異世界に落ちたら聖女代理でした

mynameis愛

第一章:異世界への召喚と“間違い”の始まり

 安岡奏多は、校舎裏のベンチに腰を下ろし、少しだけ背を丸めてため息をついた。春先とはいえ、まだ冷たい風が頬を撫でていく。鞄の中からお気に入りの小さな手帳を取り出し、昨日の出来事を思い返しながらページをめくる。

「また、やってしまった……」

 周囲に溶け込みたいと願いながらも、つい自分の考えを口にしてしまい、結果的に距離を置かれてしまう。友達の輪の中に入りたい気持ちはあるのに、どうしても一歩が踏み出せない。そんな自分に嫌気がさし、反省のメモを綴り始めた時だった。

 突然、目の前が白く輝いた。まるで世界そのものが光に飲み込まれたかのような感覚。目を凝らしても、何も見えない。ただ、意識がぐらつき、頭が割れそうに痛む。体が浮遊感に包まれた瞬間、足元が不安定になり、ぐらりと揺れる感覚に襲われた。

「え、なに……?」

 耳元で誰かが叫んでいる。振り向くと、中込淳平が驚いた顔でこちらを見つめていた。校舎裏にいたはずの彼が、どうしてこんな場所に――と考える間もなく、二人は強烈な光に包まれた。


「ようこそ、神託に選ばれし者たち!」

 光が収まり、奏多が目を開けると、そこには見知らぬ壮麗な宮殿が広がっていた。床は磨き上げられた大理石、天井には豪華なシャンデリアが煌めき、壁一面に描かれた神話のような絵画が視界に入る。

「な、何ここ……?」

 奏多の呟きは震えていた。体が重く、足元がふらつく。そんな中、隣で立ち上がった淳平が、全く動揺を見せずに目を輝かせている。

「うおー! なんだこれ、めちゃくちゃファンタジーじゃん! すっげえ!」

 彼の声が響き渡ると、周囲に集まっていた人々がひそひそとささやき合い始めた。甲冑を身につけた兵士や、ローブを纏った神官たちが、敬意を込めて二人を見つめている。

「お前ら、何者なんだ?」

 少し年配の神官が一歩前に出て、淳平をまじまじと見つめた。淳平は悪びれもせずに答える。

「俺? ただの高校生だよ。てか、ここどこ?」

 その答えに周囲がざわめき、神官は深くため息をついた。

「やはり……間違いかもしれん。しかし、神託に記されし救世主が異世界から現れると……」

 奏多は、突然の出来事に頭が追いつかない。救世主? 異世界? 冗談のような言葉が現実として突きつけられる中、足が震え出す。

「ちょ、ちょっと待ってください! 私たちはただの学生です。救世主なんて……」

 神官の顔が険しくなる。その時、王冠をかぶった壮年の男性がゆっくりと歩み寄り、二人を優しく見つめた。

「落ち着きなさい。おそらく混乱しているのだろう。我が名はアレクシス王。この国、エルトリア王国を治める者だ。君たちの名前を教えてくれないか?」

 淳平が一歩前に出て胸を張る。

「俺は中込淳平! こっちは安岡奏多。突然こんなところに連れてこられて、びっくりしてんだよ!」

 奏多は思わず肩をすくめたが、淳平の勢いに押されて何も言えない。

「なるほど。中込殿、安岡殿、ようこそエルトリアへ。しかし……」

 王の顔が曇った。

「本来、神託により召喚されるはずだったのは“聖女”ただ一人。しかし、現れたのは二人。しかも、聖女の証もない……」

「証って?」

 奏多が尋ねると、王は少し困ったように説明を始めた。

「聖女には、異世界から来た者である証として“聖なる光”が宿るはずだ。しかし君たちにはそれが見えない……どうやら、間違えて召喚してしまったようだ。」

「間違いって……そんなことあるんですか?」

 奏多が半ば呆然と尋ねると、神官たちが顔を見合わせ、申し訳なさそうにうなずく。

「実は、聖女を召喚するための儀式が不完全であった可能性がある。だが、ここまで来てしまった以上、君たちが救世主として役割を担ってもらうほかない。」

 その言葉に、奏多の顔から血の気が引いた。役割? 救世主? 冗談のような話が現実として押し寄せる。

「でも、私たちは何もできません。救世主なんて……」

 その時、淳平が軽く笑って肩を叩いた。

「おいおい、せっかく面白そうな場所に来たんだから、何とかなるって!」

 奏多は信じられない思いで彼を見つめた。その無鉄砲さが今は不安でしかない。自分が何もできない無力感と、淳平の無計画さが混ざり合い、胸の中で複雑な感情が渦巻いていた。

