九ノ舞
中盤まで俺は理想的な組みを進めることができ、よい感じに指し回せた。しかし、それは結局、そのように指し回せるよう先生が仕向けたに気が付いたのは、終盤に突入した時だった。
俺の前線を突破するため、先生は無謀にも飛車を単騎で突入させてきた。
攻守ともに最強の駒、飛車を簡単に手放すような手を打ってくる。俺は、向こうの意図が見えず、貴重な時間の内二分半使って駒を読むと、恐ろしい駒運びの全容が分かった。
――ここでそんな手を指すのかよ……
完全に俺は先生の掌の上で踊っていただけだった。飛車を犠牲にしたのは俺の前線の銀の効きをかわす生け贄だったのだ。その直後の角行の効かせ上空から桂馬が自陣に侵入してくる。俺は銀将で防戦に入るしかなく、細い穴を広げるように、先生の攻撃隊は俺の自陣に侵入し傷を広げていく未来が見える。
――この動き……俺はいつから居飛車党と戦っていると錯覚していた?
確か先生の戦型は居飛車だったはずだ。だが、戦型は居飛車であっても、指し手の感覚は振り飛車であるため、力戦になると振り飛車の感覚で駒を操る。だから、俺はいつの間にか振り飛車と戦っていたことに気が付いたのだ。それまで俺は居飛車党の指し回しを念頭に駒運びをしていた。
下半身から力が抜け、力の差に愕然とする。本来のスタイルでない居飛車であるにも関わらず、この圧巻の指し回し。先生は敢えて不慣れな居飛車で指しているのだ。おそらく相振り飛車なら瞬殺だったはず。俺が序盤すんなり駒組できたのも、きっと待っていたのだ。そう、駒落ちのないハンデだ。
――どんだけ、手が見えてんだっ!
恐怖にも似た感情が俺の心を侵食していく。
本来、居飛車党は正攻法に攻め、相手の駒を吸収し駒得を狙い、適切な時に駒台に載った駒を戦線に投入していく。しかし、振り飛車党は駒得を優先するより、駒の稼働率を優先する傾向にある。その中でも特に攻めを繋げるため、大駒という価値の高い飛車や角行を温存せず駒交換、時として犠牲にして攻める、それを『捌き』と呼ぶ。
――これが名高い天使の『裁き』
裁きと捌きを掛けた、先生の指し回しの異名。その名を通り、これがまさにそれだ。惜しげもなく大駒を使い、踏み台にして玉の首を獲りにくる。全ての駒を効率よく使う『捌き』の真髄によって弱者は断罪される。
――裁かれし者は……俺か?
俺の持ち時間はすでに残り二分を切っていた。先生はまだ十分残っている。
――こんなに力の差が……
呼吸が浅く、そして速くなる。力の差は無論考えていた。予想の三倍、いやそれ以上だ。
何とか食らいついて、相手の攻撃の隙を突いて相手の陣に龍とと金を潜入させたものの、波状攻撃の前に防戦一方で攻めることすらままならない。
「どうした、そんなものか?」と、先生の問いただす面立ち、そして必死で来いという覚悟を駒を指す度に要求してくる。
先生の蹂躙は止まらない。防御力には定評のある自陣の美濃囲いは先手の角の一撃により削られ、そこから大駒を投入し次々と俺の美濃囲いを啄み、破壊した。
いつしか俺の駒台の上には角、金、歩各二枚、銀、香各一枚。栗林先生は駒台に桂馬二枚となった。
確かに俺は駒得ではあったものの、盤上の俺の玉を護衛する者は前衛の歩三枚だけになり、玉後方には飛車が成ってパワーアップした龍、そして銀が首を狩りに来ていた。
どんだけ手持ちの駒があっても、一度に戦線に投入できるのは一枚だけだ。
――負ける……
先手の玉狩り最後追い込み『詰めろ』が始まる。王手の連続で、玉が逃げれぬまで追い詰める道、すなわち『詰め路』だ。
『投げるか?』と、先生のプレッシャーが俺に放たれる。
投げる、投了、つまり敗北だ。
――投げ……る、だと?
