凌雲闇師
燈夜香藍
第一章 醒来
醒来1
其の光はこの国の何処までをも照らしているが、太陽の名を持つ街へは山に阻まれて、薄暗いことだろう。故に日輪鏡が生まれ、昼と夜が存在するようになった。
其の時人々は何を思ったのだったか。
湖面が映すのはひとりの少年だった。
「漸く馴染んだか──……」
◆
〝花街ニテ鬼現ル。数名ノ民死ス。光皇直轄警備隊、コレヲ制ス。又、黒キ衣現レ、警備隊ト交戦ス〟
空は腰に佩いている刀を杖のように地面に突き立て、だらしなく寄っ掛かりながら高札場に貼られた遅い速報を眺めていた。
此の報せが掲示されたのはつい先程のことであるが、鬼が現れたのは一月も前のことだ。
此の村は
今回だって村に訪れた青年のひとりが、花街の高札場に貼られた報せを一枚拝借して持ち帰っただけであり、
貼られた当初は、新しい出来事なんぞないに等しい村である。我こそ一番とばかりにこぞって見に来ていたが、既に解決済みで終わった話となれば散るのも早いこと。貼り紙を持ち帰った青年も書かれている以上のことは知らないと云うのだから、酒の肴にもなりやしない。
何せ此の国で鬼が出ることなんぞ珍しいことでもないからだ。
「どうやら磐座に近い街の端で鬼が現れたらしい。ほら、桜宮姫は体調を崩されてずっとお隠れになってるだろう? 光皇様がご自身の警備隊を出して助けてくださったんだそうだ。警備隊が到着してからは死者も出なかったらしい。ただそこに闇師の奴らが来て、ちょっとした揉め事になったみたいだ」
「磐座に近いとこって云ったら、
「嗚呼然うさ。花街の中までは鬼も入って来なかったと云うが、彼処は崖の中に作られた街だ。案外中から出て来たんじゃないかって噂さ」
「それでそれで?」
「それでって? これ以上俺は知らないよ! 花街の奴らだって詳しくは知らなかったんだ」
「何だよ、つまらねぇな」
青年の話に耳を傾けていた村人達は、其れ以上詳しい話が聞けないと分かると何だとばかりにちりぢりに場を離れて行った。しかし家に帰ればまた同じ話で暫くは盛り上がるに違いない。それくらい、此の村には目新しいことがないのだ。
高札場に残った数人のうち、ひとりがぽつりと溢す。
「にしても闇師の奴ら、不気味なもんだぜ」
「普段は通座に居るって噂だろ? 鬼が出てよくすぐに来たな」
「鬼居る所に闇師あり。案外、闇師の奴らが鬼を放してるんじゃねぇか? 何たって闇皇の手下じゃねぇか」
「自分らにしか倒せねぇ化け物放って稼ぎとは、まぁご立派な身分だな」
闇師とは夜にだけ現れる〝鬼〟を唯一滅することが出来る妖術使いのことで、闇皇の配下と云われている。
闇皇はその昔、大勢の民を殺戮したとして当時の光皇によって捕らえられ、天上の神々に消滅させられた。しかし配下の闇師は、大多数が通座に潜んでおり、鬼が出ると何処からか現れ、滅した謝礼金を民に求めるのだ。それは金子であったり、大層高価な調度品であったり、助けられた者が持つ中で最も価値のある物が多かった。
そんなものだから、人々は闇師を恐れ、毛嫌いしているが、鬼が現れれば闇師に頼むしかない。
あまりに高価な物を謝礼として要求するため、わざと鬼を放って人を襲わせているという噂もある。中には己の主を復活させるために鬼に人を襲わせ、適当なところで助けて金品を巻き上げていると云う者も居る。また、人を襲わせるのは主を殺した光皇への復讐だと考える者も居た。
しかし然う思ってはいても、鬼が出ればやはり頼らざるを得ない。人々にとって闇師とは何とも卑しい存在なのである。
「いつまでそんな報せを見てるんだ?」
「あ、ハク! お前何処に行ってたんだよ!」
ふと背後下方から声がして視線を向けると、山の麓に着いてからすっかり姿を消してしまったハクがちょこんと座っていた。