「神託は絶対です。二人とも、この国を救う使命を果たしていただきます。」

 王の言葉が重く響く中、奏多はただ唇を噛み締めることしかできなかった。


 歓迎の宴が開かれるという知らせを受け、奏多と淳平は案内された広間に通された。煌びやかなシャンデリアが天井から吊るされ、長テーブルには豪華な料理がずらりと並んでいる。皿の数も尋常ではなく、料理の種類も色とりどりだ。しかし、その中に漂う独特な香りが、奏多の鼻をくすぐった。

「すげー、豪華な食事じゃん!」

 淳平は歓声を上げ、さっそくテーブルの前に座り込む。だが奏多はというと、どこか浮かない顔で周囲を見回していた。異世界に突然召喚された上、救世主だと言われても現実感が湧かない。それどころか、少しも食欲がわかなかった。

「召喚された方々、お口に合うと良いのですが……」

 王に仕える料理長が微笑んで声をかけてきた。奏多は少しだけ頭を下げ、皿に盛られたスープを一口すくった。しかし、その瞬間、思わず眉間にしわが寄る。

「これ、なんか……変な味がする……」

 呟きが漏れたことに気づき、奏多は慌てて口を手で押さえた。だが、その声を淳平が聞きつけたようで、にやりと笑う。

「お、奏多がグルメ評論家になった!」

「そんなつもりじゃないけど……ただ、このスープ、味がぼんやりしてて……」

 料理長がその言葉を聞きつけて、少し顔を曇らせた。

「失礼しました。もし改善の余地があれば、ぜひお教えいただきたいのですが……」

 奏多は目を丸くした。異世界の料理を批判するなんて、そんな恐れ多いことを言うつもりではなかったのに。だが、料理長の真剣な表情に押され、思い切って口を開いた。

「えっと……素材そのものの味が消えちゃってる感じがして……多分、香辛料をかけすぎてるんじゃないかと……」

「香辛料?」

「はい。素材の味を引き立てるつもりが、逆に香りが混ざりすぎて、肝心のダシが負けちゃってる感じがします。」

 料理長が深くうなずくと、王や周囲の貴族たちも興味深そうに耳を傾け始めた。

「なるほど……この地の調理法では、味を強くするために香辛料を多用します。しかし、異世界の流儀では素材を重視するのですね。」

「日本では、素材そのものの旨味を活かすことが多いです。香辛料を控えめにして、その分ダシをしっかり取るといいかもしれません。」

 料理長は感心したようにメモを取り始めた。すると、他の料理人たちも集まってきて、奏多の言葉を真剣に聞き入っている。

「へえ、奏多って意外と料理詳しいんだな」

 淳平が笑いながら肩を叩くが、奏多は気恥ずかしさで顔を赤らめた。

「いや、ただ家で料理するだけだから……」

「それでもすごいよ。異世界の料理人を黙らせるなんて!」

 奏多は小さく笑った。異世界で初めて、自分が役立ったような気がして、少しだけ心が軽くなった。


 しかし、歓迎の宴の後、奏多は一人中庭に出て、冷たい風にあたっていた。大理石の噴水が静かに水をたたえ、その表面に揺れる月の光が心を落ち着かせる。

「どうして、私なんかが召喚されたんだろう……」

 ふと漏れた言葉が、夜空に吸い込まれていく。淳平のように前向きに考えられればいいのに、自分はどうしても不安ばかりが募る。

「救世主なんて、大それたことできないよ……」

 その時、足音が近づいてきた。振り返ると、淳平が手を後頭部に回しながら歩いてくる。

「お前、こんなとこで何してんだ?」

「ちょっと、考えごとを……」

「また悩んでんのか? 召喚されたこととか?」

 淳平がズバリ指摘し、奏多は驚いたように目を見開いた。彼はニッと笑って、噴水の縁に腰を下ろす。

「まあ、普通に考えたらびびるよな。異世界で救世主とかさ」

「そうだよ。私なんかじゃ無理だって……」

「けど、さっきの料理の話、すごかったじゃん。料理長があんなに真剣に聞き入ってさ。お前、ちゃんとできてんじゃん」

「それは……ただ思ったことを言っただけで……」

「それができんのがすごいんだって。普通、ビビって言えねえよ」

 淳平の言葉に、奏多の胸が少しずつ温かくなる。彼の何気ない励ましが、いつも自分を支えてくれていることに気づく。

「ありがとう、淳平……」

「おう! 俺も役に立つとこ見つけてやるよ。絶対面白いことになりそうだし!」

 奏多は思わず笑みをこぼした。彼のポジティブさが、少しずつ心に染み込んでいく。そうだ、どうせなら少し前を向いてみよう。まだ何ができるかわからないけれど、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

