第57話 常世山の戦い、森の闇
日が沈みゆくにつれ、森の闇は急速に濃さを増していった。
宵乃たちは森の中の木陰に身を隠しつつ、”黒衣のもの”たちの様子を窺っていた。
夕闇の中、鄙びた鳥居がぽつりと佇む。牛車を引いてきた二頭の牛はすでに仕事を終えたかのように、のんびりと足元の草をはみ始めていた。
牛車の傍らでは、白き仮面の男を中心に数名の男たちが何かを話し合っている。縄で縛られたコモリと貴子は、その近くで膝をついて座らされていた。二人は牛車の後輪に縄を繋がれ、逃げ出すことができない状態だった。
貴子は縄に縛られていても落ち着きを保ち、静かに辺りを観察している。その顔立ちは塔子に瓜二つだったが、表情には塔子とはまた異なる、気品と意志の強さが宿っていた。宵乃は、その姿を見ながら内心で感嘆を覚える。
一方のコモリは、ずっと顔を伏せたまま動きが少ない。普段の凛々しい彼女からは想像できないほど力なく、囚われたことへの自責の念が感じられた。その姿を目にした宵乃は、胸が締めつけられるように痛んだ。
(あと少し……必ず助けるから──死なないで)
忍びは常に死を覚悟している。奥歯に毒を仕込んでいるという話も聞いたことがある。早く助け出さねばと、宵乃は焦るような思いに駆られた。
だが二人は、白き仮面の男が張った結界の内側にいる。その結界は淡い紫色の光を帯びながら、薄闇の中でゆらゆらと揺らめいていた。巨大なお椀を逆さまに被せたような形で、牛車とその周囲を覆っている。
宵乃には、その結界はまるで硬い鉄の壁のように感じられた。どのように破るか、糸口さえ掴めない。千鳥家の宵乃と千星家の貴子、塔子──三人の力を合わせても、果たしてあの結界を破れるかどうか……。
そして、宵乃にはもう一つ気がかりなことがあった。
腰の鈴が先ほどからずっと小刻みに震えているのだが、その振動が一定ではないのだ。明らかに、牛車を覆う目の前の結界だけに反応しているのではない。もっと別の、大きく、目に見えない何かに反応している──宵乃にはそう思えてならなかった。
鳥居の向こうには、常世山へ続く階段がまっすぐに伸びている。宵乃が目を凝らすと、その階段の入口付近にも、薄ぼんやりとした別の結界が見えたような気がした。
(あれは……山の結界?)
あれは白き仮面の男が作ったものではない。もっと古く、強固で、自然の一部となっているような結界──おそらくは古来より『黒夜龍』を封じるために張られたものだろう。
「宵乃様にも見えますか? あの山の結界が」
塔子が宵乃の視線に気づいて、小さく囁いた。
「ええ……。でも、ここからでは詳しい性質までは分からないわね」
「『黒夜龍』を封じるための結界ですものね。母も、その術式は私たちにも伝わっていないと言っていました。おそらく、あの者たちにも簡単には破れないでしょう。それで話し合っているのかもしれません」
宵乃は少し考えてから尋ねる。
「塔子は、彼らが山の結界を破れると思う?」
塔子はわずかに首を傾け、小さく息を吐いた。
「分かりません。ただ──都の結界と内裏の結界、この国で最も強力な結界を、あの白き仮面の男はいとも容易く切り裂きました。もしかすると山の結界も、全てを破るのではなく、一部だけを切り裂いて通り抜けようとしているのかもしれません」
「結界の術式を知らなくても、切り裂くだけの力があるということね……」
宵乃の言葉に、塔子は深く頷く。
「ええ。不愉快ですが……」
塔子は悔しげに唇を噛み締め、再び
◆
「どうだ、宵乃。牛車の結界を破れそうか?」
周囲の地形を偵察していた日野介が戻ってきて、宵乃に静かに尋ねた。
「いいえ」
宵乃はかぶりを振った。結界はまるで鋼のように固く見える。隙を見出すことができない。
「奴らはその結界から出なければ、階段を登れないはずだ。なら、無理に破るのではなく、結界から出る瞬間を狙えないか?」
