君が手にするはずだった黄金について 小川哲(著) を読んで

 読むに至ったきっかけは読書サークルでのオンラインでの交流会だった。月に一冊の課題図書をメンバー全員で選定し、次の交流会で感想を言い合う─そんな具合の集まりである。その時の交流会で話題が一段落したところにメンバーの一人が本屋大賞のことについて触れた。2025年の本屋大賞が決まるとのことで、ノミネートされている本の内、どれが受賞するかで盛り上がった。その流れで次回の課題図書は2024年のノミネート作から選ぶことになり、どれを読むかでまた盛り上がった。

「私はこれを読んだ」

「買ったけど積み本にしている」

「続編のものは避けたい」

「自分はこれを読んでみたい。だがページ数が多い」

 各自の意見が飛び交う中、ページ数が程よく、短編集として出版された小川哲(著)の『君が手にするはずだった黄金について』が読み易そうということで意見が一致し、栄えある我らの─なんてことの無い我らの課題図書に選定された。

 本の入手手段に決まりは無く、新品や中古は問われない。私は最寄りの図書館で借りることにした。本書の話題も過ぎてしばらくということもあり、難なく借りることができた。小川哲が私の駄文を読むことは無いだろうが、「できれば買って欲しい」と思っているんじゃないかと思うと、無料で読むのは少し憚られもする。だが本書を読んだ限りの小川哲の印象から言えば、気にも留めないだろう。


 『君が手にするはずだった黄金について』は短編集であり、ジャンルはエッセイである。私は自分の気分や興味でエッセイ集を手に取ったことは無い。学生の時に国語の教科書に載っていたものを不可抗力で読んだだけである。今回は成り行きで読むことになったわけだが、こんな機会でもない限りこの本を読むことはなかっただろう。昨年の本屋大賞一位の表題は聞いたことがあっても、本書のことは全く認知していなかったし、著者の名前も知らなかった。


 『プロローグ』は小川氏の就職活動の様子から始まる。提出を求められているエントリーシートから「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」と問いかけられ、順調に動いていた手が止まり、長い自問自答に発展してしまう。自室に大量の本が散らばっている様からかなりの読書家であることが伺え、円グラフの割当を影響の受けた小説で表現しようとするが上手くいかず、結局何も書けないまま提出期限が刻一刻と迫る。そんな折、エントリシートの事を恋人に相談したら、「就職活動はフィクションです」と指摘を受け、小川氏は嘘のエントリシートを試行錯誤し始めた、という流れである。

 私にも同じ問いかけがされた場合どうしたろうかと考えた。具体的にどう処理するかは想像つかないが、適当に書いて不採用になっていることを想像した。正確には恣意的に不採用になるようにエントリーシートを書いただろう。志望しているのに不採用になる前提である。就活が上手くいかない言い訳が欲しくて、くだらない自傷行為に利用したに違いない。

 小川氏の場合は自己の確立に悶々としていた。聞いたこともない哲学者の名前が飛び交う中、意見が収束したと思ったら発散していく。それを何度も繰り返していたと記憶している。(書きそびれたが本書は既に返却済みであるため記憶を頼りに書いている)

 私と小川氏で一つ共通点と言えるものがある。将来の夢ややりたいことが無いことだ。私は大学を卒業している。小川氏と比べたら地方の名乗るほどでもない私立大学であったが、決して本命ではなかった。そもそも本命が無かった。「今どきは大学に行くもんだ」くらいの感覚であったし、親の意向を汲んで義理で進学した。小川氏が就職活動をしていた理由も、就職活動そのものにフォーカスが合っていて、その先のイメージからの逆算で就職活動をしていたわけではないと私は感じた。

 ある時小川氏は恋人の父親と食事をした。恋人との別れ話の際、恋人は父親と小川氏の事を話したという。その父親は小川氏の印象をこう語っていたという。

「俺はお前を世界で一番甘やかして育てたつもりだった。でも違った。お前より甘やかされて育った奴を見た」

 文章を完全に覚えているわけではないが、確かこんな一言だった。

 この言葉は私にも刺さった。心臓にナイフを当てられ、ナイフの冷たさと心臓の熱気がじわりと交わるような脱力感があった。

 「甘えるな」と言われたも同然だった。

 小川氏が自己を確立できなかったことも、私が義理で進学したと抜かしたことも、「甘え」という言葉で説明付けられてしまった気がした。東大に入学できるような御仁と私を重ねるなんて烏滸がましいかもしれない。だがその時小川氏の意思を近くに感じた気がした。