「頑張ってみる。少しずつだけど……」

「おう、それでいい!」

 中庭に響く淳平の声に、奏多も小さくうなずいた。夜空の月が、二人を静かに見守っている。


 翌朝、奏多はまだ慣れない異世界のベッドからゆっくりと身を起こした。天井の彫刻が美しく浮かび上がり、窓の外からは爽やかな光が差し込んでいる。王城の部屋は広く、寝心地の良い羽毛布団に包まれていたが、心の奥にはまだ不安が残っていた。

「今日からどうすればいいんだろう……」

 独り言を呟いた瞬間、ドアが勢いよく開き、淳平が元気よく飛び込んできた。

「おはよう、奏多! 朝飯の時間だってよ。めちゃくちゃ豪華らしいぜ!」

「あ、うん……」

 その元気さに圧倒されながらも、奏多はゆっくりと支度を始めた。

 食堂に案内されると、昨日の晩餐とはまた違った趣向の料理がずらりと並んでいる。焼き立てのパンに新鮮な野菜、肉の煮込み料理が湯気を立てている。周囲では兵士や神官たちが朝食をとっており、和やかな雰囲気だ。

 淳平はさっそく席に座り、大皿からベーコンを取り分け始めた。

「すげー、肉が柔らかそうだぞ! いただきまーす!」

 その無邪気な姿に、奏多は少しだけ笑ってしまう。いつもこうやって前向きで、何も恐れず楽しんでいる。自分とは正反対だ。

「おや、お目覚めになりましたか」

 声をかけてきたのは、昨日会った神官の一人だった。白髪交じりの髭をたくわえた壮年の男性で、優しげな表情を浮かべている。

「昨日は驚かせてしまいましたね。改めてご挨拶させていただきます。私は神官長のバルドと申します」

「安岡奏多です。あの……昨日の話なんですけど、本当に私たちが救世主なんでしょうか?」

 奏多が疑問を投げかけると、バルドは少し困ったように首をかしげた。

「実は、我々も完全には把握しておりません。神託には“異世界より来たる救世主”とありますが、具体的な姿や力については曖昧でして……」

「でも、私たちには聖女の証もないし、役に立つかどうか……」

「それでも、召喚が成された以上、何か意味があるはずです。少なくとも、異世界から来たという事実が、神託の一部を成しているのかもしれません」

 淳平がベーコンをかじりながら割り込んできた。

「ま、来ちまったもんはしょうがねえし、できることからやればいいっしょ」

 その無神経とも取れる発言に、バルドは一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。

「そうですね。そのお考え、大切だと思います。まずは、この世界を知ることから始めてはいかがでしょう」

「この世界を……」

「ええ。エルトリア王国は、豊かな自然と多様な種族が共存する国です。しかし、近年は呪いの影響で土地が荒れ、人々が病に倒れるという異変が各地で起きています」

「呪い……」

「そうです。特に北部地方は深刻で、現地の村からも救援要請が相次いでいます。しかし、呪いの原因が解明されておらず、王国の魔術師団も手を焼いている状態です」

 奏多は真剣な表情でバルドの話を聞いていたが、ふと淳平の言葉が脳裏をよぎった。

「面白そうじゃん!」

 彼の無鉄砲な言葉が、少しだけ勇気をくれる。自分に何ができるかはわからないが、少しでも人の役に立ちたいという気持ちはある。

「その村に、私たちも行ってみたほうがいいんでしょうか?」

「そうですね。まずは現地の様子を知り、何かできることがあれば協力いただけると助かります」

 奏多は小さくうなずき、淳平も笑顔で同意した。

「決まりだな! 探検隊みたいでワクワクしてきた!」

 その無邪気さが少しだけ羨ましく、奏多は思わず微笑んだ。


 支度を整え、奏多と淳平は王城の正門に立っていた。王からは護衛として、騎士団の石塚と石垣が同行を申し出てくれた。石塚は逞しい体格で、気さくな笑顔が印象的だ。一方の石垣は、小柄だが精悍な目つきで、前向きな言葉を惜しまない。