「勝手にどっか行くなよ! お前、村の人たちに食われちゃうぞ」
「ハク様が人なんかに負けるわけなかろう。呑気にちんたら歩いているお主が悪いのだ」
踏ん反り返るハクは野兎よりも長い手脚を持つ黒兎で、眼は黒猫のように黄色く、何とも面妖な動物である。
「まったく、師から離れて呆けた顔で瓦版に夢中とは。いやはや、幼児のようだ」
「師だって? お前のどこが師だよ。剣術の時は寝こけてるし、呪だってたいして知らないじゃないか!」
「何おう! 呪なんぞ唱えなくとも使えるようにならなければ行けないんだぞ! いつまでも形作りから入りおって! 神力もまだまだひよっ子のくせに!」
「人間に神力なんてあるわけないだろ? 上げるのは霊力!」
「霊力なんぞ上げて何になるのだ? はっ、お主の頭は変わらず可哀想だな」
「何だと? この物怪が!」
姿形は奇妙でありながらも、黙っていれば愛嬌、口を開けば堅苦しく偉そうな云い回しは、常に人を馬鹿にしているようである。
この調子で二人はいつも口喧嘩をしているのだが、決して袂を分つこともなく常に行動を共にしていた。
「ハク様は物怪ではない! 立派な神使であると何度云ったら分かるのだ!」
「お前なんか物怪で充分だ!」
ハクという黒兎は、空が物心つくまで共に居た師が、自分の代わりにと置いて行った。
ずっと共にいたため喋る兎程度の認識でしかなかったが、普通、兎は喋らない。神使なんてものを理解できるわけもなく、村の者がハクを指して「物怪か」と称した方が理解が容易かった。故に空の中でハクとは偉そうな喋る兎型の物怪なのである。
その認識にハクはたいそう怒って「神使だ」と主張するが、それらしい様子を見たことがない。また、幼い頃には理解できなかった神使という存在が、神の使いを示すことを理解した今でも疑わしいと思っていた。
「嗚呼嘆かわしい! どんなに教えようとも物怪が何なのかも分かっておらぬとは」
「生霊や死霊が化けた物だろ」
「ハク様はそんなものではない!」
「はいはい、分かりました。もう帰るよ。俺は刀の修練もしないといけなくて、寝てばかり散歩してばかりのお前と違って忙しいんた」
「寝てばかりとはなんだ! ちゃんと教えておるだろう」
良く云う。ハクは刀の修練となると最初のうちは起きていても、気がつけば丸くなって岩の上で寝ているのだ。日も暮れてもう帰るという時に起こすまで決して起きない。
毎回寝ることを揶揄えばハクはきぃきぃと騒ぎ、次こそ起きていると断言するのだが、未だに実現したことはなかった。
「空よ、刀の修練は別の場所でやらぬか?」
「何で? ハクがあの場所にしようって決めたんじゃないか」
「然うだが……何故かあの場所に
「あんな山奥に? 幾ら景色が良かったって村の人たちや旅人が来る場所じゃないよ」
ひとりと一匹が住む家は村から外れた山の中腹にあり、刀の修練場はそこから更に離れた場所にある。村全体を見渡すことが出来る開けた場所だ。
刀を手にしたのはここ数年のことであるが、師より云い渡された修練は山の中で行われており、場所も方法もすべてハクが指定している。刀も同様で、ハクが「此処にしよう」と決めた場所であった。
しかし刀の修練を始めてからすぐの頃、ハクは突然眠るようになり、いくら揺すってもピクリとも起きない。最初は何か不調を来したのかと思っていたが、ただ寝ているだけと分かってからは放っておいている。
刀の修練を終えるとハクは起きるのだが、最初は酷く驚いたようで、すわ敵襲かと随分煩かった。
それからも刀の修練の度に意識を失う──空からすれば爆睡している──ため、今日こそはと目を皿のように開いているものの未だ起きていられたことはない。
とうとう場所を変えようと思ったらしいが、空にも動きたくない理由があった。
家の前を通り過ぎ、いつもの修練場に行くと、空は袂を襷掛けにして軽く体を左右に動かす。
