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 夫と過ごす休日はいつもシンプルで、穏やかだ。夫は自宅から徒歩で一〇分もかからないドラッグストアにも車で行く。佳奈恵は一切の荷物を持つ必要がないので、ポケットの無いワンピースだけを身に纏って、家を出る。夫が鍵をかけている間に、佳奈恵は踵と靴の淵の間に指を突っ込み、潰れてしまわないように履き直した。外は晴れと言っていい天気だったものの、それなりに雲も多く、夏特有の肌に突き刺さるような光線が降らない代わりに、湿気がものすごかった。茹だる熱気がどこか草臥れた緑の香りやアスファルトの匂いを孕んでいる。佳奈恵は早々に車に乗り込んだ。

 夫が新しい口紅を買ってくれると言うので、佳奈恵はドラッグストアの商品棚に備え付けの小さくてチープな丸鏡の前に立ち、背筋を伸ばして姿勢よく立っている。小さな鏡に夫の姿は映らないが、時たま口紅のスティックだけがフレームインして、佳奈恵の肌の前で色味を確かめられる。蛍光灯に照らされたサーモンピンク、チェリーピンク、コーラルピンク。ブラウン、テラコッタオレンジ、ワインレッド。フレームイン、フレームアウト、フレームイン、フレームアウト。佳奈恵は自分の力でものを選ぶということが苦手なので、夫がこうして佳奈恵の身の周りのことを整えてゆくのを、素直にありがたいと思っている。

 じっと鏡の中の自分を見つめる。唇が乾燥してやや罅割れている。頭が揺れて鏡の死角へ入ってしまわないように、土踏まずのあたりに均等に重心を置いている。

 夫は頷き、これにしよう、とそのうちの一つを買い物かごの中に入れた。声がかけられたのはそんな折だった。

 「あら、藤沢さんじゃない。こんにちは」

女の顔に見覚えがあったので、佳奈恵は名前こそ思い出せないが、その人物が同じマンションに住まう人であるとわかった。身綺麗な初老の女である。かけられた声は控えめで、顔見知りに気づいてしまった以上は、一応挨拶をしておこう、といった風情だった。佳奈恵は慌てて会釈をし、微笑んでみせる。

「一緒に買い物?藤沢さんちは仲がいいわねえ」

先ほどのシーンを見られていたのだろう。気恥ずかしくなって、照れ笑いを浮かべながら佳奈恵は顎を引く。確かに佳奈恵と夫は仲がいい。若い頃はともかく、最近では喧嘩もない。うまくやっている。そして、他人から夫婦仲がいいことに言及された時には、その後に繋がる言葉はいつも同じだった。お化粧を買ってくれるなんて、

 「良い旦那さんね」

 佳奈恵がうまく喋られないので、夫が代わりに首肯した。「そうなんですよ」と、「いやいや、そんな」の間みたいなそつのない返事を、夫は会話の中で極めて爽やかにやってみせる。佳奈恵はその手腕にほっと胸を撫でおろすが、笑みだけは崩さないように気を付ける。いつでもにこにこと笑っていられるのは、佳奈恵の特技だった。マスクをしていても笑っているのがわかるように、下瞼をしっかり盛り上げて笑みを形作る、幸福な妻を形作る。そうして自分を俯瞰する。柔らかいダークブラウンに染めた髪が乱れていないか、ワンピースに皺がないか、汗染みや体臭がないか、爪先が綺麗に整っているか。靴に泥が跳ねたり、砂埃で白くなってしまったりしていないか。ひとつずつにチェックマークを書き入れてもまだ、他人の視線の中に佳奈恵には見えないチェック項目が存在している気がしてしまう。

 通り一遍の世間話を終えたそのあとも、佳奈恵は買い物かごに野菜を入れ、豆腐を入れ、卵を入れるたびに積み木みたいにそれらを整える羽目になった。きっちりと角を揃え、乱れなく、崩れないように。割引シールの貼ってあるものや出来合いのお惣菜には目もくれなかった。夫は店員にクレジットカードを渡して、店員は商品をエコバッグの中に極めて整然と詰め込み、佳奈恵は一言も発さず、何もしないまま店を出た。

 駐車場に停めた車に夫は買い物袋と佳奈恵を載せ、いつもどおりの恐ろしく滑らかな手つきで手順をこなす。つまり、エンジンをかけ、サイドブレーキを降ろし、ギアを替えて、アクセルを極めて緩やかに踏んで発進する、その手順を。こうして夫の正しさに触れるとき、佳奈恵は目を閉じる。この人の妻でいられる幸福を忘れないように。偶然出会った同じマンションに住むおばさんや、店員のお姉さんの前に立った夫の背中を思い出す。夫は体格が良く、愛嬌があり、人に舐められない。佳奈恵にはない美点だ。

 目を閉じている分、エンジンのかすかな震えや道路の僅かな凹凸がもたらした車体の振動が佳奈恵の身体を揺らすのがはっきりわかる。その揺れが佳奈恵の心に浮かんだ感慨を指の先まで行き渡らせる。――この人と結婚できてよかった。夫の収入は容易く佳奈恵を養い、夫の社会性はいとも簡単に佳奈恵を守護する。おかげで佳奈恵はワンピース一枚なんて薄っぺらな格好でも、凍えることなく『幸福な奥さん』であることができた。立派な男性に愛される女性でいること。その恵みを享受すること。瞼でエアコンの吐く湿気を帯びた微風を受け止めながら、パンプスの中の足の指をぎゅっと丸める。来る。指の間はじっとりと汗に濡れている。どれだけ追い付かれたくないと願っても、声は容易く佳奈恵に追いつく。

「佳奈ちゃんは今、幸せ?」

 佳奈恵は飛び上がった心臓を落ち着かせるために呼吸を深くしながら、頷いた。

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