「お二人、準備はできていますか?」

 石塚が笑顔で声をかけてきた。淳平は元気よく頷き、奏多も少しだけ力を込めてうなずいた。

「北部の村までは馬車で一日ほどかかります。道中、魔物が出るかもしれませんが、ご安心を。私たちが全力で守ります」

 石垣が真剣な表情で言うと、奏多は少し緊張した面持ちで頷いた。

「ありがとうございます。私たちもできる限り協力します」

「よし、行こうぜ! 異世界探検、スタートだ!」

 淳平が勢いよく声を張り上げ、馬車が動き出した。

 道中、揺れる馬車の中で、奏多は異世界の風景を眺めながら、心を落ち着けようと深呼吸を繰り返していた。

(私に何ができるんだろう……)

 不安は尽きないが、少しでも誰かの役に立てるなら――。そう思いながら、奏多は前を向いた。



 馬車は砂利道をガタゴトと揺れながら進んでいた。窓から差し込む柔らかな日差しと、時折風が運ぶ草の香りが心地よい。石塚が手綱を握り、石垣が馬車の後部で警戒しながら周囲を見回している。奏多と淳平は馬車の中で、異世界の風景をぼんやりと眺めていた。

「いやー、まさか本当に冒険みたいになるとはなあ!」

 淳平が馬車の窓から身を乗り出して歓声を上げる。

「そんなに浮かれてると危ないよ」

 奏多が注意するが、淳平は気にする様子もなく笑っている。

「お前ももうちょい楽しめよ。せっかく異世界なんだからさ!」

「そんな簡単に楽しめるわけないでしょ……」

「まあまあ、気楽に行こうぜ。奏多が暗い顔してると、せっかくの景色も台無しだ」

 確かに、異世界の自然は日本とは異なり、木々の形や花の色も独特だ。遠くに見える山々には白い霧がかかり、野原には奇妙な形をした動物が跳ね回っている。奏多も少しずつ気分が和らいできた。

 石垣がふと声をかけてきた。

「異世界って、やっぱり不安ですか?」

「ええ、正直まだ全然慣れなくて……」

「でも、大丈夫ですよ。中込さんは堂々としてるし、安岡さんもきっと慣れてきます。人は環境に適応する生き物ですから」

 その言葉が、少しだけ励みになった。石垣の真面目さと優しさが、奏多の心を温かくする。

 石塚が馬車の前から振り返り、大きな声を上げた。

「おーい、もう少しで村に着くぞ! 道が悪くなるから、しっかり掴まっててくれ!」

 馬車がさらに揺れ始め、奏多は慌てて座席の端を掴んだ。淳平は相変わらず楽しそうだ。


 村に到着すると、荒れ果てた風景が広がっていた。畑は枯れ、木々も病んでいるように見える。村の入り口では数人の村人が不安げに立っており、馬車から降りた奏多たちを見ると、ほっとしたように駆け寄ってきた。

「騎士様、来てくださったのですね!」

「助かります、もう村が持ちません……」

 石塚が一歩前に出て、村人たちに事情を聞き始めた。

「状況はどうだ? 呪いの被害は?」

「村中が病気にかかっております。特に子供たちは熱が下がらず、力も入らないのです……」

 村人たちの必死な声に、奏多の胸が締め付けられるように痛む。

「俺たちにできることは?」

 淳平が真剣な顔で問いかけると、村の長老が頭を下げた。

「まずは、病人のいる家を見ていただきたいのです。医者も手を尽くしましたが、原因がわからず……」

「行こう、奏多」

 淳平が促し、二人は長老に案内されて一軒の古びた家に入った。室内には病気で寝込んだ子供が三人、布団に横たわっていた。顔は青白く、汗をかきながら苦しそうに息をしている。