俺の脳裏を投了が浮かびかけ、俺はそれを否定した。
――駄目だ……
盤面に集中する。本当に詰んでいるか、見定める。そうだ、まだ詰んだことを読んだわけじゃない。突破口を見つけろ。
呼吸が速くなり、酸素を求めて体が、脳が喘ぐ。
電子音が鳴り響き機械音声で対局時計が俺の持ち時間切れを告げ、三十秒指しを告げた。
――▲8三龍、▲8三銀成もしくは不成で攻めてくるはずだ……▲6五桂でやられてもまずい……
脳を奮わせ、演算を加速させる。
――△7三金でガード……▲6五桂、△8二金、▲同龍、△6四玉、▲5五金……詰む。
盤上の全てを見る。100メートルを全力疾走しているように苦しい。空気が、酸素が足りない。酸素を求めて一層俺の呼吸が早くなる。額に汗が滲み、ナメクジが這うように頬に滴が垂れた。目を閉じる時間も惜しい。
だが、苦しいはずなのに、何故か脳が猛る。酸素が足りず苦しく、絶体絶命の状況に心が折れそうになっているはずなのに何故が脳が猛るのだ。
――△9二金……ただやん、駄目だ。
「十ビョウ」と時計の機械音声がカウントダウンを響かせる。
一層呼吸が早くなり、血管が皮膚の真相で蠢いているのがわかる、まるで蛇が獲物を狙って這いずるように血流に合わせてうねる。今にも叫びだしたいほどの体の芯から突き動かされる猛る意識。
――駄目だ……
そんな中、突然俺の脳裏に一つの言葉が走った『受け駒を攻められるな、攻め駒を攻めろ』と。
自分の呼吸音と、耳に響く自分の鼓動だけがうるさく脳に響く。俺の脳裏に過った言葉が演算を更に、更に加速させ、この状況を脱する方法の糸口を見出し始めていた。
「二十ビョウ、一、二、三、四」対局時計のカウントダウンが始まる。
――△9四角、△7三金なら受けきれる。
俺は駒台から、角をとり9四角を打つ。その瞬間、栗林先生の眉が少し動いたことを俺は見逃さなかった。少しの間を置いて先手は龍を持つと7一龍と逃げる。
俺は▲7一龍を見て、脳内で何か弾けるような感覚を味わった。同時に、耳の真横で空気が渦を巻いたよな、対流するような音が聞こえてきた。
細胞が酸素を求め信号を発し呼吸を加速させる。全身の筋肉が膨張硬直し、耐えきれなくなった繊維が千切れいていく様が全身に広がる。全てを圧縮するかのように歯を食い縛り、歯茎が圧力に耐えかねて軋む。盤上の全ての動きをとらえようと視界が広がり、瞳が個別の意思を持ったように膨張していくのが不快だった。
脳は俺の体に鞭を打ち付け前進、制圧を指示し、その意識に煽られますます脳が猛る。
駒台から金をとり、7三金打。
しかし、自分では駒をとったつもりが、現実にはその意志に遅れて腕が動く、三秒、いや五秒程度、飽くまでも体感で五秒くらいの間を置いて腕が動いた。
――早く! 7三金打だ!
防御に回る、すなわち受けに回る駒の投入を間違えると、相手に駒を渡すことになり、逆にその駒が玉の首を獲りにくるミイラ取りがミイラになることも多い。だからこそ、玉を攻める駒を攻めるのだ。
――見える……読める……受けきれるっ!
ぼんやりと視えていた先生の手が明確に視えてきた。五里霧中、四面楚歌だったあの状況から脱し俺は盤の駒が視えていた。厳密に言えば、駒の動きの後に視える未来だ。
駒の移動範囲をどういえばよいのだろうか? 形として図形として感じる。いくつもの図形が重なり、最善の図形が視えるのだ。正しく指せば、『受かる』ことのできる筋が俺の脳内に展開する。調子のよい時はぼんやりと感じることがあるのだが、今日は違う、はっきりとその図形を明確に俺に魅せる。これほどはっきりと図が視えるのは初めてだった。
俺の脳が魅せる図形では先手の攻撃を受けきることができる筋を示す。先生の表情もさっきとは変わり緊迫した表情になっていた。
「……ジ……ス…テム?」と、先生が驚いたように何かを呟いた。
先生は俺の玉の首を獲るために詰めろを続ける。が、俺は先手の攻め駒を攻め続け、駒台の大駒を惜しげもなく投入し凌ぎきる。が、相変わらず俺の意思に体が追いてこない。急がなければならないと言うのにだ。それに、三十秒将棋だと言うのに、やけに長く感じる。三十秒とは『こんなにも』長かったか?
――俺のターンだ……と金で……十九手で詰む!
先手の詰めろが止まり隙ができた。その隙をついて俺が『詰めろ』を掛けるターンだった。俺の視界には明確な形に詰みの図形が視えていた。はっきりと、明確に『詰め路』が勝利への道程が視える。
俺は相手陣に入った自軍のと金を掴もうとするが、俺の意志とは裏腹に異常なくらい手が震えて上手く動かない。
「もう……や……」と、先生が何か叫んでいるような気がした。が、視界はぼんやりとして先生の叫ぶ姿がスローになり、二重、三重に見える。
流れ出る汗の量が不快で、俺は袖で拭った。その動きすらも遅く、俺を苛立たせた。
袖に目を向けるとシャツは赤色に染まっていた。汗はポタポタ落ちて、見てみるとネクタイもスラックスも赤く染まっていた。
――なん……だ? これ?
そう、思った瞬間、体が勝手に横に倒れ始めた。
「九、十、ジカンギレデス」
最後に耳に入ったのは時計の機械音声が、切れ負けを伝える声だった。
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