拾伍ノ舞

 ――拷問だった……

 さながら、俺の唯一の癒しである入浴タイムは、さながら六道の天道に豹変した。

 仏教の六道の天道は、長寿、享楽の世界だが、欲望より解脱できず、悟りがなく救いがない世界。と、母が読んでいたギリシャ神話に縁ある少年が鎧を着て、神々と戦う漫画で読んだ記憶がある。

「地獄じゃないけど、地獄だぜ……」と、俺は溜息を吐いた。

 入浴後は、エアコンの効いた寝室で、夏休みの宿題をしていたのだが、脳裏に惨劇というか喜劇というかが蘇りペースが上がらない。

 ――天人五衰の心境だわな……

 長寿と享楽の天界に住む天人も悟りに至れないため、いずれ死を迎える。その死の直前に五つの兆候が出てくるそれを五衰と言う。今の俺の心境はその五衰に襲われた気分だった。

 思い出すと心臓の鼓動が早くなり、体が熱くなる。目を閉じると、あの光景と感触が蘇るので、俺は頭を振って抱える。

 ――気をそらさないと……

 とりあえず、算数のドリル宿題は消化試合みたいなものでをぱっぱっぱとやって片す。もう一つの宿題は無学年学習で有名な教育塾の自学自習プリントに取り組む。あの将棋界史上最強の『皇帝』がかつてやっていた、という理由で俺もしている。

 取り組むのは算数ではなく数学Ⅱというもので、点と直線の距離とういうものだ。代数計算を以前は好んでやっていた。が、今は図形系の数学の方が面白く好きで、将棋で行き詰った時は数学の図形問題をやってリフレッシュすることが多い。

 プリントの余白で計算式をメモしていると、文机においたピンク色の携帯がマッサージ機のように振動した。こんな時間に一体誰? と、いっても相手は母菜々緒さん、伏見、と今日新たに加わったお師さんと高石さんくらいなわけだが、おそらくは母だろう。携帯のディスプレイにも母と表示されていた。

「もしもし」

「あぁ、しゅーしん? ママです」

「はい、こんばんは。母さん」

「そちらはどうかしら? 初日だからつかれたでしょう?」

「うん、まぁまぁかな? 慣れないことだけど、初日から気が付くことも多くて収穫は大きいよ」と、実際の正直な感想を俺は母に告げた。

「ママからも先生に重々お願いしておいたから、困ったことがあったらなんでも相談なさい」

「あ……う、うん」

 勝手に風呂に入ってくるのを何とかしてくれと言って、おのお師さんが聞くとは思えん。と、いうよりは、だ。

――一体どんなお願いをしたんだっ?

 と、問い詰めたい、小一時間問い詰めたい。

「あなたは昔からハスっぽい部分があって、妙に大人びたところがあるから……遠慮して人に心を広げないというのか甘えない部分がいけないところよ」

「……ははっ」と、俺は苦笑して答える

 母一人、子一人の家庭に育ち、母はなんでも俺に対して一生懸命だった。それが、うれしい反面、母の負担になっているのではないかと気になり、何でも一人で片づける癖があった。そういうところを母は言っているのだろう。

「あなたも先生を私の代わり……あぁ、先生が言ったように、棋界の師匠は母同然ということね。自分で何とかしようとせず。先生に頼りなさい」

「そうするよ」

 確かに、お師さんの言動の数々、根本には俺のことを思ってという名目に則ったものだ。その点は感謝してもしきれないところだ。

「一か月、長いけれども、頑張りなさい。あなたが決めたあなたの道、ママ、応援しているわ」

「頑張るよ」

「でも、頑張るのはほどほどにね」と、優しげな声で母は言った。

「ん?」

「あなたは放っといても、勝手に頑張るの知ってる。だから逆、頑張りすぎないこと、いいわね」

「うん、ほどほどに頑張るよ」

「それとね……な、何? ちょっ」

 電話の向こうで何やらゴソゴソと雑音が入り、何か母が言い争ってる声が聞こえた。

「若、聞こえとる? 菜々緒や」

「あぁ、菜々緒さん、どうもです」

「もう、聞いてェな。ママったら、朝から『しゅーしんがいなくて寂しい。菜々緒さん早く来て』って呼び出されてな。来てからもしゅーしん、しゅーしんって念仏唱えとるで、仕事も上の空で今日はもうグラス二個にボトルまで割ってな、重症ですわ」