「これが呪いの症状か……」

 奏多がそっと近づき、子供の額に手を当てると、ひどく熱い。母親が心配そうに見守っている。

「すみません、急に倒れてしまって……何をしてもよくならなくて……」

「大丈夫です。私たちで何とかします」

 不安げな母親に、淳平が元気よく声をかけた。

「でも、どうすれば……」

 奏多は困惑しながらも、子供たちの様子を観察する。淳平がさりげなく支えてくれているのが心強い。

「石垣さん、呪いの原因って何か手がかりはないんですか?」

 石垣は村の他の家も確認しているようで、急いで戻ってきた。

「一つ気になるのは、井戸の水です。ほとんどの病人がその井戸を使っているようです」

「井戸か……」

「念のため水を調べてみましょう。もしそれが原因なら、対策が見えてくるかもしれません」

 石塚が頷き、全員で井戸に向かった。


 井戸の周囲には黒ずんだ苔がびっしりと生えており、異様な臭気が漂っている。奏多は不安を感じながらも、近づいて覗き込んだ。水面には薄い黒い膜が張っている。

「これ、腐ってる……?」

「ただの腐敗じゃないな。魔力を帯びた瘴気だ」

 石垣が鋭い目で観察しながら呟いた。

「呪術か?」

 石塚が険しい顔をして井戸の縁を調べていると、小さな符が貼り付けられているのを発見した。

「これは……やはり呪いの一種だ」

「どうすれば解けるんですか?」

 奏多が問いかけると、石垣が重々しく首を振った。

「普通の方法では無理です。浄化の力が必要だが、ここにはその力を持つ者がいない……」

 奏多は焦りを感じた。自分がもっと力を持っていれば、何かできるのに。

 その時、淳平がふと呟いた。

「奏多、お前、前に言ってたろ? 水が腐るのは雑菌が原因だって」

「そうだけど、これは異世界だから……」

「でもさ、その知識が使えたらどうする? ダシのときも、お前の知識が役に立っただろ?」

 その言葉にハッとする。異世界でも、知識を応用できるかもしれない。

「井戸を浄化するために、何か使えるものを探そう!」

 奏多の言葉に、村人たちが一斉に動き出した。誰もが少しずつ希望を取り戻し、村中の物資を集め始める。





 村人たちが集めてきた材料は、塩、酢、灰、そして乾燥させた薬草だった。奏多はそれらを見つめながら、日本で培った知識を思い返す。

(腐敗を抑えるには、まず雑菌を殺菌しなきゃいけない。塩と酢は抗菌作用があるけど、異世界でも同じ効果があるのかな……)

「奏多、何か思いついたか?」

 淳平が横から覗き込むように声をかけた。奏多は少し不安そうにしながらも、自分の考えを伝えた。

「日本では、塩や酢を使って腐敗を防ぐことがあるんだけど……それがこの呪いに効くかはわからない。でも、やってみる価値はあると思う」

「なるほどな! じゃあ、やってみようぜ!」

 淳平の無邪気な賛同が、奏多の不安を和らげる。

「それに、薬草も使えそう。この匂い、抗菌作用がありそうな気がする」

 村人たちは興味津々で奏多の言葉を聞いている。誰もが、何か少しでもできることを望んでいた。

「塩を少しずつ井戸に撒いて、次に酢を入れてみます。それから薬草を煮出した液を流し込みましょう」

「了解! 俺が塩撒きやる!」

 淳平が手際よく塩を取り、井戸の縁にそっと振りかけ始めた。続いて、村人が用意した酢を入れると、井戸の中からボコボコと泡が立ち始めた。

「効いてるのか……?」

 石塚が警戒心を強めながら様子を伺う。すると、黒い瘴気が少しずつ薄れていき、井戸の水が澄み始めた。

「やった……効いてる!」

 奏多は安堵しながらも、完全に浄化されたわけではないことを感じていた。次に、薬草を煮出した液を慎重に流し込む。香りがふわりと広がり、井戸から漂っていた異臭が和らいだ。

「奏多、これで大丈夫か?」

「うん、これで少しは良くなるはず……でも、根本的な解決にはならないかもしれない」

 石垣が補足するように説明した。

「呪術の影響で汚染された水源だから、一時的な効果しかないでしょう。根本的に浄化するには、やはり聖女の力が必要です」

 その言葉に、奏多は胸が締め付けられるような思いを抱いた。自分が聖女として召喚されたわけではないから、本物の聖女が見つからない限り、完全な解決には至らない。だが、それでも今できることをやりきりたい。

