“御影堂”が忘れ去られるまで Ⅱ

御影堂薬師は人相こそ悪いがとても模範的なおとなだった。料理ができないのか、食に無頓着なのか買ってくるものは固形のカロリーメイトが多く、家の中にいて全然動かないのに栄養食だけ食べて太らないかな、なんて心配をするくらいで元々母の手伝いをしていた故の経験もあるが、彼にも少し教わる程度には家のことも出来る男だった。


飲料水の予備が切れた時もそうだった。

「薬師さん、お茶の買い出し行ってきます」

「お前一人じゃ危ねえだろ、俺も行く」

「でも、いつも手伝ってもらってますし」

 

こちらが食い下がると、ぐ…という顔をして悩む彼。こちらの言い分も聞き入れようとしていたのだろう。眉間に皺を寄せながら言葉を続ける。

「お前みたいなガキ一人、放っておいたらどこで迷子になるかわかんねえから心配してんだよ。いいから行くぞ」


見ず知らずの自分のことを心配してくれるおとなの存在は、わたしにとってはありがたいものだった。もっと早く出会っていて、話してみたかった。


そう、この人はもう。


本人が言うようにそんなに長くない。


薬師の顔色がとても悪いのに気づいたのはいつ頃だっただろう。最近曇りと雨続きで、家に差す光は少し青と灰色がかっていた。だから、おそらく気付くのが遅れたのだ。

最近ずっと降り続いている雨が怖かった。両親を連れ去った豪雨が薬師のこともきっと連れ去ってしまうと思った。だから、家からなるべく出なくてもいいように。本当に沢山食料を買い溜めた。陰鬱な空気を破るように冗談を言い合った。


……今夜の早い時間から、薬師が部屋から出てこなくなった。それが心配で問いかける。


「薬師さん、お風呂入らなくていいんですか。髪の毛べたべたになっちゃいますよ」

「…ガキ、俺の部屋に入らずそのままそこにいろ」

「…え」

「俺の内側から、化け物が出てくる」


自分が最大限目を見開いたのがわかった。

ごほごほと咳き込む薬師。そういえば、夜眠る時に隣の部屋で薬師は良く咳き込んでいた。


「悪い、水飲んだ時に噎せちまったみてえだ」

「おじいちゃんみたいな事言いますね」

「誰がジジイだ、誰が」


あれは、咳き込んでいたのは、彼の中になにかがいたからかもしれない。苦しいのを隠して、彼はわたしと一緒にいてくれていたんだ。


「薬師さん、やくしさん、やくしさん…!!」

「ごほっ、ごほ、…ガキ、お前はまだ食われねえ。でも、お前を助けてくれる人間がいなければいつか食われるかもしれねえ、ごほっ、そうなったら、お前はどうやって存在の証明をする?」


「存在の、証明」


薬師の言葉に、始めて耳を貸して不安に思った。でも、聞かなければならない気がして、部屋の壁に耳を当てて張り付いた。

  

「ゔ…、見ただろ、俺の弟は体の一片すら残らなかった。もう、どこにもいないんだ。だからよ、生きてるうちに、遺せるうちに。自分で終わるのがきっといい、ごほっ」


「…自分で終わる、いのちの電話とかに繋がっちゃいますよ、そんなの」

「はは、そうかもな。でもよ、そうしねえとお前は本当に死んじまう。俺たちみたいになっちゃ、お前は駄目なんだ。お前みたいなガキに言うことじゃねえのはわかってる、でも」


びちゃびちゃびちゃ、びちゃ。

水道もなにもないはずの隣部屋から、大きな水の音がする。


「遺すことで、生きてくれ」


ざばっ。

水の中から大きな生き物が姿を現すような音とともに、


薬師の声は止んだ。


…泣き止んでから何分くらい経っただろう。もうすっかり昼だ。


「おとうさんとおかあさんと薬師さんのこと、ちゃんとわたしがお墓を用意してあげないと。弔ってあげないと、いけない」


枕元に置いてあったスマホの電源をつけて、最寄りの役所へ電話をかける。葬儀のために使っていいお金がどこにあるかまだわかってないから弔えるかはわからなかったけど、それでも伝えるべきだと思ったから。

 

「もしもし、両親と叔父が亡くなりました。え?はい、そうです。ずっと色々あって、連絡できなくて。……はい、はい。故人の名前は、父が御影堂みえいどう菊理きくり、母が御影堂みえいどう嫁菜よめな、叔父が御影堂みえいどう薬師やくし…はい。そうです。亡くなった日時は、叔父が昨晩で、両親が10日前です」


職員さんは、静かに話を聞いてくれた。後ろではまた別の職員の方が書類を探してくれて、連絡して良かった、と思った。


その、矢先。その話から数分後のこと。

「…え。」


電話先で、そんな人物はどこにも存在しないと申し訳なさそうに言われた。そもそも、御影堂という戸籍自体が、わたししかいないのだとその人たちは云う。


悪戯電話だとか虚言だとかで処理をされてしまうだとか、そういうのが頭に入らないほどに今の状況へ焦りを感じていた。

  

だって、だってそんなはずは。それじゃあ、姿も名前も消えたってことか。あの人たちは、私のことを受け止めてくれた人達は、誰の中にも残っていない。


「遺すことで、生きてくれ」


薬師の言葉がリフレインして、その場にしゃがみ込む。いつの間にか、電話は切れていた。


「わたし、は。墓石に名前を刻むことで、ようやく御影堂の名前を、おとうさんとおかあさんと薬師さんの生きた証明が、できるんですか」


息が、荒くなるのを感じる。

自殺なんて、身近にあっても考えるべきじゃないのはわかっていた。でも。それでも。


「はやく、死ななきゃ」


私の根幹は、今からそれにすげ替えられたのだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る