 思えば「甘え」と言える体験は何度でもしている気がする。小中高で行った修学旅行なんかがそうだ。私の場合、戦時中の資料が展示された平和祈念館を訪れたり、京都や東京へ行ったりした。学生が行くにはやや渋すぎるチョイスであると感じている。USJに言ったり東京ディズニーランドへ行ったりはしたが、はっきり興味の矛先になったものではなかった。「私は別の候補地に行きたかった、だが多数決でその旅行先になった」─そんなことを当時は思っていた。斜に構えていたとも、成り行き任せであるとも言える。だが口に出すことは憚られた。「ならお前は修学旅行に行くな」と言われると思ったからだ。行く意思が無いというのなら学校に残って教室で独りで過ごすことだってできた。しかしその決断ができるほど行動力が無かった。

 自分ですればいい決断を結局誰かの決断に従うことで、自分が責任に問われることはないのだ。自分以外の誰かの責任にただ乗りしている立場で不満を持つ─これが「甘え」である。小川氏の話は私に教訓を与えてくれたように思う。


 『三月十日』は面白い着眼点だと思った。東日本大震災が起きた三月十一日の記憶はそれなりにあるが、三月十日のことは特に関心を持っていないことに気付き、当時の三月十日に何をしていたかを掘り起こす話だった。同級生や恋人に三月十日をどう過ごしたか聞いたり、携帯電話の中に残った当時のメールから情報を集めていく姿が印象的だった。最終的には別れ話になるのだが。

 私の場合は三月十日も三月十一日もただ一人暮らしのアパートでぐうたらしていただけだった。しかし鮮明に記憶を残している訳ではない。三月十一日の朝は昨晩からTVをつけっぱなしで炬燵で寝ていたところを、当時放送されていたプリキュアのオープニングが聞こえて目が覚めたと記憶していたが、震災があった曜日は金曜日であり、不確かな記憶であることがすぐに分かった。

 小川氏は記憶にない一日、関心ごとの無い一日を失われた一日と言った。「僕たちは平凡な一日を日々失いながら生きている」とかそんなことも言っていた気がする。自分自身の記憶を失うことはもちろん、他人の記憶も失うということでもある。私もメールをサルベージするなど試みてみたいが、生憎当時の携帯電話は残っていない。一つ不安になったのが、自分が撮影した写真、撮影された写真も残っていない事だった。

 この感想文を書いている時勢は情報技術が発展し、情報をクラウドに保存できる仕組みがある。だが当時は無かった。写真を現像してアルバムに挟んでおく様なこともしてこなかった。私は自分にも、自分以外の人間にも記憶を残してこなかったのである。そのことが私の人生にミッシングリンクを生み出しているようで、少しだけ不安になった。私という人間が不意に現在に出現した─いや出現し続けているというような奇妙な感覚を覚えた。朧気ながらもどの年代もダイジェストで思い返すことはできるが物理的に情報は残せていない。警察や探偵の方が私の生涯をより詳しく証明できるに違いない。

 そんなことを思って、映画館や美術館に行った時のチケットや特典としてもらったパンフをファイリングするようになった。思いの外安心感を得られている。


 『小説家の鏡』、『君が手にするはずだった黄金について』、『偽物』、『受賞エッセイ』、これらのエピソードからは小川氏が小説家として生きてきた中での体験談である。他人が自然に振舞えている処世術と自身の考え方の間にあるギャップにコンプレックスに似た葛藤を読んでいて感じた。終盤でガルシア・マルケスの『百年の孤独』について触れられていた。私も以前読んだんだが、私には思うように楽しめない作品だった。だが小川氏のちょっとした感想文では「アウレリャノ・ブエンディアが初めて氷を見た瞬間のことを思い出していた」場面に感動したことが書かれていた。小川氏は「自分にとって氷はありふれたものだ。アウレリャノ・ブエンディアにとっての氷とは自分にとって何のことになるだろう」と述べた。この時点で私は自分の想像力と小川氏の想像力の差を見た。自分が読んでてもそんなことは思わなかった。でも小川氏の感想にとても共感している。悔しいと思った。それだけで自分よりもずっと才能のある人間だと思うのだが、小川氏は自分に才能は無いと語っている。

 「才能の無いものが小説家になる」、「みんなが納得していることでも、自分は疑問に思ってしまう」、「みんなが持っているものを僕は持っていない」と言うのだ。小川氏の他の書籍を見てみると、著名な小説家が「小川氏の才能に感嘆した」と推薦文を送っているくらいなのだから才能はあるのだろうと思うし、それを見なくても私は才能があると思った。

 成り行きで読むことになった小説だが、私は読んで良かったと思う。小川哲という名を知ることができたことが私はとても嬉しい。

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