鹿
地衣類
鹿
19世紀まで、木々は悠久を
木々がざわめき、森林の息吹が湖岸に立つ私の頬を優しく撫でた。空が赤紫に染まりつつある。あと半刻もすれば完全に夜が明けることだろう。
「あの真っ赤になる湖をありがたがる気持ちがおれには分からんよ。一体どうしてだ?」
ふいにしわがれた声が響くと、隣に男が立っていた。中折れ帽を目深にかぶり、色褪せた革のジャケットを羽織っている。顔に深く刻まれた皺から、私より年かさが随分上だと察せられた。その好もしからぬ印象で、朝霧のなかで横顔がぼうと浮かび上っている。
「朝焼けを映す湖の美しさは、大自然の御業のようだと聞きました。昨晩おとずれたばかりですが、私には
すると男は肩を揺らしてくつくつ笑った。
「そう思うのか。なら教えてやる。あんたがいかに思い違いをしているかをな。何せ、おれはあの屋敷に昔住んでいたんだ」
男はポケットから煙草を取り出し、くゆらせるとおもむろに語りはじめた。
「屋敷に越してきたとき、おれは十二歳だった。おれとお袋、六つ下のライアンと三人で_ろくでなしのおやじに取り残されて_窮屈な貸間で過ごしていたのが、ある日、お袋はおれを呼びだして一枚の写真を差し出し、此処に引っ越したいかと尋ねた。
綺麗な風景だった。湖は深々と青く、目を見張る緑の草原に白塗りの屋敷。しかも格安な上、お袋には金のつてがいくらかあるらしかった。おれがふたつ返事でイエスと答えた翌週には、家族で屋敷の門をくぐっていた。
あり余るほど部屋があったから、埃をはらうのにおれもお袋も躍起になった。ライアンは天使のような金髪_おれの冴えない黒髪とは似ても似つかない_をひらひらさせてあちこち駆け回っていたが、とつと静かになった。何やら
おれは思わずぎょっとした。古ぼけた
それでも不安な日々にはうんざりしていたから、ひとまずは何もかも頭のなかから締め出して、あたらしい生活をはじめた。おれたちは日中を一階で過ごし、夜は階上で寝た。湖に面した一室がお袋の、その向かいにある、ヨタカのうるさい森に面した部屋がおれと弟の部屋だ。
しばらくは人生で最も穏やかな時間を過ごした。水浴びをするおれたちを見やりつつ、お袋が木陰で本を読んでいたのを今でも思い出すよ。だが、一つだけ気になることがあった。目を離したすきに弟がどこかに行ってしまうのは珍しくも何ともなかったが、様子がおかしいんだ。弟が決まってあの不気味な部屋にいるようになったからだ。いつもだらしない口元をぴったり閉じて、鹿をじっと見据え返してね。おれが腕を引っ張っても動じないほどだった。
だから、ある晩、すやすや眠る弟を起こさないよう、静かに部屋をぬけだし、おれは部屋で書き物をしているお袋に言った。あいつは人と違う、変わった奴だと。心の奥底で、ただの考えすぎだと、あなたはもっとへんだったわ、と笑い飛ばしてほしかったんだ。だが違った。とたんにお袋の表情は険しくなり、なんてひどいことを言うんだとおれを責めたてると、部屋から追い出した。翌朝『ママがいない』と弟が泣きじゃくるので扉をそっと開けると、お袋は窓から朝焼けの湖を見つめて泣いていた。
それからお袋も寝室に籠りがちになり、その埋め合わせをするように弟と鹿の交流も増えていった。ついにはおれまで妙な気分になった。きっかけは夢なんだ。大勢の男たちの声だけが響き、もうすぐだ、追い詰めろとおれを急かす。ずっしり重い手元を見ると、おれは猟銃をたずさえている。心臓の鼓動は激しく高まり、最後につんざくような声で奴らがわめく。目が醒めると、いつも冷や汗でぐっしょり濡れていた。
屋敷にきて半年がたっていた。
いつしか、おれは寝ても覚めても声が聴こえるようになっていた。
限界を迎えた月の晩、おれが乱暴に階上の部屋に押し入ると、お袋は隅でうずくまって泣いていた。花瓶は放り出され、壁紙はところどころ破かれている。おれはお袋に何があったのか聞いた。『何があったかですって?ええ、ぜんぶ教えてあげる』_お袋は虚ろな笑みを浮かべて言った。
かなりのやり手で、街じゃちょっとした有名人の男がいたが、仕事をしくじって、とんでもなく金を損した日があった。やけになって早々と職場を出ていき、邸宅に戻ると、若奥様と一人娘はお出かけ中で、新入りの女中がひとりいるばかりだ。男は腹の底がむらむらきて、女中を押し倒し、殴りつけ、服を脱がせ_単純な話だな。
こうして、女中はライアンを身籠った。仕事は続けられなかったし、月日がたつにつれ大きくなる腹を訝しんだおやじはお袋を問い詰めた。お袋がやむを得ず何が起きたか告げると、おやじは激怒し、外に出て行って二度と戻らなかった。お袋の金のつてというのは、金持ちに握らされた口封じか何かだったんだろうさ。
あたまのなかで声はますます大きくなり、おれに耳打した。だからおれは泣き伏すお袋を後目に例の部屋に向かい、ライアンに叫んだ。『お前のおやじは悪魔だ』と。だが、なおもライアンは鹿にとり憑かれていて、おれに気づかない。おれはあたまにきて、ふたたびなじった。『お前はおれの弟なんかじゃない!』少し間があって、あいつはガキっぽく泣きはじめた。いつものライアンだった。おれは少しは胸がすっとするかと思ったが、怒りはおさまらない。立ちすくむあいつの髪をわしづかみにして壁に打ちつけ、細い首に手をかけた時だった。
むっとする濃い血の臭いが部屋を充たして、おれは思わず手を離して顔を覆った。しばらくして臭いがおさまり、部屋を見やると、もうあいつはきえていた。部屋にはおれと鹿だけがいて、はじめてこの部屋をおとずれたあの日と同じ目でおれを苛んでいた。堪えかねて視線を窓にうつすと、月明かりを背に受け、木陰に走り去っていくライアンの後ろ姿がある。無我夢中で屋敷を飛びだし、夜明けまで探したがとうとう弟は見つからなかった。
呆然と屋敷に戻ると、お袋がどこにもいない。おれをあざ笑うかのように奴らの声も
屋敷もおれも、完全なもぬけの殻だ。差し込む朝日に誘われ、おれは窓に近寄っていった。ちょうどお袋が涙を流していたように。そして_ほら、あんたにも見える筈だ!」
男はわなわなと膝から崩れ落ちた。
夜明けが来ていた。それと同時に、男の言葉の意味をやっと理解した。
私は見たのだ。
陽光に照らされた、それほど遠くない湖岸で、狂った鬨の声をあげる狩猟者たち。
その傍らにある
旅人を
悍ましい血の呪いだけが
それから一陣の風が吹き、私は瞼をとじ、次に瞼をあけた時には、狩猟者も鹿も皆きえさり、あの男もいなくなっていた。
だが、鼻をつく血の臭いはいつまでも拭えなかった。
鹿 地衣類 @daisan_dissection
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