花外10

 清川せいせん楼で芝爺の相手と夜の門番を始めてから数日経った。ハクは不満そうながらも空と行動を共にし、ヨミは夜の一時だけ様子を見るように来ては、夜明けの鐘がなる前に家に戻っていた。

 初めの日、家に戻ってから一番に驚いたのは、家の前の鬱蒼としていた田畑の果てが綺麗になっていたことだ。一反の田んぼと畑二面分は、どうやっても一刻二刻で出来るものではない。呆気に取られていると、黒衣を脱ぎ、襷を掛け、髪をひとつに結ったヨミが汚れひとつなく田畑の向こう側から歩いて来た。変わらず象面は付けたままである。


「師父!」

「丁度良かった。土を起こしておきなさい」


 然う云って投げて寄越された鍬を慌てて掴む。ずっしりとした重さが腕に響いた。


「えっ、今から⁉︎」

「早い方が良い。土が悪いから芽吹くのに時間がかかる」

「俺、一睡もしてないから寝たいんですけど……って、聞いてないし」


 云いたいことだけ云って、ヨミはまだ蒼々とした草木生える方へ行ってしまった。見張られていないのであれば、一刻だけでも寝ては駄目だろうか。


「師の云うことを破るのか? 勝手に他所で働くのを決めたのはお主よ。土起こしだって足腰を鍛える立派な鍛錬……鬼に負けてばかりのお主が、投げ出すのか?」

「負けてばかりも何も、一回だけだ!」

「襤褸雑巾のようになり、師の手を借り、剰えそれを忘れておいて、反論出来る立場かのぉ?」

「ぐっ……居なかった癖に、物怪が偉そうに云うな!」

「ハク様は物怪ではないと何度云えば分かるのだ! ほれ! 一日二日寝たらんでも死にはせぬ。行け行け!」

「えぇ〜」


 上と下の瞼がくっつきそうな程眠く、お腹も空いている。せっかく食材を買えたのに、食べる前から労働とは、何てことだ。しかも土を起こす範囲は広く、空は田畑を耕すことはあまりやったことがなかった。村では収穫時期の荷運びや家の修理など、一番人手がいる時に村長に手伝えと云われるだけだった。

 真っ黒な体に貼り付けられた村長の顔を思い出し、頭を振って追い出した。首のない赤子に、四肢が千切れた母親。物置小屋に隠した男性がどうなったかも分からない。村への戻り方も分からないのだから、考えても仕方のないことだ。

 頭がぐちゃぐちゃになりそうな時は、体を一心不乱に動かすのが良い。然う云えば鵺にも挨拶なしで去ってしまった。

 深く息を吸って吐き、天を見上げて、空はまず田んぼになる土を起こすために沓脱いで畦道を降りる。足の裏に土の暖かさを感じた。

 鍬を振り上げて、少し硬い土に突き刺し粗く掘っていく。正しく腰を落とさなければ早々に体力切れになり、体を痛めるため、修練と云われれば修練だが、徹夜な上に病み上がりの体には酷く応えた。

 それでも黙々と土を掘っていく空を、ハクは畦道からのんびりと眺めていた。

 然うしてヨミが田畑に戻って来た時のは日中を超えた後だった。殆ど土が起こされていないが、鍬を土に突き立てる音もしない。さて、空は何処に行ったかと思っていると、白い兎が田んぼの中で跳ねているのが見える。

 畦道を通ってそちら側に近づくと、ハクの足元には空が仰向けになって倒れていた。


「寝ているのか」


 ヨミの言葉にハクは動きを止めて彼を見上げる。そして一際強く蹴ってヨミの腕に飛び込んで来た。その背中を撫でながら、あどけない寝顔を晒す空を見る。

 警戒心もなく、すっかり安心しきって寝ている姿は、とても数日前に鬼に襲われたとは思えない。多くの人は極限の恐怖を体験したあと、その記憶をすっかり失くすか、恐ろしくて外に、特に夜には出ないものだ。