ハクは今日も一等街を見渡せる岩の上に登ると、結局四半刻もしないうちに転寝を始めてしまった。
やれやれと思いながら教わったとおりに刀を構え振り下ろす。一通り型を終えた頃、岩の上に人影を覚えた。
「鵺!」
転寝をするハクの隣に姿勢良く座る男は、ただ静かに空を見据えるとひとつ頷いた。
尾花に白の衣を合わせ、雪のように白い面と黒曜の目は人とは思えない美しさである。空よりやや年嵩に見えるが、充分に若い齢だろう。最も彼が人であるのならの話だが。
鵺は空が刀の修練を始めた日から暫くの頃、つまりハクが居眠りをするようになった日に何処からか突如現れた。
ハクが眠ってしまい、何度揺すっても起きず途方に暮れていた空の前に大きな影が差し込み、熊でも出たのかと振り返ったら、居た。
空の住む家に訪れる者は少ない。まして刀の修練場は更に森の中を抜ける為、村人が来ることはなかった。また、男は明らかに村人とは雰囲気が違っており、空は最初、何処かの宮から派遣された
悪いようには思えず、ぼけっと男を見つめていると、徐に腕を少し上げて空が傍に置いていた刀を指した。そして別の手に持っている剣をカチャリと鳴らす。
まさかこんな力量が歴然としている相手に道場破りのようなことをするつもりかと体を強張らせたが、男は剣を抜くことはなく、ただそのままの姿勢で空が動くのをじっと待っているようだった。
それから男は空の師となった。
彼は基本的に口を開くことはない。せいぜい首を縦に振るか横に振るかで、剣を抜いて相手をしてくれることはない。また、名前を聞いてもうんともすんとも云わず、師匠や先生という呼び方にはほんの僅かに納得し難いという顔をするものだから、空はいつしか彼を鵺と呼ぶようになった。これにはさして反応を見せなかった。
今日とて鵺は一言も云わず、巻藁を切っては鞘に刀身を納める動作を静かに見つめている。あまりにも静か過ぎて何も見ていないのかと思ったこともあったが、型が誤っていたり揺らいでいるとカチャリと剣を鳴らす音がして、しっかり見られていることが分かる。
いつだったか、人相手に刀を握ったことがない空は、何度か鵺に相手を頼んだこともあったが断られた。そして今日まで其れは変わらず、もっぱら空の相手は巻藁であった。
一度だけ、何のために刀を振るうのかと不満に思いすべての修錬から逃げ出したことがある。其の日の夜は夢見が大層悪く、夢の中で空は手脚を何度も捥がれ、腹には穴を開けられ、全身滅多刺しにされた。痛みに絶叫しながら、腹を見れば、突き出しているのは己の刀であった。
刀の修練を行えば悪夢は遠ざかり、怠れば近寄って来る。否が応でも刀を振るうしかなかった。
然うして数年、自分が成長しているのか分からないまま空は鵺の無言の指導の下、修練を重ねている。
暮六つの金が鳴る頃、漸く空は刀を下ろした。辺りには巻藁が散乱しており、空は其れをひとつひとつ拾い上げては岩の方へ投げ集める。すべて拾い終わって岩の方へ戻ると、いつもは暮れの鐘が鳴る頃には姿を消してしまう鵺が岩の下で立っていた。
「鵺、どうかしたのか?」
岩の上ではハクがまだ寝ていて起きる気配はない。
空は駆け寄り、随分と高い位置にある顔を覗くと、鵺は空の頭から足元までゆっくり見下ろして、彼の持つ刀に触れた。
「うわっ!」
すると突然、刀が鵺を拒絶するように火花を散らし彼の指先を焦がす。彼はさして痛みを感じた様子も驚いた様子もなく刀から手を離すと、空に抜くよう示した。
おそるおそる、そっと爪でつつくように何度か触れてから、空はゆっくりと刀身を鞘から抜く。刀は先ほど納めた時と変わらない姿であった。
「どうかしたの?」
「……君の刀だ」
其の声を聞いたのは何と久しいことだろう。鵺は本当に一言も話さず、声を聞いたのは初めて会った時だけであった。
