ知らないようだ。


「此の店でだって、芝爺の相手だけだし、それが終わったら銭貰って帰れるし」


 明音には夜の門の番について話していない。彼女の話だけを聞くと、見世で老爺の話し相手しかしていないように聞こえて、不満を持つのも仕方がないだろう。

 門番の仕事は大旦那に口止めはされていないが、門の場所はあれでも秘匿しているらしいので、どうしたものか。


「実は芝爺の講談が終わった後にも大旦那から仕事を頼まれてるんだ。その後帰ってるから、夜明けまでは店に居るよ」

「然うなの? どんなお仕事? あたしでも出来る?」


 突如明音は目をきらきらとさせて、何処でどんな仕事を任されているのか聞きたがった。


「出来ると思うけど、暗いし、それにその時間君は姐さんに付いてるだろ?」

「然うだけど……が始まっちゃえば正直居ても居なくても変わらないよ。呼ばれることなんて殆どないし」


 確かに夜半になって客と部屋に引き込む姐が、まだ水揚げも済んでいない妹に掛ける用事なんてほぼないだろう。

 それでも見世として、続きの小間に控えさせることにしている。万が一呼ばれた時に居なければ、叱りを受けるだろう。


「あたしの姐さんは他の姐さんと違って優しくないし、施しもあんまりくれない。食事の時だって廊下に座らされるんだ」


 明音の姐は上位であり、楼の中でも限られた部屋を使える立場である。大抵は妹を着飾って部屋の中に控えさせているが、彼女の姐は然うではないらしい。

 彼女はまだ禿と呼ばれる立場で、太夫と呼ばれる上級遊女から支援を得ながら、見世の商品としての価値を学んでいく。当然、太夫の身の回りの世話も行うが、汚れた物を綺麗にする、或いは汚れるような仕事を明音は好まない。

 空は彼女の不満を聞きながら、同意し難い気持ちを抑えて、大変だねと返していた。

 禿の食費や衣服の費用は太夫が出す。その為、自分の傍に置く禿への投資を惜しまない者と惜しむ者で明音達の身なりや生活は違いが出ていた。

 太夫は座敷を持つが、禿は大部屋で雑魚寝だ。つまり他の座敷の太夫に控える同僚との差が目に見えて、彼女はそれが大層不満らしい。

 しかし明音の身形は悪過ぎるわけではない。他の禿をあまり見かけない為比較が困難であるが、普段着として与えられるには充分であるし、客の前に出る時はまた別の衣を与えられていると云うから、それで良いのではないだろうか。

 一度然う云ってみたところ、女心の分からない奴だと罵られた為、それ以降空は聞くに徹することにしたのだ。因みに後からハクにも呆れられた。

 

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