砂漠をゆく

魚木まる

第1話

 何もない、砂漠の地だった。乾いた風に吹きさらされ、黄色い薄布がかかったようにも見える。空はどこまでも青い。俺はその無垢な単調さと一種の解放に囚われ続けるような感覚があった。

 この世界には奴隷がいた。彼らは朝から晩まで働き詰めで、やっと食っていけるような暮らしをしていた。それを雇う裕福な支配者もいた。大きな宮殿の中で、何不自由ない暮らしをした。喉が渇けば、果実で爽やかに味付けされた水を飲み、腹が減ったら大皿に盛りつけられた豪勢な食事がでた。しかも、自ら用意する必要もなかった。それは奴隷たちの仕事だった。

 そのどちらが良い暮らしであるかなど、聞かれるまでもないだろう。身分が上であるほど、財を持っているほど、召し抱える人物が多いほど、優れた人物であることは子どもにだって分かる。

 そういった世の中の理は、時代が進むほどより明確なものとなっていった。俺たちの人生は生まれによって決まる。奴隷の子は奴隷に、王の子は王に、商人の子は商人に、これは覆されることのない決まり事だった。裏を返せば、それに従ってさえいればそれ以上の苦しみはなかった。

 ただ、常に例外はあった。絶対ということはありえないのだ。不思議なことだ。他の生き物は、みな生まれた形の通り生きていくのに。猫が犬になることはあり得ないし、その逆もまたあり得ない。駱駝は荷を運ぶ。鰐は水辺に集う。蛇は地を這う。鷲は空を飛ぶ。彼らはお互いにその生きざまを見ているはずなのに、決して自分の領分を外れることはない。

 一方人間は、自らのあるべき生き様を捨て、新しい人生を選択することができる。それがたとえどんな苦しみに満ちていようとも。人間は知を得た。それと同時に、愚かさも得た。まさしく俺は、愚かな行いをしようとしている。しかも考えうる限りもっとも愚かな行いだ。

 蛇が鷲に憧れを抱いても、鷲が蛇を羨むことはないだろう。それと同じく、奴隷が王になることを夢見ても、その逆はあり得ない。それならば、どちらが自由であろう。奴隷だと俺は思った。

 俺には腹違いの弟がいる。彼の母親は娼婦だった。だが今は、夫の宮殿に住まい豪奢な服や宝飾品を身にまとい、食べるものの心配をする必要もない。俺の母親は数年前に死んだ。母は古い血統を持つ家の娘で、この家の跡取りは俺と生まれた時から決まっていた。だが、弟が生まれて実はそうではないのかもしれないと思い至るようになったのだ。幸か不幸か、弟も継母も俺のことを邪魔に思っているようだったから、俺は自分の決意をより強いものとしたのだ。

 彼らにとっては、俺の不幸が幸せなのだ。ならば、これほど都合の良いことはない。是非ともこの座を譲りたい。

 父親は俺が出ていくことに、賛成も反対も言わなかった。ただ、ある晩こう俺に言った。わたしは生きている人間を幸せにしたいのだと。お前の母親はもう死んだ。だから、お前がどうなろうと喜びも悲しみもしない。新しい妻とその子どもは生きている。お前がそれでよいというのなら、わたしは彼らの望みをかなえてやりたいのだと。俺もその通りだと思った。

 俺は俺で、自分の望みを叶えたかった。俺は何者としても生きなくなかった。できるのなら死んでしまいたかった。死んでもう一度新しい人生を、ここではない場所で始めたかったが、それには懸念があった。俺が俺でなくなってしまうということだ。俺は何者にもなりたくなかったが、ただ自分であることをやめるつもりはなかった。

 俺は夜明けに、西へ西へと向かった。西には緑の王国があると聞いた。豊かな水と、木々の生い茂った大地、花の咲く丘があるという。初めは東へ向かおうとした俺に、父親がそう言ったのだ。西へ行け、これが父の最後の頼みだと言った。沈む太陽を追いかけた。俺の影は後ろに長く伸びた。俺の故郷がある方角に黒い影は伸びた。

 夜は布を張ってその中で眠った。案外朝晩は冷えるのだった。布の切れ目から星空を見た。無数の目がこちらを覗いているように見えたので、俺はそれを一つ一つ見つめ返した。星々だけが、俺の行く末を知っているのだろう。俺はもはや何者でもなくなっていた。これが望んだ自由か、と思うと胸がいっぱいになる気がした。それと同時に砂の底から伝わってくるような冷気が俺の心にも流れ込んでくる気がした。俺は一体何者なんだ。