低く深く落ち着いた声色は、感情を少しも感じないほど色がない。彼を知らない者は何にも悪いことをしていないのに叱られていると感じるに違いない。けれど空は何処か懐かしさを感じていた。
「俺の? どういうこと?」
此の刀は師よりお前の刀になるものだと渡された刀だ。しかし鵺が云いたいことは然う云う意味ではないようで、心なしか呆れたように目を伏せて鍔近くを刀に触れないよう指した。
よくよく見れば今までなかった文字が刻まれていた。場所からしても刀銘ではないだろう。
「凌、雲……?」
どういう意味だろうか。
分からず、何か他に分かるかと鵺に聞くが何の返事もない。怪訝に思って顔を上げると、既に鵺の姿は無かった。足音ひとつ、気配の欠片も感じさせることなく現れ消える。だからこそ彼を鵺と呼んでいるが、今消えるのはあんまりだろう。
次会った時はうんざりするほど文句を云ってやらねばと誓い、空は岩の上に飛び乗った。そしてぐうすかと呑気に寝ている黒兎を起こすことにした。
「ハク!」
此の黒兎は寝起きが頗る悪く、声を掛けただけでは起きぬし、揺すっても叩いても効果なく、剰え後ろ脚で蹴ろうとしてくるのだ。
結局無駄に長い耳を鷲掴みにして頭を思いっきり揺らして起こすことが最終手段ではあったが、今回空は最初から然のようにした。
「ハク、起きろって! 刀に何か文字が刻まれたんだ!」
「うぅ……」
「やいこの黒兎! 丸焼きにして食べてやろうか!」
「不届者め!」
金色の丸い目を開いてハクは比較的早く起きた。吊るす者と吊るされた物、暫くの睨み合いの後、ようよう頭が動き始めたのか、ハクは何度か目を瞬かせると長い後ろ脚で空の腕を蹴り上げ岩の上に戻る。
其の目は大変据わっており、また寝てしまったことに機嫌を損ねているようだ。しかし黒兎の機嫌を宥めている場合ではない。
「ハク、此れ見てよ」
「何ぞ?」
「此処、文字が出て来たんだ。何か知らない?」
ハクはまるで老眼鏡を片手に瓦版を読む老人のように目を細め、空の示した場所に文字が刻まれているのを見ると、岩を蹴って空の肩に移った。
「漸くか」
「漸く? 何が?」
「此の刀がお主の物に漸くなったということよ」
「師父からお前のだって渡されたやつだけど」
「やれやれ。ハク様が夜の見回りに行っている間、お主に読んでおくように云った教本を読んでおらぬな? 良いか? 刀というのは持ち主を選ぶものよ。此の刀は確かにお主の刀であったが、お主の刀ではなかった」
「意味が分からないんだけど……」
「これで名実共にお主の刀になったと云うこと」
つまり刀が主を定めた、空を認めたということらしい。
特に握りやすさが変わったり刀の重さが変化したり、そんな様子はまったくない為、空はやはり何が変わったのか分からなかった。
凌雲と刻まれた刀身を暫く眺めてから鞘に納める。カチャンとした音に合わせて下緒と一緒に括られた佩玉が揺れた。
「何か分かんないけど、取り敢えずお腹空いた! ご飯にしよう」
「ハク様は魚が良い」
「また魚ぁ? 嫌だよ、俺あれ嫌いだもん。今日こそ兎肉が食べたい!」
「この無礼者! ハク様の目の前で兎を食すつもりか!」
「此の辺にいる兎と全然違うじゃんか。お前みたいに長い脚なんて食べたくないやい!」
耳元で煩く非難するハクを落として、空は健全な男児らしく狩り用の弓矢を取るべく家に駆け戻った。
「ハク様を落とすな!」
ハクの苦情の叫びに空は適当に返事をして、振り返りもせず帰って行く。其の後ろ姿を見てハクはまったくと溜息を吐いて、夜を迎える山端を眺めた。眼下には昼間居た村が在った。
「凌雲、か」
月光柱が雲の合間から其の場所を照らしていた。
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