「村のみんな、これでしばらくは井戸水が使えると思います。必ず煮沸してから使ってください」

 村人たちは感激したように礼を言い、子供たちに早速煮沸した水を飲ませ始めた。徐々に顔色が良くなり、少しずつ呼吸が穏やかになっていく。

「やったじゃん、奏多! すごいよ、お前!」

 淳平が無邪気に笑い、奏多の肩を軽く叩く。

「ううん、まだ完全じゃない。でも、少しでも役に立てたなら……」

 自分が誰かの役に立てる、その実感がほんの少しだけ勇気をくれた。


 夕暮れ時、村の広場では即席の宴が開かれていた。久しぶりに笑顔が戻った村人たちは、奏多と淳平に感謝の言葉を繰り返す。

「救世主様のおかげで、村が救われました!」

「安岡様、中込様、本当にありがとうございます!」

 次々に感謝を述べられ、奏多は少し照れくさそうに笑った。淳平は誇らしげに胸を張り、大きく手を振っている。

 石塚が持ってきた酒を片手に、淳平はすでにご機嫌だった。

「いやー、異世界でヒーロー気分なんて最高だな!」

「ちょっと、はしゃぎすぎ……」

 奏多は苦笑しつつも、その明るさに救われている自分を感じていた。

「村人たちが笑顔になってよかったね」

「おう! やっぱ人を助けるっていいよな! 奏多のおかげだ!」

「そんなことないよ、淳平がいなかったら、きっと私は何もできなかった」

「まあ、そういうことにしとくか!」

 あっけらかんとした淳平の態度に、奏多は少しだけ救われた気がした。

 石垣が近づき、静かに呟いた。

「安岡さん、中込さん、本当にありがとうございます。村が少しでも救われてよかった」

「私こそ、もっと力があれば……」

「いいえ、あなたたちが来てくれたこと自体が村にとって救いです。呪いの完全な解決には至らなくても、希望が生まれました」

 その言葉に、奏多は胸が温かくなった。誰かのために何かをする。それが少しでも役に立つなら、異世界に来た意味があるのかもしれない。


 夜が更け、村人たちが寝静まる中、奏多は一人で空を見上げていた。異世界の星空は日本と違い、空一面に無数の星が瞬いている。その美しさに、しばし心が奪われる。

「やっぱり、不安だよね」

 ふいに背後から声がして振り返ると、淳平が腕を組んで立っていた。

「正直、まだ怖い。でも、少しずつ前に進めたらって思ってる」

「そうか。でも、お前、ちゃんとやってるじゃん。俺、感心したぜ」

「私、そんなにすごくないよ。ただ、できることをしてるだけ」

「それがすごいんだって。悩んでたけど、いざとなると動けるじゃん。俺にはない強さだよ」

 淳平の言葉が素直に嬉しくて、奏多は照れくさそうに微笑んだ。

「ありがとう、淳平。少し勇気が出たかも」

「んだよ、やっと元気になったか!」

 二人の笑い声が夜空に溶け、再び希望の光が心に灯った。




 翌朝、村の空気はこれまでと違っていた。村人たちが朝日を迎える中、少しだけ活気が戻り、子供たちの顔色も昨日より良くなっている。奏多は村の広場に立ち、少しだけ安堵の表情を浮かべた。

「おはよう、奏多!」

 淳平が元気よく駆け寄ってきた。昨日の宴で少し飲みすぎたのか、若干の二日酔いを感じながらも、その笑顔は健在だ。

「子供たち、大分元気になったみたいだぞ!」

「本当に良かった……」

 奏多は胸を撫で下ろした。これで村の人々が少しでも楽になるのなら、異世界に来たことにも少し意味があると思えた。

「石塚さん、石垣さん、これからどうするんですか?」

 奏多が尋ねると、石塚が大きく伸びをしながら応えた。

「俺たちは、もう少し村の様子を見てから王都に報告に戻るつもりだ。お前たちも一緒に戻るか?」

「そうだね……でも、呪いの原因がまだ完全にわかっていないから……」

 石垣が少し渋い顔をして口を開いた。

「正直、呪いの根源を突き止めない限り、また同じことが起きかねません。王都にはもっと詳しい魔術士がいるので、その助力が必要でしょう」

「王都か……」

 奏多は少し迷った。自分にできることがまだあるかもしれない。でも、専門家の力がないと根本的な解決には至らない。そんな葛藤が胸を締めつける。

「おーい、奏多! ちょっとこっち来てみろよ!」

 淳平が村の端に向かって手を振っている。奏多が駆け寄ると、そこには一匹の小さな動物が倒れていた。ふわふわした白い毛並みを持ち、耳が長くて尻尾がリスのようにふさふさしている。