 肝が据わっているのか、何も考えていないのか、この少年は昨晩、人気のない場所でも平気な顔をしていた。ヨミにとって昔からまったく不思議な子どもである。

 ヨミは暫く赤子のような顔を眺めてから、放り出されていた鍬を手に取った。

 それから結局空が目を覚ましたのは、昼八つの鐘が鳴った後。よく寝たと身を起こすと、土がバラバラと落ち、周辺は土竜が遊び回った後のようになっていた。すっかり寝入ってしまった事に気がつき、慌てて立ち上がると、家の前にヨミが立っていた。

 背中がどっと熱くなり、汗が溢れ出しそうになる。任された仕事を放り投げて寝こけていたのだ。どれだけ叱られるだろうと身を固くして待っていたが、一向に一声さえも掛けられない。そっくりな案山子が立っているようだ。

 空は起こされた土の上を飛ぶようにして畦道に出ると、全力で師の元へ走った。


「あ、あの……」

「……」

「……すみません、寝てしまって」

「構わない。店に行く時間は?」

「えっと、夕七つには」

「なら水浴びをして、何か腹に入れておきなさい」


 ヨミはそれだけ云うと、畑の方に行ってしまった。今朝方見た姿と変わりなく、空のように土汚れひとつなかった。

 怒られなかったことに惚けていると、ドシンと何か重たい物が肩に落ちてきた。


「っだ!」

「情けないのぉ……師に任された仕事を放り投げて寝こけるとは。ハク様は恥ずかしくて仕方がなかったぞ。土を起こす師の横でぐうすかぐうすかと……ハク様はそんな教えをしたこはないのだがのぉ」


 大仰に、流れてもいない涙を抑えるように目に手を当てて嘆くハクを、空は半目で睨みつける。


「一睡もしてないんだ。夜中にあんな不気味な処で扉を見てたし……師父が居るから緊張したし」

「何を緊張することがある?」

「そりゃ顔覚えないくらい会ってなかったし、蔵面付けて表情分かんないし。俺を闇師にしようとしてるし、淡々としてるし」

「ほうほう」

「最初なんていきなり首に刀突き付けて来たんだぞ。機嫌損ねたらすぐ刎ねられる気がする」

「そんなことは無いだろうが」


 空はヨミに云われたとおり、水を浴びるために昨日水を汲んだ川まで行き、衣を脱いでおざなりに身を清める。冷たいが、土に塗れた後ではさっぱりして気持ちが良い。

 朝方買い込んだ物を簡単に調理して胃に収めると、天の明るさからしてちょうどよい頃合いになったようだ。

 夕七つの鐘が鳴る頃に店に着けば良いので、その前に桔梗の処に寄って、空は昨晩聞いた芝爺の話について、桔梗からも話を聞こうと思っていた。

 土埃を被った衣は川で洗い流し干してあるため、空は桔梗から貰った着替えの入った行李を開ける。入っている衣は、どれも冴えない色ではあるが、これは夜に紛れるように配慮されたのだろう。

 物が良いだけにまた汚してしまうことを懸念してしまうが、体の動きを邪魔しない作りは、気がつけば馴染んでしまって、つい自由に動いてしまう。


「もう行くのか?」

「うん。桔梗の処に先に寄る。師父、戻って来た?」

「まだよ」

「何処に居るんだろ……」


 随分見通しが良くなったとは云え、周辺全ての田畑が整えられたわけではない。草木の向こうに行ってしまったのであれば、小屋からは何も見えなかった。


「問題なかろう。どうせお主が店通いを辞めぬ限り、まともに修練出来しの」

「誤解を生みそうな云い方やめてくれませんか」


 まるでうつつを抜かして遊んでいるような物云いだ。空はきちんと労働しているのだから、心外である。


「ハクだって、あの扉気にならないか?」

「荒地に放って置かれた扉の残骸がか?」

「……あれ、本当に闇師関係ないの?」

「渡人があんな誰にでも見つけられる場所に扉を置いておくとは思えんのぉ」

「それは確かに……でも大旦那はそれでも稼いでるし、如何にも出そうな場所じゃんか。誰も近づかないから、彼処に置いたままなんじゃないか?」


 抑も扉を動かしても闇師につながるのかは謎である。


「まぁ丁度良さそうだし、お主は気にせずあの店に通っておれ」

「だから云い方!」

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