 俺は何者にもなりたくなかった。だが自分であることをやめたくなかった。その二つは同時に成立しないのだ。俺にはなんの肩書もない。誰もいない砂漠の中で、俺の名は何の役にも立たない。俺は自分自身が俺であることを証明する手立てがなくなってしまったのだ。

 俺はかなしかった。これほどまで、空虚な思いを抱えたことはなかった。やたらと大きいのに、持ち上げると空気のように軽い。涙が砂に吸い込まれて跡形もなく消え去った。故郷には俺の家がある。俺の眠っていた部屋がある。衣服がある。靴がある。父親もいる。だが今の俺には何もない。

 自由に投げ込まれたとたん、そこには頑丈な鍵がかけられる。もはや自由になる以前の生活に戻ることはできないのだった。俺は自由であること以外許されなかった。

 それでも西に向かった。緑の王国を目指した。俺には帰る場所がない。だから歩くしかない。もはや自分の望みですらなかった。そうするしかなかった。俺がそれを目指す理由はどこにもない。故郷で生きる意味がなかったように、西へ向かう理由もなかった。俺はすでに自由の中にいるのだから、どこへいっても意味がない。俺は、早くこの自由から脱したいと心のどこかで願っているのだろうか。

 そんな時、ふと父の顔が思い浮かぶのだった。西へ向かえ。そう父が言ったのだ。父親の跡継ぎという立場を逃れてきた俺が、結局父の言うことを聞いているのだからおかしな話だ。けれど、今はその言葉だけが俺の杖だった。

 俺が故郷を発つ日に、父はまた会おうと言った。俺は何も言わなかった。もう二度と会うはずがなかった。今思えば、何か言うべきだったかもしれない。会うことがないと分かっていながら、俺はまるで明日も会えるような気がしてしまったのだ。別れはそういうものだった。母もそうだった。また明日の朝会えると思っていた。だがその明日はいつまでたっても訪れなかった。

 弟にはその前の晩に別れの挨拶をした。明日からお前が跡取りの座につくのだと。その時初めて、彼は俺のことを兄と呼んだのだった。今となってはどうでもいいことだが。継母は、なんと馬鹿な真似を、と言ってせせら笑った。俺はどうぞお幸せにと返した。彼女は、今まで沢山の不幸な目に会ってきたのだろう。だから、これから幸せになればいいと思った。

 さて、俺はどうしようか。これから、幸せにならなくてはならない。そうでなければ、あそこを出た意味がない。俺は苦笑した。結局俺は囚われている。人間の単純な価値基準に従って生きる方が容易いのだ。俺は、自分自身だけであることにもうすっかり飽きてしまった。一月ももたなかった。

 羅針盤を読み、地図を確かめた。水や食料もそろそろ底をつき始めていた。足が痛い。月や太陽は交互に空を昇って月日がたつのを告げた。俺は歩くのをやめなかった。

 緑の王国が見え始めた。俄然やる気が湧いた。俺の目指すべき場所はあそこだ。とにかく今はたどり着きたい。その先に何があっても無くても。未来のことはその時考えればよい。足が軽くなった。あれは蜃気楼でも幻でもない。これから生きる新しい地だ。


 息子は旅に出た。うまく逃げおおせたのだった。わたしのように身動きが取れなくなる前に、賢い息子は国を逃れた。

「よろしかったのですか」

西の方を見ていたわたしに、小姓がそう尋ねた。これが良い選択だったのかどうかは、彼の決めることだ。私は何も言うまい。

「国王陛下がおっしゃることには、いずれ西と戦が起こるだろうと……」

息子はわたしよりずっと長い時代を生きるだろう。わたしは生きているものを幸せにしたい。けれどいずれ人は死ぬし、全てのものを等しく幸福にすることなどなしえないことなのだった。

 だからわたしは、最後に自分の欲に従うことにしたのだった。逃げられる内に息子を逃がしたかった。西の国はここよりずっと豊かな国であると聞く。

 また会おう、息子よ。その時にはもう親子の縁がすっかり消え去ってしまっていても。

 真昼の空には太陽が昇って、砂漠の砂は黄金に輝いているのだった。

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砂漠をゆく 魚木まる @uoki_maru55

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