「この子、どうしたんだろう……?」

 奏多がそっと抱き上げると、動物が微かに身じろぎした。

「生きてるみたいだけど、かなり弱ってるな」

 淳平が心配そうに覗き込む。石垣も近づいてきて、その動物を見て眉をひそめた。

「これは……ミンクラウルの仔だな。王国の聖獣として大事にされているはずだが、どうしてこんなところに?」

「聖獣?」

「ミンクラウルは神聖な力を持つ動物で、人々を癒やす力があると言われています。特に仔は純粋な魔力を持っているため、呪いを避ける存在として珍重されているのです」

 奏多はその話を聞いて、ますます不思議に思った。呪いが蔓延しているこの村で、どうして聖獣が倒れているのだろうか。

「とりあえず、手当てをしてあげなきゃ」

 奏多が優しく撫でると、ミンクラウルの仔が微かに声を漏らした。まるで「助けて」と訴えるような瞳が、奏多をじっと見つめている。

「村長さん、この子を看病できる場所を貸してください」

「もちろんです。あそこの小屋なら空いていますので」

 奏多は小屋に運び込み、淳平と一緒に簡単な手当てを始めた。傷は見当たらないが、疲労が酷く、魔力が枯渇しているようだ。

「この子、何か怖い目にあったのかな……」

「呪いのせいかもしれないな。ミンクラウルが弱るなんて普通じゃない」

 奏多は煮出した薬草の汁を少しずつ与えながら、ふと考えた。もしこの子が呪いの影響を受けたなら、それはこの村にとっても大きな手がかりになるかもしれない。

「大丈夫だよ、ゆっくり休んでね」

 奏多が優しく声をかけると、ミンクラウルの仔が小さく震えながら身を寄せた。その仕草がなんとも愛らしく、奏多の心が少しだけ和らぐ。

「この子が元気になれば、村も少しは救われるかもしれないね」

「お前、ほんと面倒見いいよな」

 淳平が笑いながらぽんぽんと肩を叩く。奏多は少し照れながらも、ミンクラウルを撫で続けた。


 夕方になり、村中に柔らかな日差しが降り注いでいる。ミンクラウルの仔は少しずつ息を取り戻し、ぴくぴくと耳を動かし始めた。奏多が差し出した水を、ゆっくりと舐める様子に、周囲もほっとした表情を見せる。

「奏多、やっぱすごいな。あの子、もう元気になってきたぞ」

「よかった……でも、まだ油断できないね」

 石垣が分析を続けながらふと呟いた。

「聖獣がここまで弱るとは……呪いの力がそれだけ強力だということかもしれません」

「呪いを解かないと、この子もまた倒れちゃうかもしれないね」

「そうだな……だけど、原因がわからない限り、何とも言えない」

 その時、ミンクラウルの仔が奏多の腕にしがみつき、ほんの少しだけ光を放った。奏多は驚いて目を見開いたが、ふわりと暖かい気配が包み込むように感じられた。

「この子、私を助けてくれてる……?」

「聖獣には癒やしの力があるって言ってたし、奏多の優しさに応えたんじゃね?」

 淳平の無邪気な解釈に、奏多は少しだけ胸が熱くなった。こんなに小さな生き物が、必死に生きようとしている。その姿が、自分を重ね合わせているようで、自然と涙がこぼれた。

