参参ノ舞

 黒い犬が俺の腕を噛み、煉獄の門へと誘う。恐ろしい量の酸素を求め呼吸が大きく乱れ、一瞬俺の呼吸が速まり、併せて心臓から極限までに圧縮された血液が送り出され、俺の筋肉が興奮で硬直していく。盤面では図形が自分の意志とはまた別の意志が、局面を読み頭に図形と棋譜が奔流させる。

 俺は呼吸を整えようとするが、強制的に自動的に俺の本能が更なる獰猛な闘争心をかき立てる。

 俺は鼻に鋭い痛みを感じ、それが煉獄の門をくぐる合図である血液が噴き出すのを感じた。俺は信玄袋からとっさにタオルを取り、鼻に当てた。視界には盤上に広がる局面が明確なヴィジョンで駒の未来が自動的に見える。脳内には平行して棋譜が流れ、体感で同時に4つ局面を読んでいた。このままでは、いやすでに人間でなくなろうとしている。

 ――だめだ……墜ちる!?

 鼻腔を這うように血が流れ出てくるが、同時に俺は安心感というのだろうか、気持ちが穏やかになった。

――な……んだ? どうして……?

俺を引きずり込むことに成功し不適な笑みを浮かべていた黒い犬は、頭上から射した光を浴び砂へと変わり、俺の中で狂い咲いた闘争心はしぼみ蕾へと還る。

ローズとジャスミンの香りに混じった、あの甘く身が崩れ落ちるような香り、俺はお師さんのあの包み込むような感覚を全身に感じた。俺の意識がはっきりと自分に『還ってくる』のがわかった。

鼻血は出続けたが、煉獄の門の前で立ち止まっている。

――お師さんの香りがなければ即死だった……

俺は荒くなった呼吸のリズムの調律をとる。体はまるで泳ぎ終えた後の重い疲労感が溜まっていた。演算力も通常の四割も出ていないかも知れない。が、闘志は萎えていない。

相手の詰めろを受けていく。鋭い雰囲気だった田村5級の意識も俺の執拗な受けに、わだかまりをもちはじめたようで、その感覚は駒を置く指先から感じ取ることができた。焦りではないが、決めきれない局面が田村5級の額に汗を浮かばせた。

俺のイージスシステムは的確にレーダーで動きの先を読み、玉へと打ち込むミサイル群を合い駒で防御、時には攻め駒を喰らい迎撃する。

既に、俺の集中力は途切れて、正直に言えば局面を読むことはできなかった。強烈な眠気が俺を襲っていた、瞼を開けていることが辛い。今の俺はただ煉獄の力で見えた局面に添って、間違えないように指しているだけだった。残り時間、相手は三分、こちらは十分残っている。しっかりと間違えないよう確認して指す余裕があった。それが俺の気持ちに余裕を与えてくれていた。

 美濃の上部より脱出せんとす俺の玉を狙って放たれた第一波の△2五香車の射線をかわし、▲1六玉と上部脱出を試みるとそれを阻む△2六金が打ち込まれ、▲1五玉と俺は更に上部へと玉を脱出させる。

 俺の1五玉の指し手を見て、田村五級の顔が微かに歪み、俺の駒台に視線が走ったのを俺は見逃さなかった。そして、△3三角と角ミサイルが撃ち込まれた。

 ――さすがだ……相手もここまで読んでいた。

 煉獄の片鱗がなければ、俺はここまで戦えなかっただろう。この局面は、合い駒を間違えると即死する局面。田村5級もその合い駒……つまりは玉の盾となる、駒に何を指すのかを注視していた。

 相手との対話ができないと思っていた電脳戦士と、今俺は対話している。俺の熱く紅蓮に燃える刃、そして田村5級の冷たく蒼白い刃を盤上で交えた。交えた切っ先で散った紅蓮の炎は田村5級の身を焦がし、蒼白の刃で飛び散った俺の血は凍りついて、大地で砕けた。

 俺と田村5級は、闘気を盤上で全力で放出したに違いない。言葉を交えたこともない、お互いがどのような人間であるかもわからない。が、確かに俺たちは繋がった。

 持ち時間はあれども、俺の集中力が限界を迎えていた。脳内に白いベールが下り、脳内盤のビジョンは殆ど見えない。それまでに読んだ棋譜を頼りに、間違えないように震える手で駒を指していく。

 ――俺は奨励会に行く。

 最後の闘志を燃え上がらせる、赤く、熱く、最後には真っ白な灰となるまで燃やす。

 俺の駒台には金二枚に飛車、香車、歩が各一枚。玉には角ミサイルがロックオンしている。本来なら香車、歩合いで玉をガードするところだが、ここは金でしか受けれない。俺は駒台に手を伸ばし金を2四金と打つ。その瞬間、田村5級の顔が微かに歪んだ。

 向こうの駒台は角、銀、桂が各一枚に歩が七枚。金以外で受けると歩のラッシュでこちらが詰む。だが、この局面は最後のトリックを仕掛けることができる。最後に勝負をかけてくる。

 ――間違えるなよ……

 俺は自身を奮い立たせる。

 玉の正面に歩が打ち込まれる。迷わず同玉、追い打ちをかけるかのように角の下に更に角、△3二角が配置される。

 この一撃が最後の罠だ。この局面も香車でしかガードできない。香合いでなければ、玉が上部脱出をはかる際、香車の斜線が相手の追撃を阻むことができる。俺は2三香車と受ける。

