第3話 境界遊歩

「現地出動、ですか?」


「そう。晴真くんにも、そろそろ現場の空気を味わってもらおうと思ってね」


 九重の言葉に、俺は自然と背筋が伸びた。


 記録管理課での仕事は、ひたすら“仕分け”。

 紙資料を読み、能力を分類し、記録する。静かで、誰にも知られず、誰も傷つけない仕事だった。


 けれど、ナイ課では違う。


 ここでは、“分類できない存在”に直接触れる。

 ――それが、俺たちの仕事だった。


 ***


 現地は、郊外の住宅地と山林の境界にある旧道だった。


 舗装は剥がれ、雑草が生い茂る。

 道の奥には封鎖されたトンネルが口を開けていた。


「昔、異能災害が起きた場所だ。周囲の地形も歪んでて、今は立ち入り禁止区域になってる」


 ミカが端末を操作しながら言った。


「観測ログは?」


「あるにはあるけど、ほぼノイズ。見てみるか?」


 画面に流れる映像。

 奥のトンネルの先に、“誰か”がいる。


 少女のような輪郭。

 けれど、視界が揺れてピントが合わない。

 髪の色も服の柄も、見るたびに違って見える。


「……見えるけど、見えない」


「そういうやつさ。あれが、“分類できない存在”」


 一条が無言で前に出た。

 トンネルの前で立ち止まり、手を上げる。空気が揺れる。


 だが、反応はない。

 まるで“何も存在していない”かのようだった。


「支配系……でも精神系にも近い。どっちつかずのまま、測定できない」


 ミカの声がわずかに震える。


「数値が合わない。これ、明らかにスケール外だよ」


「……行きます」


 俺は一歩、前に出た。

 右手に手帳。左手はわずかに震えている。


(“分類”できるのか? いや、“名前”を与えられるのか……?)


 目の前の存在は、確かに“そこにいる”。

 でも、それに触れたら――何かが戻らなくなる、そんな感覚があった。


 それでも、俺は手を伸ばした。


 瞬間。


「……っ!」


 視界が、ぐにゃりと歪んだ。


 空間の奥行きが狂い、地面が静かに軋む。

 風が止まり、音が消えた。

 いや――正確には、“音が存在していたという記憶”が、削れた。


(これは……分類不能じゃない。“分類の外”だ)


 だが、俺の異能は反応していた。


 手帳のページに、かすかな文字が浮かぶ。

 それは俺が“書いた”のではなく、

 気づけばもう、そこにあった。


 【観測対象:不明】

 【形態:擬似人格型】

 【属性:境界】

 【仮称:“遊歩者(ワンダラー)”】


 その名が現れた瞬間、“彼女”は踵を返し、

 トンネルの奥へとゆっくりと消えていった。


 何も言わず、何も残さず。

 まるで――“名前を与えられるのを待っていた”かのように。


 ***


 帰りの車内。


「初現場にしては、まあ上出来じゃん」


 ミカが助手席で軽く笑った。


「体、大丈夫か?」


「……ちょっとだけ、“何か”がズレた気がします」


「そりゃそうだ。“名前を与える”ってことは、

 世界に“存在を確定させる”ってことだもん」


「君はまだ、“名前の重み”を理解していない」


 九重の言葉に、背筋がぞくりとした。


「でも、それでいい。ゆっくり学んでいけばいいさ」


 俺は小さくうなずいた。


 ***


 局に戻ったあと、記録室の片隅を整理していたときのことだった。


 誰も使っていない古い書庫。

 その最奥に、焼け焦げたような一冊のファイルを見つけた。


「……これは」


 背にはラベルもない。開くと、ほとんどのページが黒く焼けていた。

 けれど、最後のページだけ、かろうじて読み取れた。


 【記録不能案件 No.000】

 【仮称:NULL:000】

 【記録者:…………】


 その欄に、名前はなかった。


(記録者の名前すら……残ってない?)


 思わず、ファイルを閉じた手が震えた。


 それが恐怖か、それとも――

 どこかで知っている“何か”に触れた感覚だったのか、自分でもわからない。


 ***


 その夜。デスクに戻ると、引き出しに一枚のメモが挟まれていた。


 手書きの文字が、一行。


 『分類とは、世界に“名を刻む”ということだ。忘れるな』


 九重の筆跡だった。

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