「大丈夫、私が守るからね」

 奏多の囁きに応えるように、ミンクラウルの仔が小さく鳴き、再び穏やかな光を放った。




 ミンクラウルの仔を看病していると、村長が訪ねてきた。落ち着いた表情ではあるが、その目にはまだ不安の色が残っている。

「安岡様、中込様、本当にありがとうございます。村の子供たちも少しずつ元気を取り戻してきました」

「良かった……でも、原因がまだわからないから、油断はできないですね」

 奏多はそう言いながら、ミンクラウルの仔を優しく撫で続ける。村長は少し申し訳なさそうに視線を落とした。

「実は……もう一つ、気になることがありまして」

「え?」

「村の外れにある古い祠が、最近妙に冷たくなっているのです。そこは昔から土地神を祀っていた場所ですが、ここ数日、誰も近づけないほど寒気が漂っていまして……」

「寒気?」

 淳平が興味深げに首をかしげた。

「はい。まるで冬の真夜中のような冷たさで、氷柱ができてしまうほどです。こんな時期に、そんなことは今まで一度もありませんでした」

「それって、呪いと関係あるかもしれないですね」

 石垣が分析的な視線を村長に向けた。

「可能性は高いですね。呪術には環境を変える力が含まれることが多いですから」

「ちょっと見に行ってみるか?」

 淳平が提案すると、奏多も頷いた。村人たちは恐れているが、自分たちにできることがあるなら、やってみるべきだ。


 祠へ向かう道中、次第に空気が冷たくなってきた。木々には霜が降りており、地面も白く凍っている。

「ここだけ、まるで別の季節みたい……」

 奏多が震えながら呟くと、淳平が肩に上着をかけてくれた。

「大丈夫か? 冷えたら困るだろ」

「ありがとう……でも、なんでこんなに冷たいんだろう」

 祠が見えてくると、入口には氷の結晶がびっしりと張り付いている。石塚が剣を構えながら慎重に進み、周囲を警戒している。

「異常な冷気だな。これだけの力を持つ呪術師がいるとしたら、相当の実力者だ」

 石垣も慎重に周囲を調べ、氷の表面を指で触れた。

「ただの氷じゃない……魔力が含まれている」

 奏多が祠の中を覗き込むと、中央の台座に置かれているお札がひときわ怪しく光っているのが見えた。

「あれ、呪いの源かも……」

「近づくと危険かもしれない。何か方法を考えないと」

 奏多が焦りながら言うと、淳平が自信ありげに手を挙げた。

「だったら俺がぶっ壊せばいいんじゃね?」

「待って! 無闇に触ったら呪いが逆流するかもしれないよ!」

「そっか、そういうもんか……」

 無鉄砲さが少しだけ抑えられた淳平を見て、奏多はほっとしつつも何か手がかりを探す。すると、ミンクラウルの仔が奏多の肩に乗り、ふわっと温かい光を発し始めた。

「この子……?」

 その光が祠の内部を包み込むと、冷気が一瞬だけ和らぎ、氷が溶けかけた。

「ミンクラウルの力が、呪いを弱めている……?」

 石垣が驚きながら観察している。奏多は意を決して、ミンクラウルの仔を祠の中にそっと入れた。仔は台座の前で丸くなり、さらに強い光を発し始める。

「がんばって……!」

 奏多が必死に祈ると、光が一瞬強まり、台座のお札がパリッと音を立てて割れた。すると、冷気が一気に引き、氷も解けていった。

「やった……?」

 石塚が剣を下ろし、安堵の表情を浮かべた。

 ミンクラウルの仔は疲れたのか、奏多の膝の上に戻り、そのまま丸くなって眠り始めた。

「奏多、すげえじゃん! この子、ほんとに救世主だな!」

 淳平が無邪気に笑うと、奏多は苦笑しながらも小さく頷いた。

「この子がいてくれたおかげだよ。私一人じゃ絶対無理だった」

 石垣が神妙な顔で呟いた。

「やはり、この子が村を守る鍵かもしれない。ミンクラウルが反応するということは、呪いが本来の魔力の流れを乱していた可能性が高い」

「ってことは、誰かが意図的に呪いを仕掛けたってこと?」

「可能性はある。聖獣を狙うことで、この村全体を壊そうとしたのかもしれない」

「そんな……誰がそんなことを……?」

 奏多の問いに、石塚が険しい顔で首を振った。

「まだわからないが、この村だけの問題ではない可能性がある。呪いが拡大しているなら、王都でも対策が必要だ」

「そうですね。村を救う手がかりは得られましたが、根本解決にはまだ遠いです」

 奏多は祠の前で、再びミンクラウルの仔を優しく抱きしめた。

「とにかく、この子を大事にしよう。きっとこの世界で大事な存在なんだと思う」

「そうだな。奏多、いい判断だ」

 淳平が微笑んで肩を叩き、石垣も安心したように頷いた。

 村に戻ると、冷気が消えたことを喜ぶ村人たちが迎えてくれた。奏多は少しだけ胸を張り、淳平と共に村人たちに報告した。

「これで少しは村が落ち着くと思います。でも、まだ完全じゃないから、気を付けてください」

「安岡様、中込様、本当にありがとうございます!」

 子供たちがミンクラウルの仔を見て「かわいい!」とはしゃいでいる。その様子に奏多は笑みをこぼし、少しだけ肩の力を抜いた。

 終

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