「もし先に気づかれたら、コモリと貴子の命が危ないのよ」
「ああ、分かってる。だから速さが必要だ。宵乃、前に使っていた光の矢は放てるか?」
「ええ。でもあの結界には傷さえつけられないと思う」
「だが、一瞬の注意を引くには十分だ」
日野介は少し考えを巡らせてから、宵乃の肩に乗ったカナギに視線を向けた。
「カナギ、変身して俺たちを乗せ、牛車まで駆けるにはどれくらいかかる?」
カナギは小狐のまま、不敵な笑みを浮かべて応じた。
「ふん。七秒もあれば余裕だな。だが、俺と日野介だけなら三秒だ」
「そうか。まずはコモリと貴子の救出だ」
日野介は計画を口早に説明する。
「カナギが変身すると同時に俺が飛び乗る。同時に宵乃は光の矢を放って、奴らの注意をひく。牛車まで行き、俺が刀で縄を切って、二人を背に乗せて戻ってくるんだ」
「結界から貴子とコモリの体が出た瞬間を狙うのか。面白い。悪くないな。」
カナギが楽しそうに応じた。
「分かりました。貴子が結界から出る瞬間、私が念波で合図を送ります」
塔子も小さく頷いた。
「じゃあ宵乃、合図を頼む」
日野介が宵乃の顔を正面から見る。
宵乃は胸の鼓動を落ち着かせ、深く頷いた。
──そのとき、牛車の前に集まっていた男たちが動き出した。
白き仮面の男を先頭に、一団は常世山へ続く石段に向かって歩き出した。縄で繋がれたコモリと貴子も、男たちに急き立てられ、よろめきながらその後に続いた。
「牛車から離れるぞ。奴らが結界を出る瞬間──そこが勝負だ」
日野介が低い声で皆に伝える。宵乃は胸の高鳴りを感じながら、掌の上でゆっくりと気を練り始めた。
宵乃が息を呑んで見守っていると、コモリと貴子がついに結界の境界へと近づく。
「今よ!」
宵乃は短く告げた。その瞬間、カナギは小さな狐の姿のまま森から跳躍し、空中で巨大な妖狐の姿へと変身した。白銀の毛がうねり、鋭い瞳が闇の中で燃え立つように輝く。日野介も同時に駆け出し、疾走するカナギの背に軽やかに飛び乗った。
宵乃は手元に練った気を一気に解き放ち、光の矢を牛車の結界へと放つ。
(気づいて、こちらを見て!)
宵乃の強い願いを乗せた矢は弧を描き、紫色の結界へ命中した。しかし、矢は弾け飛ぶように砕け散り、花火のような淡い残光だけを残した。
「な、なんだ!?」
黒衣の男たちは、弾けた光と音に一斉に振り返った。
(よし、注意は引いた。お願い、うまくいって──)
しかし、そのとき塔子が息を詰まらせるような声を上げた。
「あっ……! 結界が動いている!」
「えっ!?」
宵乃は目を凝らした。確かに、紫の結界は牛車の場所ではなく、貴子とコモリを包み込んだまま移動している。
「結界は牛車ではなく、二人自身にかけられていたんだわ……!」
宵乃の顔から血の気が引いた。
だが、そのことに気づかぬまま、カナギは猛然と貴子とコモリに向かって駆けていた。カナギの背で、日野介は刀を抜き放つ。
「何だ、あの狐は!?」
「止めろ!追い払え!」
黒の法衣の男たちが動揺し、叫ぶ。異国の者が、火縄銃をカナギに向ける。
直前で、カナギは異変に気づいた。結界が動いている……!。
「止まれ、カナギ!」
日野介も叫んだが、それは遅かった。
「なっ──ぐぅ!」
しかし、その瞬間、カナギの巨躯は見えない壁に激突し、鋭く弾き返された。結界に激しくぶつかったのだ。
カナギの体が地面に叩きつけられ、砂埃が舞い上がった。
「カナギ! 日野介!」
宵乃は思わず声を上げていた。
その声に気づいたのか、白き仮面の男がゆっくりと宵乃と塔子がいる森の方を向いた。
「……そこか」
仮面の奥の冷たい瞳が、宵乃たちの潜む森の闇を鋭く見据えた。
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