 この局面、相手の駒台に銀でなく金があれば、俺の詰みだった。

この流れを受けきれば、俺の反撃のターンだ。玉頭への金から一三手詰めで俺がこの対局を制することができる。

しかし気を抜くと意識が一気に持って行かれそうだった。

――まだだ、まだ、終わりじゃない……

遠泳を泳ぎ切ったような重い疲労感が全身に広がっている。煉獄の片鱗の副作用だろうか、門をくぐると意識を失った。その手前で踏みとどまると、このような消耗具合だ。

長くは持たないというのが、俺の素直な感想だった。集中力は切れているし、伸ばした指にはさんだ駒はカタカタと震える。

――まるで皇帝じゃないか……

将棋帝国の皇帝として一時代を築き、今でこそ加齢に伴い衰えたと言われている有栖川三冠の特徴として、終盤詰みを読み切ると駒を持つ手が震えるという癖というのか特徴があった。この震えは『皇帝の振戦』と呼ばれ、事実上の皇帝の勝利宣言とされ、振戦を見た対局者は、自然と自分の敗北を悟るというわけだ。

将棋へのアプローチの方法として今流行のソフトによる、ソフト研究ムーブメント以前、主とした研究方法が戦術シェアリングという方法だった。今では当たり前のように行われる棋士同士が集まっての戦術研究会のことだが、その方法を発案、実行したのがいわゆるこの皇帝を筆頭とした有栖川世代だった。

それまで、将棋の研究は一人で行うことが普通、いやむしろ研究など邪道という考えが当たり前だったのが昔、昭和の将棋界の実情だった。しかし、その旧世代の無頼派の天才たちに真っ向から挑んだのが有栖川を筆頭とした世代だった。

有栖川世代は勝負へのこだわりというよりも、将棋への真理へと迫るアプローチを重視した。それまで将棋は終盤勝負という価値観に対し有栖川世代は、終盤での勝ち筋は棋士であるのならば誰が指しても同じとし、勝負は序盤、中盤を如何にして指し回すかで決まるという新たな価値観を掲げ、定跡を徹底的に検討、効率化し勝利への方程式を構築した。膨大な量の研究を一人でするのは効率が悪く、棋士数人で集まり一つの戦術を検討し新しい定跡を築く、戦術シェアリングと呼ばれる方法で時代の流れに乗れなかった旧世代の天才たちを駆逐していった。

数々の記録を打ち立て生きる神話とされた有栖川三冠。

――俺の震えは、そんなんじゃあ……ない、残念だ……

疲れ切って生まれたての子鹿のような覚束ない動きの俺と、勝利を確信し脱力するような皇帝の動きでは差がありすぎる。

盤面を見つめる田村5級の残り時間が1分を切った。激しい闘気を迸らせていた彼から圧が消えていく気配を感じた。

線の細い手が伸びる。まるで精密機器を機器を組み上げるように、無駄のないプログラムで組まれた動きに従うように、駒台の駒を綺麗に整える。並べ終えた指が閉じ最短距離で駒台に白い手がかざされ、彼は言った。

「負けました」

 俺はその声と同時に頭を垂れた。その瞬間、脳内に展開されていた盤は中空に消え、延びきった緊張の糸が一気に弛緩し、俺は頭を上げることができなかった。

 ――俺は勝った……のか?

 俺は何とか眼前の盤面に目をやり、何度も読んだ未来図を確認し、自分の勝利を自覚するに努めた。

「興味深い手でしたね」と、聞き取れる程度の小さな声で田村5級は告げた。

「はい?」と俺は聞き返した。

「飛車切りです」

「あぁ、そうですね。あそこが中盤の勝負どころでしたね」

 俺はオーバーヒートした脳に冷や水を掛け、脳を動かした。

「後の展開を呼んでいましたか?」

 我々は素早く盤面をその局面に戻す。

「ここで、飛車をとられなかったら、こちらが攻めなければならない状況になったので、そうなったら、攻め落とせないだろうと読みました」

 田村五級と俺は飛車をとらないifの棋譜を検討する。俺も自身が予測した攻めを展開する。

「カナゴマが足りないから、ここで攻めが途切れて転じて反撃されると受けきれないと考えました」

「なるほどあの時点で飛車切りで受けた方が攻めきれると?」と、小首を傾げて田村5級は訊いた。

「確証はなかったですけど、あの状況では受ける方がいいと、そう判断しました」

「……ほぉう」と、田村5級は少しの間を置いて感心するように頷いた。

「終盤見事な受けでしたね。あそこは金、香車でなければ、受けきれなかった」

「限定の合駒でしたね」

 限定合駒とは、その駒で受けなければ玉が詰まされるため、限定された駒を受けに指すと言う意味で使われる。

「舩坂さん」

「はい?」

「あなたは強かった。また例会で……」

 俺は息を飲み込み、呆然とした。田村5級は心なしか口角を緩め微笑すると、駒を片づけ初め、俺も慌てて種類ごとに駒を中央に寄せた。

 頭の中は終盤の盤面と曖昧でいまだ勝利を確信できない一勝に戸惑い、思考が溢れ出し熱で犯されているようだった。

 

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