 確かに、今回のように一月近く離れて過ごすのはお互い初めてだが、母、影響ありまくりだろ、どう考えても俺の方が落ち着いている。

「ははっ、参ったな想像がつくよ」

「まぁ、ママの面倒はウチが見てるし安心し。将棋の修行、頑張ってや。帰ってきたらみんなで例年通り、沖縄旅行、行くやで。それまで、ウチらも店頑張るさかかいな」

「旅行か、うん楽しみだね」

 例年、夏、冬と母と菜々緒さんと従業員の子二、三名で旅行に行くのが恒例行事だ。夏は何故か避暑地ではなく、敢えて常夏の島に行くのもどうかと思うが、楽しい行事だ。

「うん、ウチも楽しみにしてるで。ほな、ぼちぼちやってや」

「ありがとう、菜々緒さん」

「将棋の試験受かったら、沖縄でおろすしな」と、菜々緒さんはわざと艶っぽい声で言う。

「はい? 何をですか?」俺は内心嫌な予感を持ちながら聞いた。

「知っとる癖に、筆をやで」

「なっ……」俺は顔に血が上るのが分かった。

 電話の奥で母親がキレてる声が聞こえた。

「しっかり、おっきい筆手入れしといてや。ほんなら、ママ怒ってるしもう切るわ。じゃあの」

 母が菜々緒さんを叱責する声がフェードアウトどころか強制的にシャッターガラガラだった。

 ――いつもとかわらないな、あっちは。

 俺は電話を置くと笑った。

 そういう意味では、ここは既に俺のこれまでの日常とは異なる時間であり、場所なのだと実感した。しかし、こうなんだろう、楽しいという思いが強いことがプラスになっているのか、なんでも吸収してやろうという気持ちになる。

 そんな風に考えていると音もなく障子が開いた。

「修身殿、そろそろ就寝の時間だ。明日も早い、今日は床に就くぞ」と、薄紅色のガーゼ地の浴衣を着たお師さんが入ってくる。

「ん、もうそんな時間ですか?」

「ふむ浴衣、よく似合っておる。汗も吸うから、着心地がよかろう」

 そう語り掛けるお師さんと目があう。浴室での光景を思い出す。水を弾く瑞々しい肌、弾力のある肌触り、また母親の質感と違う触感と映像が脳内に再現される。俺は頭を振って邪念を追い払う。

「えぇ、浴衣ってこんな感じなんですね」

 俺はお師さんからさりげなく視線を外して文机を片す。その横でお師さんは押し入れから布団を出していた。お師さんは手早くすっすっと、二組引いた。

「……お師さん?」と、俺は信じられない気持ちで言った。

「どうしたのだ?」

「どうしたじゃなくて……一緒に?」

 この人は変なところで恥ずかしがったりするのに、風呂入ってあんなことしたり、一緒に寝たりと無頓着というかなんというか、少し感覚がずれている気がする。

「ここは寝室だぞ」と、お師さんは最もなことを言うが、論点がずれてる。

「確かにそう聞きましたけど……一緒に寝るんですか?」

「そうだ、冷房があるのは座敷と書斎、それとここだけだ。この屋敷は庭が広いから多少は涼しいが、やはり熱帯夜は冷房なしでは眠れんよ」

「真面目にですか」

「貴殿はさっきから何を言っとるのだ?」と、お師さんは呆れた顔で言って、腕を組んだ。メロンが圧縮されて腕の間で盛り上がる。「真面目も何も、ここは寝室だ」

「……はい」

 師の言うことは絶対だ。と、いうことが初日にして理解できた。

 そう、お師さんは棋界の母だ。実母はいまだに俺が一人で風呂に入っても寝ても、浴室に侵入してくるし、朝起きると何故か同じ布団にいるのがデフォだ。

 全く、どちらの『母親』も厄介なことだ。大事にされているという気持ちは重々承知であるし、それはとてもありがたいことだろうが、やはり一般的な概念とかけ離れているような気がする。

 ――でも俺、もう小学五年なんだぜ……

 浴室に続く天道でないこと、切に願うだけだ。

 寝床を確保すると、エアコンのタイマーをセットして我々は横になり、電気を消した。時刻は九時を過ぎようとしている。明日は五時前起きだ。

「そう、修身殿、これから毎日寝る前に一日の振り返りをするのだ」

 障子を通して部屋に射し込む薄い青白い光の中でお師さんは言った。

「振り返り?」

「左様、一日を振り返り自らの行いを振り返るのだ。今から私が5つ質問する。言葉で答える必要はない。自分の中で一日を振り返れ、よいな?」

 真剣な口調だった。お師さんが言葉を口にする度、場の空気が引き締まっていくような感覚があった。

「はい」と、俺は返事をする。

「五省……

 一、至誠に悖るなかりしか。意味は、真心に反することはしなかったか? 

 一、言行に恥ずるなかりしか。意味は、言葉と行動に恥ずかしいことはなかったか? 

 一、気力に缺るなかりしか。意味は、気力が欠けていなかったか?

 一、努力に憾みなかりしか。意味は、努力不足ではなかったか?

 一、不精に亘るなかりしか。意味は、最後まで十分に挑んだか?

 自らの一日を毎日、この時間に振り返れ。五つを省みると書いて五省だ。将棋ではなく自分というものを振り返るのだ。真摯に振り返れば、無駄な一日はなくなり、日々成長を感じれるはずだ」

「五省……わかりました」

 俺は五つの反省を、瞳を閉じて行った。この五つを省みて何もない完璧超人はいないであろう。いくつも気になる点が脳裏を過る。今日より明日、自身の成長を感じるために俺はこの五省を繰り返し考えた。やがて、脳の動きが鈍り考えられなくなると、意識は中空に消え去って行った。

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